〈村上春樹 特別エッセイ〉こんなに面白い話だったんだ!(全編)


 J.D.サリンジャーは自分の本の中に訳者の「まえがき」とか「あとがき」とか、そういう余分なものを入れることを固く禁じているので、そのかわりにこのような少し変わった形で、訳者からのメッセージを送らせていただくことになる。「余計なものを入れるな。読者は作品だけを読めばよろしい」というサリンジャー氏の基本姿勢もそれなりに理解できるのだが、『フラニーとズーイ』という文芸作品が既に古典として機能していることを考えれば(本国で出版されたのは一九六一年だ)、読者に対してある程度の基本情報を提供することは、翻訳者としてのひとつの責務であると考えるからだ。本だけをぽんと与えて「さあ、読めばわかるだろう」というのでは、やはりいささか不親切に過ぎるのではないか。同時代的な本であればそれでもいいだろうが、古典についていえば、その立ち位置の意味合いや方向性についての最小限の説明は必要となる。そんなわけで、この本に関する僕個人の思いと、本書の成立事情について、故人の安らかな眠りを損なわない程度に簡単に述べたいと思う。

 僕が『フラニーとズーイ』を最初に読んだのは、たしか大学に入ったばかりの頃だった。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んで、言うなれば「若き心」を揺さぶられたあと、この小説を手に取った(おおかたの読者はそういう順番で読んでおられるのではないだろうかと推測するのだが)。この本を読んだという行為そのものの記憶は、今でも明瞭に僕の中に残っている。そしてそれは『キャッチャー』とは別の意味で、不思議に鮮烈な印象をあとに残していったようだ。まるで通過儀礼か何かのように。しかしその一方で、じゃあ僕がその小説の内容のいったいどこに惹かれたのか、それが僕の心をどのように移動させたのか、とあらためて問われると、そのへんがもうひとつ定かではない。話の中のいくつかの部分は、魅力的な情景として頭に鮮やかに焼きついているのだが(たとえば冒頭の駅のシーンとか、ズーイがお風呂に入っているところとか)、話全体としての求心力のありかみたいなものが、今ひとつすんなりと確定できないのだ。そういう意味では──少なくとも十代の僕にとってはということだが──『キャッチャー』よりは複雑な、いささか捉えがたい話だった。
 そしてもうひとつ、「いやに宗教臭かったな」という、どちらかというとネガティヴな思いが残っている。話の後半になって、登場人物たち(つまりズーイとフラニー)がただ座り込んで、宗教の原理についてあれこれ蘊蓄を述べるというか、泣いたり声を荒立てたりしながら生真面目に議論するところが、当時の僕としてはいささかうっとうしかった。この本は言うなれば「議論小説」であり、まさにそこに小説的魅力があり、作家の腕の見せ所があるわけだが、そのへんのところは年若い僕にはまだよく理解できていなかったようだ。言い訳をするのではないが、それはけっこう乱暴な政治的季節であり、フリー・ジャズとかアート・ロックとかハップニング芸術とかがやみくもに流行っている時代だった。だから(というか)僕としてはもう少し勢いよくすこんと抜けた話が読みたかったのかもしれない。

 そんなわけで、翻訳でひととおりすらりと読んだだけで、「もうこれでいいや」と思って、原文をあたってみようという気までは起きなかった。手元に本は置いていたのだが、もう一度あらためて読み返すこともなかった。そうしてみると僕は残念ながら、この小説のあまり良き読者ではなかったということになるだろう。
 しかし今回『フラニーとズーイ』の新訳を出してみないかという相談を出版社から受けて、「うーん、どうしたものか」と迷いつつ、ためしに原文を読み始めてみたのだが、そこで「ええ、なんだ、『フラニーとズーイ』ってこんなに面白い話だったんだ!」と驚嘆することになった。お恥ずかしい話だが、最初に読んでから四十五年ほど経過して、この歳になって、この小説がようやく「腑に落ちた」わけだ。まさに目からぼろぼろと鱗が落ちたような気分だった。そしてずいぶん夢中になり、新しい発見を楽しみながら一気に翻訳してしまった。

『フラニーとズーイ』という小説のどこがそんなに面白いのか? 一人の小説家として率直に意見を言わせていただければ、この小説の面白さはなんといってもその魅力的な文体に尽きる。ハイパーでありながら、計算し尽くされた文体だ。内容がどうこうという以前に、文体の凄さにのっけから打たれてしまう。これはもちろん『キャッチャー』についてもそのまま言えることだが、すべては文体から始まっている。サリンジャーはまず文体というヴィークルをしっかりと設定し、そこになにやらかやらを手当たり次第に積み込み、人々を座席に押し込み、素知らぬ顔でひょいとスタートのスイッチを押す。そのようにして驚異のジェット・コースティングが始まる。そのいさぎよさというか、出所のストレートさに、僕らは息を呑み、恐れ入ってしまうことになる。
 最初の「フラニー」の部分は、文体的にいえばかなり抑制がきいている。素晴らしく上等な文章だが、どちらかといえばそれほどクセがなく、リアリズム小説の文体に近い。彼がそれまで短編小説で用いてきた都会的でおしゃれな、つまり雑誌「ニューヨーカー」風の文体に近いだろう。そこでは一九五〇年代のアメリカの、東部エリート大学に通う裕福そうな大学生の男女の姿が、いうなれば風俗的に生き生きと描かれている。もちろんフラニーの精神的乱調が中心主題になっているわけで、話はそうお気楽には進んでいかないものの、文章自体はいかにも素直で流れが良い。切り詰めた描写と、会話のリズムの良さと、的確な比喩が話を小気味よく前に進めていく。しかしこれはまだエンジンを暖めている段階だ。アクセルはほどほどにしか踏み込まれていない。この調子ですらすらと話が進んでいくのかなと、善良な読者が期待し始めたところで、『フラニー』の部分は意外に短く終わってしまう。「あれっ?」という感じで。そしてそのあと一息置いて、アクセルがぐいと踏み込まれ、エンジンの回転がはね上がり、サリンジャー的饒舌がまさに全開の『ズーイ』の章が、勢いよくコースに飛び出していく。

 僕が今回、この『フラニーとズーイ』を原文で読んで驚嘆し、唖然としたのは、とくに『ズーイ』部分の文体の面白さだった。とにかく凝りに凝っている。この凝りまくり具合を翻訳にそのまま移し替えるのは、正直なところきわめてむずかしい作業になる。原文の洗練された巧みな技をできる限り活かしながら、その鋭い切っ先を鈍らせないようにしながら、日本語として滑りの良い表現に変えていくのは、ずいぶん工夫を要する作業だった。僕が十代の頃に翻訳で読んでもうひとつ乗り切れなかったのは、あるいはそのせいもあるかもしれない。これは翻訳の善し悪しではなく、あくまで文章リズムの個人的相性の問題であろうと思う。
 じゃあ、おまえの訳ではその原文の雰囲気がしっかり活かされているのかと問われると、もちろんそこまでの自信はない。自信があるなんて、とてもじゃないが言えない。ただ僕としては、ぐるぐると高速回転しながらあちこちに忙しく移動するサリンジャーの文章的視点を、共時的に追いかけていけるだけのフットワークを、なんとか確保し続けたいと思いながら、彼の文章に(いうなれば)しつこく食らいついていった。サリンジャーの文章は何しろ自由自在に変化していく。あちらと思えばまたこちら、という具合だ。その目覚ましく素早いツイストやピヴォット(軸足回転)に惑わされないことが大事になる。リズムを一貫して維持すること、共時的体験であることを同時代的体験に繋げていくこと、それがこの翻訳にあたっての基本的な姿勢だった。
『ズーイ』部分はグラス兄弟の次男であり、今は小説家になって、田舎に閉じこもっているバディーがこれを書いている──バディー自身の表現を借りればホーム・ムーヴィーを撮影している──という設定になっている。冒頭の部分にそういう(いささかもってまわった)エクスキューズがある。つまりサリンジャーはここでは、バディー・グラスという架空の作家の文体を借用して小説を書いていることになる。というわけで、話は最初から入れ子的な色彩を帯びてくる。
 もちろんバディーはサリンジャーの投影であるわけだが、バディーはそのままサリンジャー自身ではない。サリンジャーはバディーという作家の文体をでっちあげている。その両者の文体の落差は、最初から最後まできちんと几帳面なまでに維持されている。そしてサリンジャーはその意図的な落差をたっぷり楽しみながら、小説を書いているように見受けられる。自分でありながらしかも自分でないことの歓びみたいなものを、いたるところで気持ちよさそうにナチュラルに噴出させている。しかしこのような作業は言うまでもなく、非常に高度な文章力を要求する。僕がまず感心したのは、そういうテクニカルなレベルの高さだった。こんなことがすんなりできてしまう作家はちょっといない。

 その技巧的な(仮面的な)文体にもうひとつ絡んでくるのが、ズーイという青年(グラス家五男)のかなり風変わりな語り口だ。バディーの文章スタイルも相当に饒舌かつ装飾的だが、ズーイの弁舌もそれに輪をかけてハイパーでユニークだ。その二つの特徴的なヴォイスが絡み合い、もつれ合い、刺激し合いながら、この本の中を縦横無尽に駆け巡る。そのような機知に富んだ、圧倒的にパワフルな文章的展開が、この『フラニーとズーイ』という小説の原動力になる。あくまで密室的な話なのに、そしてややこしい議論だらけの話なのに、それでいて物語の足取りが止まってしまうことはない。たいしたものだ。読み終えると、『フラニー』の部分は優れて魅力的な話ではあるけれど、結局は本命『ズーイ』に至るまでのチャーミングな序章に過ぎなかったんだなと深く実感させられることになる。サリンジャーは『ズーイ』の書き直しに相当長い日にちをかけているが、これはたしかにずいぶん骨の折れる困難な作業だっただろうと推察する。隅々まで丁寧に、怠りなく磨き上げられた文章だ。
 僕はこの『ズーイ』部分の文章的圧倒性は、『キャッチャー』のあのわくわくする新鮮な文体にじゅうぶん匹敵する力を持ったものであると思っている。『キャッチャー』の文体ももちろん魅力的でパワフルだが、これは最初から最後まで一人称のヴォイスで語られており、小説的技巧としてはよりシンプルだ。しかし『ズーイ』はストイックなまでに三人称で書かれている。そこに『ズーイ』の小説的面白さがあるし、サリンジャーの作家としての野心もある。今更『キャッチャー』と同じことはしたくない、という彼の矜持のようなものもうかがえる。そしてその彼の意図は見事に成功している。
 しかしながら、このように生命力に溢れる豊かで強靭な文体を、サリンジャーはその後二度と手にすることはなかったようだ。どうしてかはわからない。彼はそのような文章的洗練性にもう興味が持てなくなっていったのかもしれない。そういう文体はあまりに技巧的すぎるし、ちゃらちゃらしたある種の「見せびらかし」に通じていると考えたのかもしれない。つまり、フラニー・グラスならそう考えたかもしれないように。
 作家として、ひとつの場所にいつまでも留まりたくないというサリンジャーの気概はそれなりに理解できるし、どのような方向に進んでいくかはもちろん作者の自由に任されているわけだが、その闊達な文体が以後、より原理主義的なものに、より狭隘なものに推移していった(ように見える)ことは、あくまで一読者として個人的な意見を言わせていただければだが、いささか残念である。

 さて、この小説の「宗教臭さ」については正直なところ、今読み返してみてもいかんともしがたいところがある。作者自身が当時、宗教(東洋哲学)に深くはまっていて、それを実践する形で半ば隠遁的な生活を送っており、何を書いてもすべて宗教性に向かってしまうという状態にあった。彼自身「今の私は、もし盗まれたスニーカーについて物語を書いたとしても、結局はお説教に行き着くことだろう」というようなことを述べている。そのような「宗教臭さ」はところどころでいくぶん図式的に流れもするし、それは一般的読者を少なからず辟易させることになるかもしれない(かつての僕がそう感じたのと同じように)。そのことは本書のひとつの弱点になっているかもしれない。
 ただひとつご理解いただきたいのは、一九五〇年代のアメリカにおいては、東洋哲学や原始キリスト教の教義は、おそらく現在よりもずっと切迫した、リアルな存在性を持っていたという事実だ。ビート・ジェネレーションへと繋がっていくひとつの思想的ファッションとなっていた、と言ってしまってもいいかもしれない(もちろんサリンジャーの場合はそれは単なるファッションに留まらず、良くも悪くも彼を全的に包含していったわけだが)。それらの宗教性が意味するのは反物質主義であり、反プラグマティズムであり、圧倒的繁栄を無反省に享受するアメリカ社会への静かなる「ノー」であった。冷たく硬直したアカデミズムや、想像力を欠いた画一的メディアに対する「ノー」でもあった。また同時にそれは、第二次大戦に兵士として従軍し、数々の激戦の中をくぐり抜けてきたサリンジャーが背負うことになった深いトラウマの、切実な癒やしの手段であり、ヒューマニティー回復への大事な道筋でもあった。そして──これはかなり重要なことだが──そのような宗教性は当時まだ、今日見られるような不幸な「カルトの傷痕」を負ってはいなかった。
 今日我々がこの『フラニーとズーイ』を読むとき、おそらく読者の大部分はそこにある宗教的言説を、実践的な導きの方法としてではなく、むしろひとつの歴史的引用として、一種の精神的メタファーとして処理しながら読み進むことになるのではないかと思う。そういう文脈で読んでいけば、読者は表面的な「宗教臭さ」に惑わされることなく、この物語の核心に比較的容易に、率直に迫ることができるのではないだろうか。サリンジャーの語ろうとしていることも、宗教の固定された教義ではなく、むしろ流動的で一般的な「求神性」にあるのだから。そのようなわけで宗教的用語や背景については、どうしても必要なものを別にして、あまり細かく訳注を入れないことにした。それは小説を読むことの喜びをかなり削いでしまうことになるかもしれないから。そういうことに興味のある読者は、申し訳ないが、ご自分で文献などをあたっていただきたいと思う。一般読者にとっては、そういう細部の事実がわからないと、この小説の意味が本当には理解できないというようなことはないと僕は考えている。

 最近になって(つまりその死と前後して)サリンジャーの伝記や、彼についてのメモワールや評論が何冊か新たに出版され、これまであまり知られていなかった数多くの事実が明らかになってきた。『フラニーとズーイ』の成立前後の事情について、ここで簡単に記述しておきたい。
 一九五一年に出版された長編小説『キャッチャー・イン・ザ・ライ』がベストセラーになり、異例に大きな反響を呼んだあと、一九五三年に短編集『ナイン・ストーリーズ』が出版され、これも読書家の間で高い評価を受けた。この二冊の本によって、J.D.サリンジャーという若手作家の名は一躍、文壇のトップに躍り出ることになる。そして一九五五年の初めに『フラニーとズーイ』の『フラニー』部分が独立した短編小説として「ニューヨーカー」誌に発表された。この時点では読者はこの小説がどのように発展していくか、そもそも発展していくものなのかどうか、まったく知らされていない。しかしその評判は素晴らしかった。作品は全国的に話題になり、雑誌は飛ぶように売れた。
 ただしこの作品には、一般の読者を戸惑わせる部分が少なからず含まれていた。レーン・クーテルの人物設定はあまりにも類型的だし(アカデミズムに対する、東部知的エリートに対する作者の敵意がむき出しになっている)、フラニー・グラスはある意味青臭く独善的だし、彼女が夢中になって読んでいる『巡礼の道』という書物の存在意味も今ひとつ不明確だ。しかし見事に的確な描写と、ストーリー・テリングの妙、設定された状況の若々しさと華やかさが、それらの問題をじゅうぶんカバーしている。「ニューヨーカー」の読者たちはその作品を、細かいところはさておき、ミステリアスな要素を含んだひとつのパッケージとして進んで、熱烈に受け入れた。その反響は予想を超えて大きく、作品を巡ってあちこちで様々な見解や意見が生まれた。そして少なからぬ数の読者は──批評家たちをも含めて──フラニーの身体的不調と失神を、彼女が妊娠しているせいであると考えた。そしてその誤解は繊細なサリンジャーの神経を苛立たせた。まあ当然のことだろう。フラニーにとっての「実存の危機」のしるしが、妊娠というような身体的問題として片付けられたら、作品の意味が失われてしまう。そのような誤解が解消されるには、続編『ズーイ』の登場を待たなくてはならなかった。

 これはあくまでも僕の個人的意見だが、『フラニー』という作品には、サリンジャーがどことなく自分の作家としてのポジションを決めかねている印象がうかがえる。サリンジャーにはお洒落で知的な「ニューヨーカー」風の人気作家であり続けたいという思いと共に(その雑誌が払ってくれる高い原稿料は、彼にとっては大事な収入だった)、より真摯で、より大柄な作家になりたいという思いもあった。『フラニー』は言うなれば、その中間地点から生まれた作品であるように見受けられる。作家はまだ両方向に目を向けている。しかしそのような彼の迷いは、決してこの小説の瑕疵とはなっていない。むしろここでは、その微妙な「揺れ」がチャーミングな魅力となって機能している。しかしその続編『ズーイ』に取りかかった段階では、サリンジャーは既にはっきり心を定めていたようだ。一連の文学的成功のあと、彼は自分の才能に確かな自信を持ち、より意欲的で真摯な小説へと、自分の魂に正直な小説へと、歩を向けていくことになる。
 しかしながらサリンジャーは『ズーイ』部分に取りかかる前に、おそらくはその準備段階として、長めの短編小説(あるいは短めの中編小説)『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』を書きあげた。「グラス家サーガ」の一部をなすことを期待されたこの小説の主人公は、次男のバディー・グラスだ。話は過去にさかのぼり、やがて自殺を遂げる長男シーモアも、この時点ではまだ存命である。ニューヨーク市内で開かれるシーモアの結婚式がこの小説の舞台になっているわけだが、シーモア自身はなぜかここに登場しない。というか、彼が不在であることが、まさにこの小説の中心的主題になっている。まことに達者な筆で書かれたこの素敵な作品は「ニューヨーカー」の一九五五年十一月十九日号に掲載され、やはり読者の絶賛を博した。文体には質の良いユーモアがあり、とても読みやすい作品になっているが、知的な気配りが隅々まで充実していて、読者におもねった姿勢はまったくない。

 この一九五五年はサリンジャーにとっては重要な意味を持つ年で、その二月に彼はクレア・ダグラスと結婚し、十二月には女児をもうけている。そして一般にクレアはフラニーの原型だと考えられている。クレアはサリンジャーより十五歳年下、美しく利発な、そしてエネルギーに溢れる女性で、東部エリート女子大ラドクリフに在籍していた。二人は人里離れたニュー・ハンプシャー州コーニッシュで、宗教教義を実践する、世間から孤立した清廉な生活を送ることになった。
 サリンジャーは『ズーイ』の執筆にたっぷり一年半をかけた。かなり力を入れたわけだ。彼としてはこの作品もまた、長大で立体的な「グラス家サーガ」(もしそれが完成していれば、中世の巨大なカセドラルのような威容を誇っていたに違いない)のひとつのピースとするつもりでいたのだが、とりあえずは話の流れが時間的に繋がっている『フラニー』部分と合体して、『フラニーとズーイ』という形で出版することにした。
 ただしこの意欲作『ズーイ』は当初「ニューヨーカー」に掲載を拒絶された。そのひとつの理由としては、作品があまりに長すぎたことがあげられる。その後時間をかけて短縮されたものでさえ、「ニューヨーカー」が掲載する一般的な短編小説のゆうに四倍の長さがあった。おかげでその作品が掲載された一九五七年五月十七日号には、他の記事を掲載する余地はほとんど残されていなかったほどだ。
「ニューヨーカー」がその作品の掲載を渋ったもう一つの(そしてより大きな)理由は、作品の内容が「宗教的すぎる」ことだった。そこでは信仰と文学性とが、メッセージと物語とが、渾然一体となって混じり合い、腑分けがほとんど不可能になっている。それは「ニューヨーカー」という洗練された都会派の雑誌の持ち味にはそぐわないことだった。文芸担当の編集者たちが二の足を踏んだのは、まあ当然のことだったかもしれない。彼らは協議を重ね、全員一致でこの作品の不採用を決定した。
 しかし編集長のウィリアム・ショーンは、サリンジャーという希有な作家と、自分の雑誌の結びつきを何にも増して重要なものと考え(実に妥当な考えだ)、編集者たちの決定を一存でひっくり返し、『ズーイ』採用掲載を決定し、著者に巨額の稿料を支払った。そして編集長自らが担当編集者となり(きわめて異例なことだ)、サリンジャーと共にその作品の改稿に没頭した。ショーンはかなりの変人として知られていたが、文学に対しては鋭い嗅覚を具えており、多くの作家たちから敬意を抱かれていた。編集者たちも彼に異議を唱えることはできなかった。

 サリンジャーはコーニッシュでの隠遁生活をしばしば中断し、ニューヨークに出てきて、ショーンのオフィスに二人で籠もり、文章を徹底的に練り上げ、作品をよりひきしまった、コンパクトなものに変えていった。二人はその改稿・短縮作業にみっちり六ヶ月をかけ、おかげで作品は当初よりかなり短いものになったということだが、オリジナルの作品の長さがどれほどのものであったかは今となってはわからない。
『ズーイ』もやはり読者の好評を博した。批評家の一部からの厳しい意見には晒されたが、サリンジャーの新しい作品、とくに『フラニー』の続編を今か今かと待ち望んでいた読者にとって、そこにある宗教臭さはそれほど(「ニューヨーカー」の文芸担当者が案じたほど)気にならなかったようだ。またひとつには、サリンジャーには既に多くの数の「固定ファン」がついており、彼らの間ではサリンジャーは単なる小説家というに留まらず、むしろひとつの伝説のような存在になり始めていたという事実がある。その内容に含まれた宗教性は読者を遠ざけるよりはむしろ、作家の伝説をますます強化する助けになったとさえ言えるかもしれない。むきだしの原理的な宗教論議を、文学の領域にまですんなり昇華してしまえるこの作家の特異な、言うなれば変則的なパワーに、そのような読者たちは感心し、舌を巻くことになった。
 また一九五〇年代、アイゼンハワー大統領治下のアメリカの強固な冷戦体制、マス・プロダクトによる画一化、資本主義礼賛の嬌声の中で、新しい価値を模索する多くの若者たちが、サリンジャーの提示する清廉な精神主義に心を惹かれたことも大きいだろう(そういう意味では、サリンジャーは一連のビート文学の先を行っていた)。『キャッチャー』のホールデン・コールフィールドが叫んだ社会への痛切な「ノー」は、『ズーイ』のズーイ・グラスが最後に魂から搾り出した「イエス」へと高められ、その昇華された転換は多くの読者の心を打った。そして彼の作品に登場する魅力的な主人公たちは、人々の心の中で作者サリンジャー自身の姿と重なり合い、避けがたく一体化していくことになった。

 このような作品成立の経緯を考えれば、サリンジャーが単行本『フラニーとズーイ』の冒頭に、ウィリアム・ショーンに対する以下のような心のこもった、そしていかにも「ニューヨーカー」派作家らしいひねりのある洒落た謝辞を掲げたのも、当然のことだったかもしれない。ウィリアム・ショーンがいなければ、そして彼の並外れた熱意がなければ、今日ある形での『フラニーとズーイ』はおそらく存在しなかっただろうから(当時の「ニューヨーカー」にはそれだけの迫力と革新性があったのだ。そんな雑誌が他にあるだろうか?)。

〈昼食の同席者に冷えたライマ・ビーンを受け取ることを強要する、一歳になるマシュー・サリンジャーに限りなく近い精神をもって、私は私の編集者にして導師にして、そして(気の毒にも)最も親しい友人にして、「ニューヨーカー」誌の守護神にして、途方もない企てを愛するものにして、多産ならざるものの保護者にして、救いがたくけばけばしきものの弁護人にして、飛び抜けて慎み深い生来の芸術家=編集者であるウィリアム・ショーンに、このずいぶん貧相な見かけの本を受け取ってもらうことを強要する〉

『ズーイ』の改稿作業に日夜没頭することによって、サリンジャーとウィリアム・ショーンの友情と信頼はより深まったものの、それといわば引き替えに、生まれて間もない赤ん坊と共にほとんど置き去り状態にされた妻のクレアとの溝はますます深まり、それはやがて家庭の崩壊、夫婦の別離をもたらすことになった。サリンジャーはそれほどまでに『ズーイ』という作品に激しくのめりこんでいたのだ。彼は自らの現実のファミリーよりも、グラス家という「架空のファミリー」を選んだのだと言われても、致し方ないところがある。サリンジャーにもともと、生々しい実際の現実生活よりは美しい観念、人工的な設定を選択する傾向があったことは、否定しがたいところである。生身の人間が持つ──持たざるを得ない──質感は、彼にとってはあまりに圧迫的なものだった。
 妻と赤ん坊に去られたあと、サリンジャーの孤立は──現実の生活においても文学性においても──ますます深刻なものになっていく。その文体はどんどん煮詰まり、テーマは純化され、彼の物語はかつての自由闊達な動きを急速に失っていく。そして彼の書くものは、読者から避けがたく乖離していくことになる。我々はおそらくこの『フラニーとズーイ』という作品を、サリンジャーが極度の孤立化・内向化に向かう直前に書き上げた、目を見張るような「曲芸的傑作」として受け取るべきなのかもしれない。とはいえ、お読みになっていただければわかるように、成立の経緯はきわめて曲芸的でありながらも、そこに込められた文学的志はずいぶんまっすぐなものだ。そのバランスはぎりぎりのところで美しく保たれている。いや、ぎりぎりであるからこそ美しいと言うべきなのか……。

 訳者としては、これからも時代を超え、この『フラニーとズーイ』が、古典として、また同時代的な意味を持つ作品として、長く読み継がれていくことを望む。若い読者には若い読み方ができるし、成熟した読者には成熟した読み方ができる、きわめて優れた質を具えた文芸作品であると信じている。ナイーヴであると同時に技術的にはきわめて高度な、原理的・根源的であると同時にどこまでも優しい魂を持った魅力的な小説だ。丁寧に描き込まれた印象的な細部には、思わず心を奪われてしまう。いたるところに、そのあらゆる隅っこに、まるでだまし絵のように隠喩が潜んでいる。内容的に、たとえば『キャッチャー』と比べて、決して万人向けとは言えないところはあるかもしれないが、小説好きの人なら人生の中で一度、あるいは二度、読んでみるだけの、それもゆっくり時間をかけて読んでみるだけの価値のある希有な作品だ。本の大半を占める『ズーイ』の章に登場する素敵な人物たちは──猫のブルームバーグをべつにすればたった三人だ!──うまくいけばきっといつまでも、血肉を持つものとしてあなたの心の中に残り続けることだろう。

 本書の翻訳に関しては『キャッチャー』のときと同じように、柴田元幸さんのお世話になった。いつものように僕が翻訳原稿を完成し、初校が出る前の段階で、二人で一日がかりで訳文の問題点を検討した。朝の十時から夜の八時まで、ほとんど休みなしで額を付き合わせ、「ああでもない・こうでもない」と話し合った。もちろんくたくたに疲れたけれど、例によって面白い、興味尽きない作業だった。柴田さんとのセッションは本当に良い勉強になる。
 本書の訳題はこれまで『フラニーとゾーイー』が一般的だった。Zooeyという名前の発音をいろんなアメリカ人に尋ねてみたのだが、「ズーイ」と発音する人もいれば、「ゾーイ」と発音する人もいて、翻訳者としてはどちらとも決めかねるところだ。ただ「ズーイ」派の方が数としていくぶん多かったのと、二〇一三年に公開されたドキュメンタリー映画『サリンジャー』でも「ズーイ」という発音で統一されていたこと、また僕が昔から個人的に「ズーイ」という語感をより好むという理由もあり、ここでは「ズーイ」の方をとらせていただいた。


(c) 2014 Haruki Murakami. All rights reserved. 無断転載禁止

『フラニーとズーイ』
J.D.サリンジャー 村上春樹・訳

アメリカ東部の名門大学に通うグラス家の美しい末娘フラニーと俳優で五歳年上の兄ズーイ。物語は登場人物たちの都会的な会話に溢れ、深い隠喩に満ちている。エゴだらけの世界に欺瞞を覚え、小さな宗教書に魂の救済を求めるフラニー。ズーイは才気とユーモアに富む渾身の言葉で自分の殻に閉じこもる妹を救い出す。ナイーヴで優しい魂を持ったサリンジャー文学の傑作。──村上春樹による新訳!

新潮文庫 ISBN:978-4-10-205704-9 発売日:2014/03/01 680円(定価)

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