新潮社

1Q84 10歳の子どもたちの物語

岩宮恵子

 この本を読み終わったとき、自分が少し違った人間になったような気がした。「さきがけ」が存在し、17歳の少女ふかえりの『空気さなぎ』がベストセラーになった1Q84年から25年たった200Q年に自分が紛れ込んでいるような感覚が今も続いている。
 この物語は、善と悪、光と影、被害者と加害者など、対立する概念が絡み合い、複雑な入れ子のような構造になっている。とても簡単にあらすじを語れない物語であるが、ここではその対立概念の接点のあちこちに「10歳」の子どものエピソードが置かれていることから考えてみよう。
天吾にとって、自分の核になる体験は1歳半のときの母の記憶だった。彼にはその記憶の意味するものはわからなかったが、それは、時としてめまいの発作のように身体的な影響を与えて襲ってくるほどに強烈なものだった。しかし、ふかえりの『空気さなぎ』という稚拙ではあるが人の心に訴えかける幻想的な物語に真剣に深くコミットし、リライトしたことがきっかけとなって、天吾には別の記憶が立ち上がってくる。それは、10歳の時の記憶だった。
 天吾の10歳の時の記憶というのは、もう一人の主人公である青豆にかかわるものだ。10歳の時、誰もいない教室で青豆は天吾の手を強くにぎり、じっと目を見つめたのである。青豆にとっても、この天吾との体験の記憶は非常に大切なものだった。いや、それは単に大切だというような言葉で言い表せるものではなく、青豆と天吾にとってその後の自分の人生の起点になるような体験だったのである。青豆はその体験を支えに自分を特異な世界に縛り付けていた両親から離れることを決意した。天吾も初めて父親に自己主張をし、自分自身を生きる方向へと人生の舵をとったのである。つまり自分を傷つけるものであり、他の人との関係を切断してしまうものでもあった父的なものの呪縛(現実の父という意味だけでなく、子どもを圧倒的に支配する力の象徴としての父)に、青豆も天吾も10歳の時に立ち向かっている。
 一方、ふかえりにとっての10歳は、幸せな子ども時代の終焉だった。また、青豆と擬似的な友人関係になるあゆみにとっても、10歳という年齢は兄や叔父から性的ないたずらを受けた年であった。そしてつばさちゃんという「さきがけ」の教祖から性的な被害を受けた子も、10歳である。この人たちの10歳は、圧倒的な力によって損なわれてしまっている。
 10歳は、子どもとしての完成に近づいている年齢であり、第二次性徴を始めとする思春期のさまざまな混乱を迎える直前の臨界点にある年齢であると言っていいだろう。また、ふかえりは17歳であるが、胸だけは美しく大きくなっているものの、他の第二次性徴はまったく訪れず、10歳のままで封印されている。10歳の臨界性をそのまま内包しているような存在なのである。
 青豆と天吾は、どんなに惹かれあっていたとしても、1984では出会うことはできない。いや、自分が相手に惹かれているということすら、1984の世界では思い出すことが難しいかもしれない。青豆と天吾が接点を見出すため、つまり10歳の真実の記憶を現実のものとするためには、暴力に圧倒される10歳の子どもたちの物語が存在する1Q84の世界が必要になってくるのである。
 今を生きている多くの大人たちは、システムに縛られ、個人として考える力を失い、無力感に苛まれ、漠然とした不幸を感じて生きている。天吾は、ここにある世界の過去を書き換えるために、ここではない世界の物語が必要になると考えている。過去の自分の記憶の意味づけが変わるというのは、自分が今生きている世界の意味が変わるということである。
 集合的には1984年という過去の、そして個人的には10歳という子どもとしての臨界点を示す時期の記憶の意味づけの変化が、今の時代を生きていくために切実に必要になっている。ここではない世界の物語を、真実の記憶としてここまで緻密にリアルに照射してくる作品は他にない。だからこそ、自分の生きている世界の意味を少しでも書き換える体験を求めて、人はこれほどまでに村上春樹の物語を求めるのだろう。

(いわみや・けいこ 臨床心理士・島根大学教授)
波 2009年7月号より

単行本

1Q84 BOOK1

村上春樹/著
発売日 2009年5月29日
1,944円(定価)

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