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発言 神戸・吉野・愛知
田中康夫

 資金量五兆円を超える銀行に対する東京都の「新税」導入と、金融再生委員長の座を失った国会議員の「手心」発言は、実は同じ“心智(メンタリティ)”に基づくのです。信用金庫や信用組合なる範疇の金融機関には“配慮”を加えて差し上げよう、との「不公平」に於いて。
 と語り始めた僕とて、「前」金融再生委員長を擁護する気など有りません。彼が属する政党は長きに亘って、信金や信組のみならず銀行に対しても、懇篤なる「手心」を加え続けてきたのですから。全ての金融機関は我が後援者(パトロン)、との強欲な慢心の下。
 他方、与野党の別なく都議会議員の後援者(パトロン)は銀行に非ず信金や信組なり、と看破したのが都知事でした。“判官贔屓”な意識を有する“ウルトラ無党派”の納税者に加え、海千山千な都議会議員も諸手を挙げて賛同するに至った、それが理由です。
「新税」導入が貸し渋りと雇用不安の解消を齎す訳ではなく、更には全国で七割もの企業が、所得課税を免れる赤字法人として存在する摩訶不思議な現象にメスが入れられた訳でもなく、が、人々は溜飲を下げているのです。それは、全国各地で生起している住民投票なる"平成の自由民権運動”が耳目を集める現象とも、少なからず同根ではあるのでしょう。
 成熟化という名の閉塞化した社会で疾風迅雷(ドラスティック)な変化は期待しにくく、加えて、その社会を司る「政官財」の自浄機能と危機意識の欠落に、不満は市井で鬱積しています。然りとて、二・二六事件的クーデターを懇望する程の自暴自棄には未だ至らず、間接民主主義を端から否定する心算とて。であればこそ、一つの大きな問題に関して直接、自分の意見が表明可能な住民投票に期待を寄せるのです。
 それは、「豊かな時代」の結婚や家族の在り方とも似ています。夫なり父が“闘う家長”であった往時、その命令は絶対で、異議申立は許されませんでした。今は違います。縦しんば、夫婦間や家族間に愛情は満ち溢れていようとも、例えば、食事の際に無闇矢鱈と舌鼓を打つのだけは止めて欲しい、と臆せず忠言する時代なのです。
 にも拘らず、誰が金を稼いでると思ってるんだ、誰が家を建てたと思ってるんだ、と頭ごなしに怒鳴り付けられたなら、“心の溝”は確実に広がります。想いが伝わらなかった家族の側が即刻、離婚や家出を実行に移す訳ではないにせよ。
 国政・地方の別なく、選挙の度に欠かさず投票所に足を運ぶ、今時“奇特”な有権者とて、名前を記した候補者を全面的に信任した訳ではありません。にも拘らず、私の公約は、と個人の貌で叫んでいた人物は当選後、我が党の施策は、と組織の鎧で語り始め、党議拘束なる“大義名分”の下、有権者が期待していたのとは180°異なる賛否表明を、往々にして行うのです。
 投票所に足を運んだ記憶なんぞ、片手で数える程にも甦らぬ“ウルトラ無党派”な有権者とて、裏切られた気持は一緒です。否、彼らや彼女らの方が、より一層、興醒めの度合いは強いかも知れません。鶏か卵か、議論の余地が残りはするものの、政治にも経済にも社会にも少なからず関心を抱く“ウルトラ無党派”は、であればこそ猶の事、投票なる権利を放棄し勝ちなのです。
 住民投票は異なります。繰り返しますが、イエスかノーか、一つの事柄に対して自身の見解を投じられるのです。家長が執り行う間接民主主義を認めた上での、家族会議という直接民主主義。諸所彼処で金属疲労を起こす間接民主主義に対する援軍でこそあれ、賊軍でもなければ敵軍でもないのです。
 とは言え、神戸の地に於けるムーブメント以前は、NIB的“心智(メンタリティ)”の住民投票が大半でした。「ウチの軒先だけには御免だよ(Not in my backyard)」。原発・基地・産廃。所謂、迷惑施設を巡る住民投票です。
 78年以降は原発を一基も国内に新設せぬ米国が、以前に増して他国へは盛んに売り込む“矛盾”にも似て、ならば永田町と霞が関の真下に先ずは設け、その後に“痛み分け”を「地方」に求めるべきではあるまいか。との異議申し立てを反駁し得る理屈は、幸か不幸か見当たりますまい。基地も同様。
 而して、住民投票は衆愚政治の極み、と声高に語る面々とて、自分が暮らす町内に産業廃棄物処理施設の建設計画が持ち上がったなら、産廃物減量化の自助的方策論議など棚上げした儘、NIB的理屈を捏ね始めるでしょう。その意味で、神戸市が事業主の空港建設の是非を問う住民投票ムーブメントを、「朝日」「毎日」のみならず「産経」「読売」も社説で支持を表明したのは、それが優れて脱・NIB的で、更には神戸市なる地方自治の範囲内で解決可能な案件だったからです。
 伊丹・関空と何れの二空港にも中心部から公共交通機関で40分、新幹線も停まる政令都市が、震災前から二兆円を超える借金を抱えるにも拘らず総事業費一兆円と公言の海上“市営”空港を未だ夢想する、その費用対効果の程は明白です。加えて、産廃物処理施設を巡る住民投票の“玉突きゲーム的身勝手”とは、対極に位置します。計画が中止されたなら、有り得べき航空機騒音から、周囲の自治体住民も解放されるのですから。
 然し乍ら、氏名・生年月日・住所の自署に加えて捺印若しくは拇印をも地方自治法が定めし、住民投票条例制定を求める35万人に及ぶ署名簿は、一部の政党即ち共産の党勢拡大運動に他ならぬ、と唱和する自民・民主・公明・自由・社民の各党所属市会議員の反対により、灰燼に帰しました。
 人工島に高層住宅が建ち並ぶ六甲アイランドでも、有権者の半数余りが署名に応じた事実が物語る様に、それは党勢拡大運動とは凡そ無縁な“ウルトラ無党派”の個々人運動だったにも拘らず。この辺りの詳細は、僕が代表を務める市民グループのホームページで、「新潮45」に寄稿した「日本の平壌『神戸市』」を始めとする論考を、更にはムーブメントに呼応した350名に及ぶ「表現者」の氏名も御覧戴けます。
 とまれ、その轍を踏まず、“ウルトラ無党派”な市民グループを母体としてスタートした、吉野川可動堰を巡る徳島市での住民投票ムーブメントは、共産・民主の政党関係者も個人の資格で参加する原則を徹底し、建設推進派の政党からの批判を封じました。
 而して愛知では近時、万博に名を借りた里山を破壊する宅地開発計画ではないか、と博覧会国際事務局(BIE)から批判を受けた「愛知環境万博」の在り方を巡って、画期的PI(パブリック・インヴォルヴメント)の動きが見られます。新たに会場用地に組み込まれた開発済みの青少年公園に展示館を集約し、海上の森なる里山は環境レンジャーと共にエコ・ツーリズムを体験する空間として保全しよう、とのNPOからの提案に、愛知県も地元財界も賛意を示し始めています。
 海上の森での中高層住宅建設に猶も固執する通産省。賛成・反対の二択式住民投票で愛知万博を問おうと画策する共産党。何れの守旧的“心智(メンタリティ)”とも異なり、それは「二項対立」を遥かに超えた画期的PIの試みです。東西の通過地点に甘んじていた愛知は、或いは日本で最も進んだ都市へと躍り出る可能性を目下、秘めているのかも知れません。

「神戸市民投票を実現する会」のホームページ
 http://www.kobe-airport.gr.jp