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鏡 川
安岡章太郎

 私は毎日、散歩する。どうかすると日に二、三度にお
よぶこともある。天候さへ良ければ、とにかく必ず歩く。
 べつに何処を歩くと決めたわけではない。以前はカメ
ノコ山と称する多摩川べりの丘の上から、川沿ひの土堤
を等々力渓谷めがけて行くことが多かつたが、晩秋から
冬、初春にかけては日当りの好くない渓谷にはあまり足
が向かず、土堤から川原の径を歩くことが多い。しかし
歩きながら私は、そこが多摩川だとは思つてゐない。も
つと自分から離れた処、たとへば東京の東郊、江戸川や、
大阪の淀川、あるひは高知の鏡川なんかを、漫然とかん
がへながら歩いてゐる。
 江戸川は、たぶん私が物心ついて最初に見た川だ。私
は高知県に生れたが、生後、二、三ケ月で千葉の市川に
つれて来られ、さらに川向うの場末町、小岩に移つた。
それからも市川と小岩の間を何度も往復して暮らした。
はつきりと憶えてゐるのは、まだ四、五歳の頃、市川の
家の隣にゐたチューちやんといふ中学生に連れられて、
江戸川の川沿ひのカフェーに入つたことだ。私は女給さ
んにかこまれてハヤシライスを食べ、チューちやんは得
意げにタバコを吹かして、時どき鼻の穴から煙を出して
ゐた。帰りがけに、チューちやんから「ここへ来たこと
は、母ァちやんにも誰にも言ふんぢやないよ」と、念を
押されたことが頭に残つてゐる。
 市川には、江戸川の支流の真間川といふのがあつて、
子供の頃には随分深くて大きな川のやうに思つてゐたが、
いま見ると哀れなドブ川にすぎない。私は幼稚園に迎へ
に来てくれた母と、この真間川の岸辺で別れたときのこ
とを、今以つてはつきりと覚えてゐる。何も母とは、こ
こで別れたきりになつたわけではない。ただ私は、自分
が一人きりで家へ帰るのだと思ふと、その真間川の流れ
が一しゆん淵のやうに不気味なものに感じられて、心の
どこかで川底に引きこまれて行きさうな情無い気分をお
ぼえたやうだ。
 淀川は、いふまでもなく京大阪を結ぶ川で、関西に住
んだことのない私には、その川に格別の想ひがあるわけ
ではない。ただ、私の母は東京で生れたが、物心つく頃
には大阪に移つて何年かを過ごしてをり、「あんたはん、
おてんさんだつさいな」と、そんなことをへんな節回し
で唱ふやうに言つて遊んだ話を、時々漏らしたりする。
それが私の耳に残つてゐるせゐだらうか、関西を旅して
淀川が目に入ると無意識のうちに私は、高知の母の実家
の前を流れる鏡川を思ひ出す。高知市の南を西から東へ
流れるその川は、高知城の外堀といつた役割を果してを
り、川の左岸の土堤の一部は築屋敷(つきやしき)と称
して、藩政期の中頃から、武士と町人の住居が混在して
軒を並べ、現在にいたつてゐるといふ。
 私は、いま自宅の近くの多摩川沿ひの道を歩きながら、
その築屋敷の土堤を歩いてゐる気持になつてゐる。土堤
の下は広い河川敷だが、母の実家の前のあたりは眼の下
一面、桑畑が青い葉を繁らせてひろがつてをり、その向
うに鏡川の流れが桑の葉ごしにチカチカと光つて見え、
座敷に坐つたままで、その眺めは見渡せた。川の対岸に
柳の木が一本あつて、水面に枝を垂らしてゐたのを、私
はかすかに覚えてゐる。そして私は、そこに、
  一軒の茶見世の柳老にけり
 といふ蕪村の句をあらためて憶ひ描いてみる。茶店は
蕪村の生家の村、摂津国毛馬に近い堤上にあつたものと
おぼしく、あたりの川には曳船、煮売船などの上り下り
も忙しく、そんな景色を背景に、茶店もそこそこに繁盛
してゐたのであらう。茶店の老婆が、蕪村のきてゐる着
物をほめて、「お達者で何よりでございますよ」と、お
世辞を言つたのを、次のやうによむ。
  茶見世の老婆子儂(ワレ)を見て慇懃に
  無恙を賀し且儂(わ)が春衣を美(ほ)む
 毛馬が蕪村の生れ故郷とあれば、この婆あさんは、お
そらく蕪村の幼馴染とは言へないまでも、顔見知りぐら
ゐではあつたであらうか。昔の地図で見ると淀川が中津
川と合流するあたりに、毛馬渡しといふ渡舟場があり、
その向う側が毛馬村になつてゐる。おそらく村には百姓
家が五軒、七軒、と点在して、その合間に小川が流れ、
田畑がつらなつてゐたであらう。私は何年か前に偶然、
その近くを通りかかつたが、川の堤もコンクリートで固
められ、道路は表通りといはず、かつては畔道だつたも
のとおぼしい小径までがアスファルト鋪装に覆はれて、
草一本生えてゐる様子もない。そんなだから、茶店もな
ければ柳の木もありはしない。渡舟場跡らしいところに
は、消防署と小学校か何ぞの運動場とおぼしいものがあ
るきりだつた。

 蕪村の伝記には、摂津国東成郡毛馬村に生まる、谷口
姓、後に与謝姓を名乗るとあるが、それ以外に、本名も、
父母の氏名も、また出身地その他も一切不明とされてゐ
る。
 したがつて、毛馬堤の茶店の婆さんとの交流があつた
としても、それがどの程度のものであつたかはわからな
い、といふより柳の下に縁台を置いた茶店さへ、実際に
そんなものがあつたのかどうか、それさへ不明である。
要するに、それは春風馬堤曲といふ十八首の俳句に、幾
つかの漢詩をつき混ぜて、全体を一編の長詩とした極め
て独自な形式の作品の中の断章といへば、それに尽きる
であらう。ただ、この長詩には蕪村自身の流転の生涯を
語りながら、それと重ね合せて現在の彼自身の心境を自
在に謳ひ興じた趣きがある。冒頭に、
  やぶ入や浪花を出て長柄(ながら)川
 とあるが、その長柄川は中津川の古称だといふから、
この一句は起点ではなくて、春日遅々たる長たらしい土
堤の道を辿つた末に、やつと毛馬に着いたといふ、その
道程を振り返つてのおもひを詠んだものだらう。みちみ
ち目についたものや、憶ひ出した事どもが、俳句や漢詩
をまじへて謳ひ語られることになるわけだが、その語り
口のなかに現在から過去の断想へ切り返す、その鮮かな
転回ぶりの中途で時折り謎めいた蕪村の秘密を仄めかさ
れるやうな気分になつてくる。
 たとへば蕪村は、藪入りで奉公先から自分の家へ帰る
途中の小娘と出会はせて、土堤の道を連れ立つて歩いて
きたのだが、草むらに、たんぽぽの花の咲きみだれてゐ
るのをみると、まあ可愛いい、と娘はたんぽぽの一つを
摘み取る。と、その茎の切り口から、まるで若い母の乳
房のやうに草の汁の滴り落ちてくるのを見て、蕪村はよ
む、
  昔々しきりに思ふ慈母の恩
  慈母の懐袍(ふところ)別に春あり
 と、そこから思ひは自身の青春期に飛んで、
  春あり成長して浪花にあり
  梅は白し浪花橋辺財主の家
 となる――。
 蕪村の幼少年時の事柄について、私は殆ど何も知らな
い。ただ、右の句を一つ一つ見て行くと、そこに私たち
が古い写真帖でも眺めてゐるやうに、蕪村の赤ん坊の頃
から一本立ちの青年になるまでの足跡が、おぼろげなが
ら、途切れ途切れに要点が浮かんでくるのである。
「梅は白し浪花橋辺財主の家」とうたつたその家に、蕪
村は奉公して世話になり、その間に、
  春情まなび得たり浪江風流(なにわえぶり)
 とあつて、夢中で遊び暮らすうちに、家の事はうかう
かと、三年ばかりは弟に任せ切りにしてしまつた、と聊
かうしろ暗いおもひで過ごしてきたことを述べる。そん
な心苦しい過去のことを打ち明けて了つた頃、やうやく
長い堤の道も夕暮れて、なつかしくも、また胸に迫る想
ひもある我が家が見えてきた。たそがれの闇をとほして、
木戸の傍によりそつて立つ白髪の人が、待ち兼ねるやう
にジッとこちらを見てゐるではないか。その人こそ、弟
を抱いて、春又春、わたしの帰りを待ちわびて暮らして
きた、年老いたる慈母にほかならない。
  君見ずや故人太祇が句
  藪入の寝るやひとりの親の側
 春風馬堤曲のシメククリの一句を憶ひ返して、私自身
いまや対岸に夕陽の落ちかかる多摩川べりの土堤を歩き
ながら、河川敷の一劃に暮れ残つたすすきの原に、白い
穂先きの波の揺れるのを眺めて、ふと白毛の頭髪を乱し
た母の姿を思ひ出してゐる。