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新潮◆FORUM

Special
(1)遠藤周作文学館が「沈黙」の舞台の地に

 文学館の開館を前に、前号で「遠藤周作新発見」を特集したが、その遠藤周作文学館(復元した書斎、「沈黙」「深い河」などの生原稿、創作日記など約千点を展示。開架閲覧室や多目的ホールなどもある)のコケラ落とし(五月十三日)に出席するため、東京からの落成記念ツアー(約二百五十名)に参加した。
 式典は順子未亡人や、名誉館長三浦朱門氏、井上洋治神父、それに安岡章太郎、遠山一行、瀬戸内寂聴、加賀乙彦、木崎さと子、富岡幸一郎氏ら作家・評論家仲間や、編集者、ファン、町民ら約千人が一堂に会して賑々しく催された。
 文学館の建った長崎県外海町は、「沈黙」の舞台となった、隠れキリシタンが潜んだ地。今も人口三千人の半数が信者で、近くにはド・ロ神父の出津教会もある。式典を挟んで、その前には出津教会で記念のミサが行われ、加賀氏が「沈黙とその時代」と題して講演、式典後は遠山慶子(ピアノ)・塩川悠子(ヴァイオリン)氏のデュオや、素人楽団遠藤記念アンサンブル(元樹座アンサンブル)の演奏などで盛り上がった。翌日は長崎市内の大浦天主堂に場所を移して「遠藤周作とすべてのキリシタンのための追悼ミサ」が二千人余りを集めて盛大に行われたが、三浦氏の講演「死海とガリラヤ湖」に続いて、仏教僧の瀬戸内氏が壇上にあがって講演をしたのは、大浦天主堂始まって以来とのこと、これも遠藤氏の導きがあってのことだったろう。
 文学館は長崎市内から車で五十分と、ちょっと遠いが、高台に建つ文学館からながめる五島灘の落日は絶景。長崎に行く機会があったら、ぜひ足を伸ばされんことをお勧めする。
(夏までは休館日なし。午前九時~午後五時開館。電話0959―37―6011)

(2)埴谷・島尾記念文学資料館もオープン
「近代文学」で埴谷雄高の「死霊」の連載が始まった時(昭和二十一年)、島尾敏雄は筆者の名を見て、何となくざわざわするものを感じたという。埴谷はもしかしたらあの般若じゃないのか。――島尾の「私の埴谷体験」(晶文社「島尾敏雄全集」15巻所収)に次のような会話が出てくる。
 島尾 般若、般若というとひょっとしたら福島県じゃないですか。
 埴谷 うんそうだよ。
 島尾 で、相馬郡でしょ。
 埴谷 そうだ。
 島尾 小高。
 埴谷 そうだ。
 島尾 そいじゃ岡田の有山の埴谷さんでしょ。
 埴谷 そうだ。
 埴谷(本名・般若豊)は父が小高出身、島尾は両親とも小高の出。作品の傾向は全く異なるが、戦後文学に輝かしい足跡を残した二人のルーツは奇しくも同じだった。埴谷は小高には住んだことがなかったが、終生相馬武士の末裔たることを誇りにしていたといい、「雄高は小高より発せり」などと記している。島尾は幼少のころによく小高を訪れ、母方の祖母が語る昔話に耳を傾けたという。
 この五月二十日、二人の故郷である福島県相馬郡小高町に「埴谷島尾記念文学資料館」がオープンした。埴谷は資料館の話が持ち上がった時、「島尾君と一緒にして欲しい」と希望したといい、それが実現した形だ。資料館は、今年一月に開館した小高町浮舟文化会館の一階に設けられている。入口を入ると右側が島尾のコーナー、左側が埴谷のコーナーとなっており、二人の生原稿、著書、遺品、写真など約百八十点が展示されている。二人の親交を示すものも多い。
 埴谷が亡くなって三年余り、島尾が没してから十四年になろうとしているが、開館式には多くのファンが詰めかけて賑い、二人の文学の人気のほどをうかがわせた。
(開館時間は午前十時~午後五時。毎週水曜休館。入場料無料。電話0244―44―3049)
〔付記〕式典で催された島尾敏雄の妻ミホさんの講演の中に、「修羅のような生活を送った時もあったが、私と島尾は根本において結ばれていた」というくだりがあったが、その“修羅のような生活”を描いた名作「死の棘」のもととなった日記を小社から刊行すべく準備中。“狂乱の妻”ミホさん、および渦に巻き込まれた二人の子供、伸三さん(作品中では伸一)とマヤさんの手記も併録する予定。


Anniversary 創刊90周年「三田文学」の記念名作選
 小誌が創刊されたのは明治37年5月のことだが、「三田文学」はこの6年後の明治43年5月に創刊されている。つまり、今年5月、「三田文学」は晴れて90周年を迎えたことになる。これを記念して、同誌では臨時増刊「三田文学名作選」を刊行した。
 この名作選には、「前理事長」江藤淳氏が決めた、「物故作家の作品に限る」「原則として初出のまま収録」の方針のもと、50枚(400字詰め原稿用紙)以内の短編が、明治、大正、昭和の年代順に収録されている。
 例えば、明治、大正時代には、森鴎外「普請中」、泉鏡花「朱日記」、、永井荷風「戯作者の死」、芥川龍之介「奉教人の死」といった錚々たる作品が並んでいる。
 意外なところでは、松本清張「或る「小倉日記」伝」、川上宗薫「仮病」、寺山修司「賭博者」(詩)、中上健次「犬の私」(随筆)など。また、評論では、保田與重郎「日本浪曼派のために」、江藤淳「夏目漱石論」、戯曲では三島由紀夫「熊野」と、文学史上、重要な作品が目白押しに並び、「三田文学」の輝かしい足跡を辿ることができる。広告も当時のままのものを用い、所々に、「編集後記」や「書評」なども挟まれ、時代の雰囲気を味わいながら名編を読むことができる。
 さしずめ、左に引く佐藤春夫の戯詩、「酒、歌、煙草、また女 三田の学生時代を唄へる歌」は、その代表であろうか。
「若き二十のころなれや/三年がほどはかよひしも/酒、歌、煙草、また女/外に学びしこともなし/孤蝶、秋骨、はた薫/荷風が顔を見ることが/やがて我等をはげましつ/よき教ともなりしのみ」
(全640頁、1400円。問い合わせ先、岩波ブックサービスセンター 03―3263―6601)

Secret シルヴィア・プラスの未公開日記
「一九五八年十二月十二日金曜日。
“先生、私はまだ母を憎みつづけて行っていいのでしょうか?”“勿論だとも。彼女を憎んで憎んで憎みなさい”“先生、有難うございます。確かに私は母を憎みます”
 私はどうすればいいのか? 時間が経てば母を愛せるようになるなんて想像もできない。母を哀れむことはできる。母は卑しい生活を送ってきたし、自分が歩く吸血鬼だということも知らない。しかし、それは哀れみに過ぎない。愛じゃない。」
 二十六歳のシルヴィア・プラスは、ノートにこんな苦い行を刻んでいた。
 フェミニスト詩人として今なお不動の位置を占めるプラスが、ガス自殺を果たしたのは一九六三年二月のこと。享年三十歳。同じく詩人だった夫、テッド・ヒューズの愛人問題で別居中の悲劇だった。死後、彼女の日記が発表されたが(一九八二年)、この日記は、当時まだ生きていた実母や夫への配慮から、かなりの部分(ほぼ三分の二)が割愛されていた。また、テッド・ヒューズは子供への影響を恐れ、3冊のノートの内、最後の一冊を焼却したことを認めている。ノートは二○一三年まで、公開を禁じられていたが、テッド・ヒューズは自らの死の直前(九八年)に、日記の未公開部分の出版を許可した。
 この未公開日記「The Journals of Sylvia Plath 1950‐1962」を編集したのは、プラスの母校でもあり「プラス文庫」があるスミス・カレッジのクルキル・カレン氏。
 性への赤裸々な衝動、死への暗い憧憬、身を苛む懊悩――この日記は、従来のシルヴィア・プラス像を覆す重要な資料になることは間違いない。

Revival 野溝七生子の幻の書
 野溝七生子という作家をご存知だろうか。
 明治30年に兵庫県姫路に生まれ、東洋大学在学中に執筆した長編小説『山梔』が、福岡日日新聞の懸賞小説で一席を得て、世に出た。以来、『女獣心理』『南天屋敷』といった作品で怪しい幻想美を描き、比較文学的見地から鴎外論や、東西文化交流論も著して、昭和62年、90歳で亡くなった。
 創作作品の多くは、貴種流離のモチーフを持つ神話的なものだが、彼女自身も謎めいた雰囲気に包まれた人物だったようだ。久世光彦氏は『昭和幻燈館』の中で次のように述べる。
「『山梔』という不思議な小説がある。正しくはあった、そんな噂を聞いたのはもう三十数年も以前のことだったろうか。その小説は関東大震災のころ書かれ、作者は若く美しい女で、当時のダダイスト辻潤と何やら深い縁の人らしく、辻潤の詩に現れる少女や妖女はその人のことらしい、と教えてくれたのは私の中学の一年上級の早熟な美少年だった。(中略)ここに、もう一つの伝説がある。これはいまから十年ほど前に、ある編集者に聞いた話である。新橋の第一ホテルの一室に、戦後からずっと書物に埋れて独り棲んでいる老女がいるというのである。昔、小説を書いていたとも聞くし、希臘文学の研究家だともいう。品の良い小柄な老女だが、孤独癖が強く他人に会いたがらない」
 最近では、高原英理『少女領域』がその先駆的な「少女型意識」の意味付けを評価し、再評価の気運が高まっていた折も折、彼女の十三回忌を迎える今年、『山梔』が講談社文芸文庫に収録されたのに続き、彼女が終生生原稿のまま持ち歩いていたという幻の長編小説『眉輪』が遂に展望社より刊行された。
 幼い眉輪王の父親殺しというテーマを扱ったこの歴史小説は、『山梔』発表直後の大正十五年に書かれたものだが、題材を皇室にとったためか発表が見合わせられていた。生前、ホテルの部屋のベッドサイドには、つねにこの作品の生原稿が置かれていたというから、愛着の深い作品だったのだろう。ちなみに版元によれば「読者は三十代の男女が中心。矢川澄子さんや久世光彦氏のエッセイで、この本を知った読者が多い」とのこと。
 なお、近ぢか同じく展望社より、彼女が三十歳の時に在日フランス人空軍将校との恋愛を刻明に綴った日記が「アルスのノート(仮題)」として刊行される予定である。

Party 「風花」二十周年を祝う会
 新宿5丁目の「風花」といえば、知る人ぞ知る、文壇バーの孤塁と伝統を守る名酒場である。経営者の滝沢森・紀久子夫妻の忍耐と寛容に、頭の下がらぬ客はいないだろう。その店が二十周年を迎えると聞けば、黙ってはおれない。元「文藝」「海燕」の編集長寺田博氏の呼びかけに応じて、152名もの発起人が集い、5月13日夜、京王プラザにて盛大なパーティが催された。
 大雨だったにも拘らず、出席者は330名。江戸馨氏の司会、古井由吉氏の乾杯によって始まった会には、錚々たる顔が揃った。壇上に上がったのは、松山俊太郎、山田詠美、福田和也、李恢成、岩橋邦枝、平岡篤頼、高橋源一郎、坪内祐三の諸氏。その上、島田雅彦氏のオペラ歌唱に奥泉光氏のフルート演奏など、盛りだくさんの内容で、秋山祐徳太子氏の見事な三三七拍子の手締めに会場も揺れた。
「風花」名物といえば、議論と喧嘩と歌である。その主人公はもう、鬼籍に入られた方が多くなった。会場のそこここで、店の「伝説」を作った中上健次氏や後藤明生氏を懐かしむ声が聞こえる。編集子もかつて、深更「中上が来るぞ」と皆で噂していると御本尊がドアを開けて現れる、という緊張を一度ならず経験した。その時間にはもう、後藤氏はしわがれ声で何番も続く軍歌を歌っていて、故石和鷹氏も欠かせない顔だった。誰と誰が喧嘩した、という話が次の日には広まり、噂を仕入れに新宿に出向く。重要な論争のいくつかが、実は、新宿の一夜の議論から始まった。十数年来の客である島田雅彦氏は、「『風花』は文壇のステージだ」と評する。
 その日の夜の「風花」は当然大盛況。皆坐りきれず、雨上がりの路上に椅子が並べられ、夜を徹して呑んだ。煙草の煙と議論の声で噎せ返る店内。山田詠美氏流に言えば「治安の悪い」酒で、グラスの割れる音が子守り歌のように聞こえた。いったい大丈夫だったんでしょうか。

New Book リチャード・パワーズの新作
 三人の若い農夫が、畦道でポーズを取っている。時は、一九一四年五月。所は、プロイセン、ラインラント地方。物語は、第一次世界大戦に翻弄される、この三人の若者の数奇な運命、この写真に魅入られた男、赤毛の女を探し求めるコンピュータ雑誌の編集者、の三つのプロットが重層しながら展開する。
 小誌今月号の書評で若島正氏も取り上げているが、アメリカ文学の鬼才リチャード・パワーズの「舞踏会へ向かう三人の農夫」(みすず書房刊)は、アメリカ現代文学の豊饒さを垣間見せてくれたといってよい。
 わずか24歳で、この作品を書いたパワーズは、その後、続々と問題作を発表しており、近ぢか第7作「Plowing the Dark」(暗闇を突きぬけて)が刊行される。
 今回の作品でも、失意の芸術家が挑戦するヴァーチャルリアリティの世界と、ベイルートでイスラム原理派に誘拐されたアメリカ人という、全くかけ離れた物語が、想像力の中で交錯するという野心的な構成になっている。
 世界を見渡せば、「文学の衰退」などという言葉を軽々しく口にすべきではない。