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発言 沈黙
林 京子

 昨年の十月二日、私は「トリニティ・サイト」へ行った。「トリニティ・サイト」とは、地図にないコード名で、一九四五年七月十六日、アメリカ合衆国で初めて、原子爆弾の爆発実験が行われた場所である。年に二回、四月一日と十月二日にゲイトが開かれて、爆発点の「グランド・ゼロ」まで見学が許される。
 八月九日の被爆者である私は、“訪ねて終わる”義務感のようなものがあった。
「トリニティ・サイト」があるニューメキシコ州は砂漠と荒野で、九時を廻ったばかりだったが、朝日はすでに大地をいりつけていた。私が乗った車は、ゲイトへの道を走っていた。有刺鉄線と丸太で作った、簡単に乗り越えられるゲイトである。が、軍の管轄下なので、警戒は厳しい。入口で制服を着た係官に、十三カ条からなる入場規則書を渡された。読んで納得して、国籍と姓名を記入して入るのである。
 手続きを済ませた私は係官の指示に従って車を降り、フェンスで規制された草の道を、歩きはじめた。囲の外は大円に広がる、荒れ野である。その荒野のまんなかにある、高い金網で囲まれた“小さな荒野”が「トリニティ・サイト」である。野球場なら五つ六つ。それより広いだろうか。人びとは申し合わせたように頭を垂れて、フェンスの中心に立つ「グランド・ゼロ」へ向っていく。羊の群れのようである。足許にはささらのように荒い、丈の低い草がまばらに生え、白いトゲを生やしていた。
 私は、規則書の説明を思い出した。それには草も含めて、「トリニティ・サイト」に存在するあらゆるものを「トリニティ」と規定してあった。「トリニティ」はすべて放射能をおびており、草も花も土も石も、落ちているガラスのかけら、砂一粒の「トリニティ」も拾ったり、持ち出すことを禁ずる。許された場所以外の撮影も禁ず。違反した場合は、フイルムも没収する。つまり「トリニティ・サイト」は靴底についた砂まで、公開された国家最高の機密なのである。また「グランド・ゼロ」でガラガラ蛇が発見された、決められたフェンスの内以外は歩かないこと、と注意があった。
 私は足を止めた。十五、六メートル先に「グランド・ゼロ」の石の碑がある。「国立記念碑」である。全米から集まった二百人ほどの見学者は、家族連れや、バスツアーで参加した、連れのない老人たちである。一九四○年代を戦って、国の勝利を勝ちとった男たちなのだろう。杖でさぐりながら、石の碑へ近付いていく。
 少年が一人、赤いフリスビーを飛ばして遊んでいた。円盤は光をまきながら、弧を描いて落ちてゆく。描いた線の遥かな先に、赤土の肌を露した山並みがみえる。亀裂した山肌に太陽が照り、ガラガラ蛇が棲む野生の地は白く乾いて、静まっていた。
 その静寂のなかを、遥かな山並みから、立っている大地の下から、ひたひたと肌を打って寄せてくるものがある。突然私は、激しい暴力的な感動に襲われた。大声をあげそうな感情だった。私は慄えながら、「グランド・ゼロ」と向き合った。
 半世紀も前の豪雨の未明、この一点から閃光が荒野に走った。爆発点は摂氏百万度である。燃えたぎった閃光は雨を泡立て、草を焼き、山肌にぶつかって、駆け抜けていったのである。どんなに熱かっただろうか。
「トリニティ・サイト」にくるまで私は、地球上で最初の被害者は、私たち、被爆者だと考えていた。しかし違った。私の先輩がいたのである。叫ぶことも泣くことも、訴えることも出来ないで、彼らは沈黙して、ずっとここにいたのである。私の目に涙があふれた。
 四泊五日の性急な旅だった。それでも見学したいと思っていた“ナショナル・アトミック・ミュージアム”や、核開発の三大拠点の一つ、ロス・アラモスも訪ねた。どれも“アトミック・ボム”の栄光を伝える国家的博物館で、展示された写真、文献は、第二次世界大戦に終止符を打った、勝利の記録だった。広島、長崎に落された、リトルボーイとファットマンの模型も、部屋の正面に巨体を据えていた。“カウントダウン・ツウ・ナガサキ”と説明がついた、B29がテニアン島から長崎に至った航空路も、赤い実線で地図に示してあった。
 私は、栄光の記録をみて廻っているうちに、国の力に圧倒された。被爆者と、人の種を脅かす核が、一方では、抗しがたい絶対者の力をもっていた。当然のことだが、広島と長崎で被爆した人たちの写真は、一枚も展示されていなかった。判りきっていたことをみせられて、私の頭は空っぽになった。
 追い討ちをかけたのは、東海村の臨界事故である。事故を知ったのは、「トリニティ・サイト」への、旅の最中だった。ホテルのテレビで、ニュースを知ったのである。
 残念なのは、被爆者が生きてきた五十余年の経験が、臨界事故で生かされなかったことである。というより、記録がなかった。過去が丁寧に記録されて、追跡調査されていたなら、村の人への避難命令も、妊婦や幼児への生活指導も、すみやかに出されたはずである。特に妊婦には、安全が確かになるまでその土地を離れなさい、と。逃げる以外に、身の安全はないのである。

「トリニティ・サイト」を訪ねて、私は、八月九日の答えを求めようとしていたような気がする。因縁めくが、七月十六日の爆発実験に使われたのは、長崎に落とされたプルトニウム爆弾と同種類の核爆弾である。
 そのころアメリカには、広島に投下されたウラニウム爆弾一個と、プルトニウム爆弾二個、合計三個しかなかった。兄弟爆弾ということも、私の注意を惹いた。同病相憐れむ、だろう。「トリニティ・サイト」は長崎の原点なのである。私の戦後の人生も、ここからはじまっている。そして終着の駅である。
 しかし得たものは皮肉にも、核と核時代の絶対的な力である。命の重さも、子や孫の健康を願うささやかな希望も、幻想と知らされる、力である。
 被爆者たちは年老いてきて、数も少なくなってきた。これは全く笑い話だが、ある日、あなた被爆したとき頭にガラスが刺っていたわね、いまもある? と姉から電話がかかってきた。かゆくなって掻いてたら取れちゃった、と答えると、もったいない、そのガラスがあれば手当が下りるそうよといった。大笑いしたが、いまさらそんなものは、欲しくない。それより、被爆者の病歴が曖昧にされ、原爆症の認定が、因果関係が不明として拒否され、力の陰に人の被害が伏せられ、伏せた上に進められてゆく時代が私は恐い。ただ一つの救いは、「グランド・ゼロ」を目前にしたときの、人びとの沈黙である。
 私はあの沈黙に、人の良心を感じている。