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発言 純粋テロルの夢
見沢知廉

 『京都で大根が切られ、沼津で淫売女が切られそして!! 豊川で老いぼれが切られ殺されたとか。すばらしい!! しかも僕と同じ十七歳とか……!? よい風潮だ。(…)スベテノチツジョヲホウカイサセル 殺人こそが全ての正義!! さあ! みんなでそろって人を殺そう!? 人殺しみんなですればこわくない!!「未来のある若い人はやめようと思った」甘いな!! 僕は無差別に老若男女皆殺しにする!!(…)みんな、ムカつく奴をぶすっとやらないか!? 人殺しは楽しいよ!! 殺せ!! 殺せ!! 殺せ!! 殺せ!! ギャハハハハハハハハハハヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒ
 ネオむぎ茶
 すべて殺す
 END』
(17歳バスジャック犯少年、事件当日づけの日記より)

 粛清。――深く意味を知らない若い人などが、ただ字形(じけい)や配列の語感だけを手掛かりにその言葉の芯をイメージするとしたら、なにか静寂な儀式や秩序ある砂の紋様が織りなす日本庭園――とでも、言うか。それとも、逆か。じっと待って嘲けられる恐怖に怯えるよりはむしろ故意に先手をうって出て、それでも慌て顫(ふる)えるぎこちない手でわざと落ちついた柄の厚い布を持ち、実は細く弱過ぎる過去の生身の自画像を巧みに包み隠しながら、そこに僅かな段差、確信犯的な薄い自傷の瑕が透けて見える所がエロティックだ、とでも、言うのか。
 すべてのアウトサイダーが辿り着く最後の崖と巨大な穴、陥穽。初めからロゴスごっこや市民的取り繕いや契約の神話など眼中にない、ただひたすら果てしなく深い闇の奥にあって、しかし一時代の死が叫ばれるや否や何十、何百回と反復して地上に〈降臨〉し、そのつど『蒼ざめたる馬』の馬上から旧権力者の血の海の中、出御のマツロイを祓として厳修する不立(ふりゆう)文字の神のお住まい。地下の暗黒の底のドアの中。天の岩戸。……そう、また今こうして、地上が急に暗くなった。そろそろ穢れの残滓を一掃するお祓いが始まるよ。……。

 劇団第三エロチカの川村毅氏から、私の過去や性格等を自分の戯曲で表現したいという情熱的な文(ふみ)を頂いたのは、もう三、四年程前になる。結局、同い齢の私と川村氏自身の二人の人間が、舞台の上で〈オイディプス・WHY?〉なる題の一作品、戯曲として同劇団が上演する――という一つの結晶に昇華した。
 ただ、二人の中でその劇は終了しなかった。彼は作中で何度もリフレインされる台詞、「罰も被害者感情もすべて解決し終わった今冷静に考えて、僕はなぜ成田の空港職員の父とその官舎に住んで「また集会か。うるさくて困るな」と冷笑でき、当然法や罰や監獄とは無縁で、千秋楽のあとの打ち上げで夜中まで飲んで、翌日、起きて、「なんでまだ、世の中が一変しないんだ!」と吠えるだけ。だから僕は、いや僕こそが、あなたの共犯、それも一番罪の重い共犯なんだ!」と、この強迫的な自罰意識に、のち、延々と苦しむことになった。私も、事件のあと逃走、全国指名手配、逮捕、留置場、拘置所、裁判。長期刑務所、獄中で反抗と小説書き。その後政治運動の世界へ没入――と、結局幾つかの事件のリーダーとして、肩ひじ張って当時の組織や共犯の名誉だけは守ろうと、今でもめずらしい長期刑の満期出所のあとも、多忙多忙と。否、逆に昔のことを忘れるために自分から多忙を創った――結局、粛清やゲリラ事件を総括したり思い出したり、そして書いたり喋ったりすることを、逃げ続けてきた。
 彼が同劇中で苦しむのと〈あい討ち〉で、私も事件を再現したその芝居を見てから、段々とその行為を考えるようになり、このところ、路上にいきなり倒れて気絶したり、原因不明の発作に襲われ、入院したり寝込んだり。貧乏生活のために一話大体原稿十~二十の雑文を雑誌に書くのがやっとで、小説は、(一応改稿推敲中のものもあるが……)この二年半、公に発表していない。
 去年の後半から、社会か自分一人の精神かは判らないが、非常に不安な崩壊の予覚と恐れにとりつかれ始め、――が、考えてみるに、それは小説家の使命なのである――それでやっと今年から少しずつ本を出した。が、そこに来たのが春奈ちゃん、てるくはのる、新潟少女監禁という、殺人や準殺人の〈ブーム〉。凄いショックとセットで強い創作意欲に駆られるが、体調はよくならず、定期の月刊連載さえ時々〆切に間に合わないで落とした。
 が、〈創作意欲〉とは、川村氏が戯曲の中に繰り返し出す〈純粋テロル〉――利害や習慣や命令でなく、純粋に自分個人の思念によって実行するテロル――と同じで、強烈な強迫症的恐怖感を伴う、生活を超越した空腹感や渇望感によく似ている。
 そこへとどめが、豊川の『体験テロル』、華厳の滝に飛び込む代わりに主婦を殺したという。千葉刑務所で何百人もの殺人者を見てきた私も、これ程凄い殺人は見たことがない。その上翌日〈我は天帝。愚者を殺し革命を実行する! たとえ我死しても肉体は滅び精神は滅ばず、生まれかわっても全秩序を破壊する!〉と叫んだ。
 芥川が「不安」と直覚した、大正デモクラシー終了と昭和ファシズムへの途上。安田善次郎テロが原敬テロへ〈伝染〉したように、テロは〈伝染〉する。昔、その洗礼をうけた私にも、強烈にその〈伝染病〉がやってきた。食器を配る二、三分の間もじっとしているのが惜しくてペンを走らせていた。いざ、小説を書き始めると、まるで二年以上眠っていて今やっと本当に心身が起きたような――その殺人の門――爽快感、安心感、母胎でまどろんでいるような幸せに包まれた。フロイトも喜び、まさに〈昇華〉というやつだ。
 最近は、少年達の行為がもうまったく解析もできず、それが一つの時代が穢れて死に、幕末から明治、大正から昭和へとひとつの世界が死と再生を演じるときと同じイニシエーションとして暴発を繰り返している。そして一番代表的な〈殺人〉は、DSMの引用さえマトモに出来ない有名精神科医たちに〈一時的ラベリング〉され、やたらどなるワイドショーの中で、転移の終息はないなどといわれる。その分析を止め、医者が「精神分析のかわりは小説を書くことだ。そのストーリーや登場人物に、君の無意識や病理などが現れる。君の場合、テロをやるか小説を書くか――なんだ。市民にはなれない。また人を殺してここに戻るより、小説を書きなよ」と云った。その時軽くうけながした〈忠告〉が、少年達の殺人を見ることで変わり始めた。文字通り〈純粋テロル〉ならぬ〈純粋文学〉との出会い。それできっと、私は〈純文、純文〉と半ば病的にこたえるのだろうか。