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生者へ
丸山健二


「アナーキズムは思想と言うよりも、むしろ哲学である」
という大方の見解に異を唱えるつもりは毛頭ない。しか
し、小説家の端くれとしての私は、その真っ当な解釈に
対し、敢えてもうひと言付け加えてみたい。「アナーキ
ズムは思想であり哲学である以前に、芸術家の体質その
ものである」と、そう言いたい。そして、遺伝子のよう
に動かし難い、生来のその体質こそが芸術の創造に携わ
る者たちの魂の核を成す全てであり、従って、かれらが
送る生涯の全てでもある。
 いかなる権威にも屈することなく、いかなる集団にも
頼ることなく、さりとて世捨て人に堕するわけでもなく、
そのために支払う代償をものともしないで、どこまでも
個人の自由という掛け替えのない精神と権利を求めずに
はいられない激しい気性の持ち主こそが、真の創作者で
あり、真の生者たらんとする生者である。
 それ以外は、よしんば相当な感受性に恵まれ、高い表
現力を身に付けていたとしても、所詮は〈準創作者〉、
さもなければ〈創作者もどき〉としての地位に生涯に渡
って甘んじなければならない、どちらかと言えばディレ
ッタントと同類の存在でしかないであろう。本来かれら
は学者か、さもなければ役人の道を進むべき資質の持ち
主であった。とはいえ、仮にかれらがその道を歩んでい
たとしても、大成功を収めることはまずなかったであろ
う。なぜとならば、その世界にはかれらをはるかに上回
る処世術に長けた、もっと狡猾な輩がうようよしている
に違いないからである。
 つまり、かれらの未熟で中途半端な手練手管が大いに
効果を発揮できた所以は、ひとえに芸術の世界がそうし
た駆け引きに初(うぶ)で不馴れであったせいだろう。し
かし、かれらのような人間が芸術の世界を著しく汚染し、
芸術が本来進むべき方向を見失わせた罪は計り知れず、
遂には芸術を死に至らしめるところまで追い込んでしま
ったのである。
 だからといって、かれら如き偽物に抹殺されてしまう
ほど芸術は腰抜けではない。真の芸術は繊細ではあって
も脆弱ではない。一時は死んだかに見えても、時が来れ
ば必ずや復活と再生を果たす。それこそが芸術の秘める
底力の本当の凄さなのである。

 物心がついたとき、すでに私は真夏でも雪を戴く高峰
を仰ぎ見ることができるような、山国の厳しくも豊かな
自然環境に身を置いていた。一九四三年生まれの私が常
に対峙しなければならない連山は、日本のどこの田舎で
も見られる、いかにも優しげな風情の、ありふれた低山
ではなかった。人の命など何とも思っていない、畏敬の
念を抱くに充分値する、人間とは一体どんな存在なのか
という重苦しい自問をのべつ促さずにはおかない、自然
を超越した、ひっきりなしに魂を誘引する、極めて哲学
的な自然であった。
 そして、あれから早くも半世紀ほど経とうとしている
現在も尚、私の肉体と精神の前にはその北アルプスの威
容が立ちはだかっており、槍のように剃刀のように鋭く
尖ったどの峰々も、依然として人間という不可解な存在
に関する二者択一のあれこれを昼と言わず夜と言わず迫
っているのである。
 果たしてこの世は生きるに値するのか。この世に在る
ことの意味とは何か。四苦八苦しながらこの世を過ごす
喜びとは何か。なぜこの世であらねばならなかったのか。
輪廻は宗教とは何ら関係のない、いつの日か科学的な証
明がなされるかもしれない、自然現象なのか。我々はこ
の世へ登場する前はどんな世にいたのか。この世を去る
ときにはどんな世へ行くのか。ほかの世はあるのか。あ
るとすれば、どのくらいの数があるのか。完全な無はあ
るのか。完全な存在はあるのか。時間とは何か。過去と
は何か。未来とは何か。我々は本当に現実の最先端を生
きているのか。永遠をもたらしているのは、不完全な無
と不完全な有による螺旋状の反復ではないのか。我々に
はどうしてそんな生死を超越するような余計なことを考
えてしまう複雑な頭脳を与えられているのか。
 青臭く、いくら考えても詮ないことであるとよくよく
承知していながら、命を与えられている限りどうしても
切り捨てられないそうした重大なテーマの数々は、近寄
りがたい大自然、さながら天と地を、形而上と形而下を
結ぶ階段のような三千メートル級の山脈を目の当たりに
して、灰色じみた、非行動的な日々を延々と送る私にと
って、ほとんど日常的な思考の一部と化してしまってい
るのである。
 安曇野の北の外れ、うらぶれた一角にある、知性のみ、
あるいは情緒のみに頼ってはとても生きてゆけないよう
な、生存に直結する本能優先の生きざまがむき出しにな
りがちなこの田舎町において、対人口比としての自殺率
が極めて高いという恐ろしい話を地元の警察官から聞か
されたときの私の感想は、口にこそ出さなかったものの、
「さもありなん」であった。
 小学校へ入る前の幼年時代の記憶はまったく残ってい
ない。見事に抜け落ちている。おそらく脳にはしっかり
と刻みつけられているであろうが、なぜかこれまで何ひ
とつとして思い出すことができなかった。だから、長い
こと私は誰しもそういうものかと思っていた。