本・雑誌・ウェブ
発言 サミットと墓
又吉栄喜

 沖縄県内では各国首脳の招聘合戦を懸命に繰り広げている。イタリアの首相宛てに中学生が「パスタをよく食べています」と手紙を出したり、一九一七年にアーカンソー州に建てられたクリントン大統領の生家のレプリカを立派に造ったり、一万人の署名と招待状を携え何時間も飛行機に乗り直接届けようとするなど、あの手この手を使っている。
 沖縄の伝統的なものもサミット一色に彩られている。昔から庶民の間に息衝いている闘牛大会も「サミット記念闘牛大会」と銘打たれているし、「サミット獅子舞フェスタ」なども行なわれている。首里城のウナー(御庭)での首脳夕食会には琉球王国時代の古式装束に身を包んだ総勢何百人もの人たちが旗頭二基と共に厳かに登場する。
 一方警備は厳重を極めている。主会場の万国津梁(しんりよう)館入口や、首脳が宿泊する恩納村のホテル近くの国道58号線には警察官が十数メートルおきに立ち、一斉検問をしている。沿道の木々は付け根から枝が切り落とされ、ちょうど(写真で見る)終戦直後の風景を思わせる。叢も徹底的に除草され、岩肌やコンクリートの壁面が剥出しになり、緑の島のイメージは大きく後退している。周辺では野犬狩りも徹底し、約二ヵ月の間に百匹近くがあの世に送られた。
 警察官は周辺の全所帯を訪ね、家族構成、車の台数、機械類や本土に住む家族などをしらみつぶしにチェックしている。親たちの普段とは違う様子に赤ん坊も泣きだしたりするという。
 このような非日常的な空気が蔓延しているせいか、那覇の軍港あたりに住んでいる老女が「海に浮んでいるたくさんの日本の軍艦を見たと怯えていた」とタクシーの運転手たちが話している東支那海を真っ黒に埋めるように浮んでいた五十五年前の無数の米艦隊の恐怖が蘇ったのだろうという。
 なぜ厳重な警備が必要なのか、私たちも少しずつ知らされている。いろいろ言われているが、「人間爆弾」の噂がなにより私を驚かせている。体に爆弾を隠し持ち要人に突進し、自爆する手段は国際的には珍しくないらしい。
 那覇空港からサミット会場や、首脳たちの宿泊ホテルに向う高速道路や国道58号線の脇にも丘の上にも亀甲墓や破風墓がある。墓の中は広く、人が生活できる。沖縄戦の時には飛び交う赤く焼けた無数の砲弾の破片から多くの人たちの命を救った。人々は知らない人の墓にも逃げ込み、敵に見つかりませんようにと骨に手を合わせ、何時間も何日も身を潜めた。
 警察は具体的には何も言わないが、人々の噂では首脳が通りかかったとたんにゲリラやテロリストがトーチカのような墓を開け、中から迫撃砲や機関銃をぶっぱなすのだそうだ。「人間爆弾」では猛スピードを出している首脳の車には効果はないが、墓の中からは襲撃できる。
 本土復帰三年目に、皇太子(現在の天皇)がひめゆりの塔に献花をしようとした時、ガマ(鍾乳洞)の中から飛び出してきた男たちに火炎瓶を投げつけられた。この男たちは何日も前から、沖縄戦の時、ひめゆり部隊の乙女たちが潜んでいたガマに身を潜めていたが、警察は「聖域だから」と調べなかったという。今回のサミットの警備は「人間爆弾」云々はしないが「捜査に聖域なし」の徹底した方針をとっている。
 警備陣は墓を一基一基開け、中をチェックするようだが、沖縄には墓というのはめったに開けない風習がある。子供が死んだ場合でさえ、墓の近くに置いた小さい箱のような墓に納め、いつか大人が亡くなった時に一緒に葬る。むやみに開けると近い将来、身内の誰かが亡くなると信じている人も少なからずいる。老若男女とも「中には先祖が安らかに眠っている。警官が覗くと、驚いて、ずっと眠れなくなる。先祖に大目玉をくらう」「わしが墓に入っていたら、絶対知らんもんには開けさせん」と首を横にふる。「墓の中は余所者には見せない」ときっぱり言う茶髪にイヤリングをしている今風の若者もテレビに映っていた。また、嘘か誠か「墓の中にはハブがいる。開けるとあっというまに咬まれるよ」とハブに慣れていない本土出身の警官を脅す人もいるという。墓を調べたら封印するからという話を嫌う人もいる。墓の中の先祖は毎朝、家の仏壇のトートーメー(位牌)に寄ってくるが、封印をされると出てこられなくなってしまうという。
 中の様子が見えるように墓の入り口を閉じている石板をサミット期間中外しなさい、とはいくらなんでも言えないだろうから、「危険」と思われる墓の前には何人かずつ立哨するという噂が出てきている。「なぜ、こんなでかい墓なんだ」「なぜ家は小さいのに、立派な墓を造るんだ」と愚痴っている本土出身の警官もいる。
 夜中も墓の周辺を警備するという噂が耳に入り、私は子供の頃の幽霊話を思い出した。私たちは夜、墓を遠くに見ながら、一本足の兵隊の幽霊や、モンペを着た首のない姉妹(首がないが、いつも手をつないでいるので、姉妹だといわれていた)の幽霊が足や首をさがしに墓の回りをさまようという話にいつも震えた。本土から来た警官はこのような話は知らないし、本土と沖縄の墓は違うから何も恐くはないのだろうか。生きている人も今お祭りのようにフィーバーしているが、墓の中の人も「今年のシーミー(清明祭)は終わったはずだが」とか「もうお盆がきたのか。今年のお盆は早いな」などとてんやわんやしているのではないだろうか。
 サミット記事と同じ紙面に「(2002年中学検定申請本の)歴史教科書の記述減」という見出しが載っている。「従軍慰安婦7社↓3社」「南京大虐殺犠牲者数6社↓1社」という中味が私の頭に妙に残り、警備のためとはいえ、徹底した住民監視がふいに空恐ろしくなったりする。サミットと「沖縄戦については現行では一節を割いて記述している社が申請本ではわずかに三行に減らすなど簡略化が目立っている」という記事が私の頭の中では絡み合い、どうしたわけか、先日の慰霊の日に聞いた話を思い出した。
 慰霊の日の数日前、私の知っている初老の男性が夫婦喧嘩に負け、腹の虫がおさまらず、夜中一人車を出し、頭がパニックになったまま戦跡の多い南部の暗い道を走った。すると、洗い晒しのモンペや軍服を着た老若男女が道の中央に向き、肩を寄せ合うようにどこまでも立っていたという。知人は、この人たちはサミットの主賓を迎えているんだなとぼんやり思ったが、家に帰りついた途端、背筋が震えたという。