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敵対
吉村 昭

 天保九年(一八三八)十一月二十四日八ツ(午後二時)
すぎ、江戸の愛宕下にある伊予松山藩の上屋敷を二人の
武家が出て、北への道を足早やに歩いていった。
 数年来、全国的に天候不順による飢饉がつづき、こと
に二年前には夏に霜がおりるような異常気象によって耕
作物は萎え、例をみない大凶作となって多くの餓死者を
出し、それは次の年にも及んだ。そのため米価が高騰し、
一揆、打ちこわしが頻発して世情は激しく揺れ動いた。
 江戸の米価も一両で六斗二升の価格が二斗二升ほどに
までなり、幕府は、騒乱の起るのを防ぐため品川、板橋、
千住、新宿に御救小屋を設け、飢民の救済につとめた。
 今年も飢饉になるのが恐れられたが、春以来、気候は
順調で、米も平年作であることがつたえられ、ようやく
米価の騰貴も鎮静化した。
 秋から冬にかけても晴天の日がつづき、その日も空は
雲一片もなく青く澄み切っていた。
 二人の武家は、伊予松山藩奥目付熊倉伝之丞四十五歳
と忰の伝十郎二十四歳であった。
 半刻ほど前、下谷町二丁目の井上伝兵衛宅から使いの
者が藩邸に来て、伝之丞に書状をとどけて去った。書面
には、伝兵衛が急病であるので至急来宅して欲しい、と
記されていた。
 伝兵衛は伝之丞の兄で、西丸徒士頭遠山彦八郎配下の
徒士の役にあって、子がなかったので誠太郎を養子に迎
え家をつがせていた。かれは隠居後、剣の道にきわめて
長じていたことから近くに道場をかまえ、門人を擁して
いた。伝之丞は、伊予松山藩士の熊倉家に請われて養子
となり、家督をついでいた。
 急病とはなにか。剣で鍛えた伝兵衛は、逞しい体をし、
病気で臥したことなどなく、それだけに至急来て欲しい
という文面にただならぬ気配が感じられた。晴天つづき
で空気が乾ききっていて西の方から流行してきた感冒が
江戸市中にもひろがり、それにかかる者がふえはじめて
いた。高熱を発し咳が激しく、高齢者や幼い者の中には
死ぬ者もいた。
 兄弟はことのほか仲が良く、伝之丞は、藩の上司に事
情を話してあわただしく身仕度をととのえた。忰の伝十
郎も同道することになり、藩邸を出たのだ。
 寺や大名屋敷の塀ぞいに進むと、前方に江戸城が見え
てきた。それを眼にした伝之丞の顔がわずかにゆがんだ。
 その年の三月十日六ツ半(午前七時)頃、江戸城西丸
の台所より出火、延焼を防ぐため町火消を城内に入れた
が、火勢激しく御殿向座敷、大奥ともに焼けくずれ、わ
ずかに書院のみを残して四ツ半(午前十一時)すぎによ
うやく鎮火した。西丸は、将軍職から隠退した大御所ま
たは将軍世嗣の住む場所で、前将軍家斉が起居していた
が、出火と同時に避難した。
 ただちに老中水野忠邦が西丸造営掛として再建の準備
に入り、大棟梁を定め、工事職人の指名も終えた。造営
費については、諸大名から上納金が寄せられることにな
ったが、伊予松山藩主松平隠岐守(定毅(さだよし))
は親藩の溜間詰大名であることから、三万両を上納する
と申し出た。
 前藩主定通は、倹約令を敷くなどして莫大な借財の軽
減につとめて効果をあげたものの、依然として財政の窮
迫はつづき、そのような大金を捻出する力はなかった。
藩としては、城下と港町である三津の町人から拠出させ
る以外になく、その交渉が藩士たちの背に重くのしかか
っていた。