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発言 介護と俳句
ねじめ正一

 今夏に『二十三年介護』(新潮社)という本を出した。内容は、私の父が亡くなった後母が書いた介護記録に、ところどころ私の注釈を入れながら一冊にまとめたものである。
 私の父が最初に倒れたのは昭和五十一年、それから平成十年二月に亡くなるまで、二十三年間に及ぶ闘病生活を送った。その間、母はほとんど一人で父を介護し続けた。
 父は最初の脳溢血のときはリハビリの甲斐あって半身にマヒは残ったものの、一年ほどで日常生活は何とかこなせるようになった。この時点で母はねじめ民芸店の店番に復活した。私の母は店番が生き甲斐という根っからの商人である。父の介護で店を休んでいた間も、私たちが気晴らしを勧めると、旅行より芝居見物より店番がしたいと言って私たちをあきれさせたほど店番大好き人間である。そんな母にとって、ふたたび店番ができるようになったのは何事にも代えがたく嬉かったようだ。一日のうちの何時間か店番ができれば、父の面倒を見ることなど何のそのという感じであった。母が店へ行っている間、父は俳句を書いたり本を読んだり、昔集めた骨董品を眺めたりして暮らしていた。母の帰りが遅れたときなど、ときどきは癇癪を起こしたりしたようだが、まあおだやかな暮らしぶりであった。
 しかし、そのおだやかな暮らしも平成二年の病気再発でおじゃんになる。二度目は脳梗塞であった。父は全身マヒの寝たきりになり、言葉も喋れない状態になった。こうなると母の介護も前半とはまるきり変わってくる。母は好きな店番をすっぱりとあきらめた。そのときから母の人生の目標は父を生かすこと、一日でも長く生かすことになった。
 そのためには、とにかく自分が倒れないことだ。母はそう考えた。そう考えるところが実際的な母らしいところである。母は病院に寝泊まりして父の介護をしていたが、病院は自宅と違って心を休めることができない。プライバシーもない。これでは自分が参ってしまうと考えた母は、医者に談判して自宅介護に切り替えるのである。自宅で介護すればあと二年の命と医者に言われたのを、「もっともっと長く生かすことができる」と言いきり、その通り父を八年も生かすことができたのである。
 鼻からの流動食をいやがる父を見て、当時は一般的ではなかった「胃に直接流動食の管を通す」という手術を、親戚の反対を押し切って受けさせたのも母であった。昔人間で新製品は大の苦手のくせに、電動式介護器や床擦れのできないエアマット式ベッドなど、新しい介護用機器をどんどん注文して使ったのも母であった。そういうところには金を惜しまないくせに、伝言は破いたカレンダーの裏に、俳句の下書は二十年前に出した私の処女詩集のカバー(余ったのを取っておいたのである!)の裏に書く母であった。使うところには使う、というのが母の金の使い方で、これは典型的な商人の金の使い方だ。そうやって母は父の介護を続けた。
 母の介護のしかたは大きな目標を立てるのではなくて、介護の繰り返しの中で日々できることをクリアしていこうという姿勢である。一日でも長く父を生かすというのは、言葉を変えればその日暮らしということでもある。それはまた、その場その場で父のためによかれと動いて行く自家発電の愛情の力でもあった。たとえば母は寝たきりで口のきけない父の気持ちを「こうに違いない」と断定して介護にあたっているところがあった。「お父さんの顔を見れば何を考えてるのか、何をして欲しがっているのかわかる」とよく言った。母が二十三年も介護を続けることができたのは、まわりのことなど気にせず、いやはや介護する当の相手の父の気持ちさえ断定して、思い込んだらどんどん前に進んでいくパワーがあったからに違いない。
 こういう母のやり方は介護のやり方として特殊なのかそうでないのか、私にはよくわからない。しかし父と母の間では母のやり方以外にはなかったのだし、そのやり方で医者が二年と言った父を八年も生かしたのは事実である。介護はそのときになってのことではなく、介護する側も、される側も、それまでの関係を丸ごと引き受けることなのだなあと両親を見ていて思う。その意味では、正しい介護というものはおそらくないのだ。介護とは関係であって、一○○の介護にはそれぞれの関係に見合った一○○のやり方がありそうな気がする。
 関係と言えば、介護の二十三年間は母だけでなく、ねじめ家にとってもたいへんな時期であった。私が文学にのめり込んで家業の民芸品屋に身が入らなくなり、そのことを正義感の強い弟が「文学をやっているからといってすべて許されるわけじゃない」と反撥してきて、家族の関係がぎくしゃくしたり危機一髪になったりしたこともあった。家族の中に病人が一人いるということは、家族全員がその病気を少しずつ分け合うことである。分け合って負担することである。なのに私は負担しなかった。三十代の初め頃同人誌を一緒にやっていた友人が私の『二十三年介護』を読んで、開口一番「家に病人がいたなんて、あの頃のねじめからはぜんぜん感じられなかった。それにいちばん驚いた」と言ったのがその証拠である。私は父が要介護の病人であることをほとんど忘れていた。同居していなかったせいもあるが、父のことより自分のことだったのだ。
 話を母に戻せば、母は介護の傍ら、父が若い頃から打ち込んでいた俳句を自分もやり始めた。自家発電の愛情パワーは夫の介護だけでなく、夫ができなくなった俳句まで引き受けてしまったのである。母は介護によって自分を発見し、俳句によってさらに自分を発見していった。
 介護はけっして世の中から孤立することではない。献身献身で自分を無にすることでもない。少なくとも私の母の場合はそうであった。孤立するどころか、お役所の福祉課だの、医療器具会社の若い営業マンだの、今までと毛色の違う人たちとの付き合いは増える一方だ。自分を無にするどころか、自分自分の自家発電だ。母みたいな介護では身が持たないとお思いのご亭主族もおられると思うが、そこはそれ、さっきも言ったように介護は関係である。私の父のように元気なとき威張りくさっていなければ、奥方に愛情の押し売りをされずに済むことと思う。
 最近の母は俳句の腕も上がって、ひょっとしたら父を越えているような気もしないでもない。長年の夢であったピアノにも挑戦して、十五曲ほど弾けるようになった。私が母の住む上鷺宮の家に行くと、この十五曲の曲名がメニュー表になって張り出されていて、「正一、今日はどの曲がいい」と聞いてくる。私が「これ」と指さすと嬉しい顔つきになって弾き始めるのである。