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葬送
平野啓一郎

堕落とは何か。
仮にそれが、一元が二元になったことだとするならば、
堕落したのは、神だということになる。
言いかえれば、創造とは神の堕落ではあるまいか。
                ――ボードレール

千八百四十九年十月三十日

 馬車は、道々に溢れ返って、舞踏会の前の混乱さなが
らに、犇き合い、渋滞していた。
 午前十一時の開場を待たずして、マドレーヌ寺院の階
段前の広場には、既に千人を超す人群が出来ていた。敷
き詰められたかのように辺りを領する喪服の黒のそこか
しこから、時折俯きがちな人の顔が上がる。感慨深く回
想する風の者。人生とは、というような、何か漠然とし
た考えに捕われている風の者。一瞥を投げ掛け、怯えた
ようにすぐに目を逸らす者。会話の途中で、不意に首を
擡げ、呼ばれたような錯覚をする者。視線の先にあるの
は、正面の入口を覆う黒幕の上のFCの二文字である。
柱廊の奥に控え、朝日を逃れて、ひっそりと銀色に輝く
その縫取りは、岸壁の彼方に懸かった月のように、遠い。
人々は、波のような微かなざわめきを立てながら、階段
の下へとゆっくりと打寄せる。夜の海が漸う満ちゆくよ
うにして、前方から人の潮(うしお)が少しずつ密にな
ってゆく。
 ――あなたのおっしゃることは、分かります。しかし、
いいですか、そもそも、……
 ――分かるんだったら、何とかしたまえ。私はまだし
も、家内はどうなる? 生前彼が、これのことをどれほ
ど慕っていたか! 君は、弟子の癖に、そんなことも知
らないのかね?
 ――ああ、わたくし、あの方に、最後のお別れを申し
上げることも出来ませんの? 何てことでしょう! あ
なたに、どうしてそんな残酷な決定を下す権利があるの
かしら? 教えて頂戴! 式場にわたくしの姿のないこ
とを知ったら、あの方、神様の許へとお出でになる前に、
どんなにお嘆きになるかしら? ああ、酷い! 本当に、
何て残酷な!……
 階段の西の端(はじ)から、こんな遣取りの声が聞こ
える。彼此一時間ほども前からである。騒ぎというほど
ではない。それで、大半の者は気づかずにいるのだが、
近寄るとその場違いな響きが硝子の割れた音(ね)のよ
うに際立って、否応もなく注意を引寄せられる。何を言
おうとしているのかは判然としない。しかし、声が高い
ということが、とかく神経に障って苛立たしい。悲嘆の
余り正体を失って叫んでいるという風でもない。寧ろ、
芝居小屋の入口で、席の悪さに憤慨した客が、切符切り
に喧嘩を吹掛けているといった様子である。周囲には既
に、岩礁に流れが滞って渦を巻いているかのように、小
さな人だかりが出来ている。声の主の姿は見えない。応
ずる者は一人、それに何やら訴え掛けている者が、数人
いるようである。
 人を分け、漸く階段の前にまで辿り着いた彼も、この
声を耳にして一瞬立ち止まった。女は依然として、恨み
言めいた言葉を連ねながら、大仰なしゃくりを立てて嗚
咽を漏らしている。男の方は、今度は相手の応対の仕方
が気に入らないといって、猛烈な剣幕で捲し立てている。
やはり影になっていて、声の聞こえるばかりであるが、
受け答えをしている長身の青年の顔だけは、周囲の者の
頭越しに稀に覗くことがある。たまたまそれが、彼の目
に留まった。ぽつんと一つ飛び出した人の良さそうな童
顔が、不快と若干(そこばく)の軽蔑の念とを湛えて曇
っている。見れば、アドルフ・グートマンであった。一
瞥した後、素通りするつもりであった彼も、それに気づ
いてもう一度確認するようにそちらを見遣った。やはり
グートマンのようである。そして、何となく気になって
そのまま声のする方へと近づいて行くと、彼のみならず、
中にいるものとばかり思っていた、ヴォイチェフ・グジ
マワ伯爵、カミーユ・プレイエル、それにオーギュスト・
フランショームの三人までもが、それぞれに、悲しみと
いうよりは、寧ろ当惑に近いような表情を浮かべて、下
を向いたり、人の群を眺めたりしながら、少し離れたと
ころに立っていた。