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発言 未来記
多和田葉子

 この夏、二週間ほど日本に戻ってアサヒビールホールで講演した時、タイトルに「未来」という言葉が入っていたため、予想もしていなかった質問が聴衆の方から出た。「高齢者の生き方について意見を聞かせてください」というのである。わたしはドイツでいつもあらゆる種類の質問を浴びているので(原稿を書く時には麻薬を吸うんですか、とか、なぜ俳句を書かないんですか、等)、何を言われてもあまり驚かないのだが、このような問いはまだ聞いたことがなかった。問いそのものは少しも変ではないのだが、この問いの生まれた地盤に、ある独特の時間感覚が根を張っているように思え、唐突だが、昔、国語の時間に習った「三十にして立つ、四十にして惑わず」というような論語の一節を思い出してしまった。それから「花伝書」にも、何歳の時にはどういう心構えで稽古しろということが書いてあった。(こう書くと古典の素養でもあるように聞こえるかもしれないが実はその逆で、こういう一節をまるで人類学の本で読んだことのように急に思い出して面白がるのは、むしろ伝統との繋がりが切れている証拠。音信が途絶えていた旧友に久しぶりで偶然会い、新しい目で眺めるような、そんな気持ちだった)
 何歳になったら何をやりなさいというモデルがあるのは便利なことなのかもしれない。別にそのモデルに従わなくてもいい。むしろモデルとのずれが見えた時に、自分のことが分かる。自分は四十歳を過ぎたのにまだこんなに迷っている、などと時々呆れてみればいいのである。高度経済成長期の日本はしかし、この伝統を悪用して、二十二歳になったら大学を出ていないといけないとか、三十までに結婚していなければいけないなど、いろいろ規範を作って多くの人を無意味に苦しめてきた。だから、逆に、モデルから少しでも離れた人間は、ただブラブラしているのだと思われてしまう。定職につかないというだけで「フリーター」という人種だと思われる。何歳になっても家庭を作らないでいると「モラトリアム」と言われる。そろそろこれも時代錯誤ではないかと思う。世界的に見れば、特に大都市では、母親と父親と子供で作る家族という生活形態は、むしろ特殊形態になりつつあるのだから。
 同じ四十歳でも、人によってその年齢の意味は全く違う。逆に、今七十七歳の人と十五歳の人は、共通の時間空間に生きているのであり、同じ濃度の排気ガスを吸い、同じ地震に家を揺すぶられて怪我をするのである。こういった共通の現在、共通の未来は、非常に具体的、身体的である。
「高齢者」というのはお役所用語ではないかと思う。「高齢者」は、交通費、医療費、美術館入館料などが無料、と言う時にこの言葉が必要になる。(もちろん、何歳以上の人は、と具体的に言った方がいいのだが。)ただ、それは社会的権利の問題であって、個人の生の内容とは関係ない。そういう意味では「未成年」という言葉と似ている。「俺は未成年らしく生きたい。未成年の生き方を教えてくれ。」という人はいないと思う。
 自分が今どんな生(性)を営むのかを何を参考にして決めるのか。「論語」や「花伝書」はもうそのままでは役にたたない。マニュアルがないと不安になる人々に、マスコミが、あなたは高齢者だからこういうものを食べなさい、こうやってくつろぎなさい、こういうことはやめなさい、と言ってくれる。わたしは、そういう親切なマスコミとは逆に、人が読んだ後もっともっと激しく迷える(魔酔える)ようになる小説が書きたい。
 話を戻すと、わたしが講演のテーマに「未来」を選んだのは、今年ドイツで未来をテーマにしたプロジェクトに二つ参加してみて、そう言えば日本語では「未来」という言葉は歯が浮くようであまり使えないな、どうしてだろう、と思ったのがきっかけだった。「将来」という言葉はよく使われる。「将来のことを考えて」という言い方は暗い。今好き勝手なことをしていると後で生活できなくなるから、今のうちに節約して貯金して諦めて我慢して、という文脈で、人は「将来のことを考えて」というのである。「自分の将来」「日本の将来」とは言えても「世界の将来」という言い方ができないところを見ると、「将来」という概念は、もともとどこかセコイらしい。自分だけの将来、つまり「老後」という部屋に隠ってしまうのではなく、仮に「未来」という共通の時間を設定してみれば、この世あの世で絡み合う無数の異質な空間を実感することもできるのではないか、と思った。
 生きた未来像を断片的だがいくつか紹介したい。今ハノーヴァーでやっているエキスポ2000の企画の一つに、世界各地に住む四人の女性映画監督に、「未来の身体」というテーマで短篇を撮ってもらって、それを枠組になるストーリーで繋げて上映するというプロジェクトがある。全体の製作責任はハンブルグに住むブリギッテ・クラウゼ。四人から集まった台本があまりにも多様でどういう枠組で全体を括ったらいいか分からない、と彼女から相談を受けたので、どんな内容なのかと思って台本を読み、試撮ビデオを見ると、確かに多様だった。
 アメリカのリン・ハーシュマン・リーソンの撮ったのは、コピーショップに置かれたコンピューターに向かって、自分の身体をスクリーンの中で次々変化させ、新しい人間を作っていく女性の話。新しい人間は出来上がると次々町へ出ていく。登場人物は一人だが、舞台が自宅ではなく、コピーショップなどという「公の場」であるところが意外だった。
 ケニアのウインジル・キンヤンジュウさんのは、次々不妊症にかかっていく女たちを救う女医さんの話で、印象的だったのは、未来というとどうしても人口過剰を心配してしまうわたしたちアジアの人間とは反対に、未来の人口減少が問題になっていることだった。
 インドのスマ・ジョソンさんの映画では、サリーを着た女性が、コンピューターを前に差し出すように持って、河の中にもぐり、水の中を泳いでいく。その脇を花や手紙が流れていく。この不思議な映像を見ていると、いろいろなことを思い出す。たとえば、ガンジス川での水浴のこと。または、コンピューターのスクリーンが水のように見えて文字といっしょに溺れそうになったこと。あるいは、インド人のコンピューター技師がカリフォルニアにたくさんいたこと。ドイツでも最近、国際競争に負けないために、インドなどからコンピューター技術者を呼び寄せることになった。右翼が「ハイテクは非人間的で根源的でないからインド人は悪であり、失業中のドイツ土着の労働者は善である」という聞いたような理論を復活させるのではないかと未来を心配しているのはわたしだけではない。
 香港のキャセイ・チャンは、赤い色についての映画を撮った。この話がわたしにはひどく面白かったのだけれど、この話は次の小説にも出てくるので省略したい。
 最近はみんな気軽に「グローバルな」などと言うが、地理的な共通地盤を設定しても、時間的なそれは無視して、「あの国は遅れている。まだ中世だ。」などと言う人がいる。多様な世界をみんな同時に生きていることを考え、そういう時間感覚を表現する日本語をもっと探したい。