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発言 二百人の劇場
別役実

「あなたは、客席数何人くらいの劇場で芝居をしたいですか」と聞かれたら、「二百人くらいの劇場がいいですね」と答えることにしている。もっとも、まだ一度もそう聞かれたことはない。聞かれたらそう答えようと、私の方はかねてより身構えているのだが、どうやら我国には(外国でもそうかもしれないが)その人の演劇というものを、上演したい劇場の規模によって確かめるという習慣が、ないようなのである。
 そこで私は、聞かれなくても「実は」と、その点について自分から話し出さなくてはならないハメにおちいりつつある。「二百人の劇場がいいんですよ」と。もちろん、上下の幅はいくらかある。従って、それを聞いたら相手は、「それ以上でも以下でも駄目ですか」と聞き返さなければいけないのであり、すると私は、「まあ、いくらか幅をもたせて言えば、五十人以上五百人以下というところですかね」と答えることになっているのだ。
「五十人以下の劇場」では、客席間に或る親密感が生じ、それが舞台にも感染してその中立性が失われはじめる。いわゆる「楽屋落ち」のような、「馴れ合い」の関係が成立しやすくなるということだろう。逆に「五百人以上の劇場」となると、舞台上で演じられつつある事柄に対する共有感覚が薄れ、演劇が共同体験するものというより、鑑賞するものになってしまう。展覧会の絵を、二三歩後ずさりして眺める感じなのであり、批評的にはなり得ても、入りこんで楽しむということにはならないのである。
 というわけで、「二百人の劇場」というのが、演劇を演劇として体験すべく最もふさわしい規模ということになるのであるが、何故私が、聞かれもしないのにこれをしつこく言い立てるのかと言えば、今日このような形で演劇を成立させることが、極めて難かしくなりつつあるからである。
 第一に、その種の劇場が少い。東京にはいくつかあるものの、それすらここへきてあちこちで閉鎖されはじめているし、地方となると、立派な劇場がいくつも建てられているにもかかわらず、圧倒的に「五百人以上」の大劇場が多いのである。
 第二に、これが最も大きな原因であり、東京でその規模の劇場が閉鎖されたり、地方で建てられないのもこのせいだと思われるが、この客席数では興行そのものが、経済的に成立しないのである。収容能力がないのであるから、その分だけ入場料を上げなければならない道理であるが、何故か我国では(外国でもそうだろうか)劇場が小さければ入場料もその分だけ安くしなければならない、という悪しき習慣がある。つまり、「やればやるほど赤字になる」という事態が、あらかじめ約束されているというわけだ。
 私はかって、文学座のアトリエ(客席数二百人前後)で芝居をすることが多かったのであるが、当然それだけでは採算がとれない。そこで或時、地方公演をして「赤字を埋めよう」としたことがあった。つまり、例の「五百人以上」の大劇場に、それを持ちこんだのである。もちろん、当時だって探せば、「客席数五百人」程度の中劇場なるものも、ないことはなかったのだと思うが、言うまでもなく地方公演というのは、いわゆる「アゴアシ代」と言われる滞在費と交通費を安くするため、一度に大量の観客を集めて短期間で引きあげるべく、そうした劇場は使わないのである。
 その公演について行ってみてわかったのであるが、劇場の規模が変れば、芝居も変る。もう少し極端なことを言えば、「二百人の劇場」で仕込んだ芝居を、「千人の劇場」に持ちこむと、芝居でなくなる。それは、単に声を大きくしたり、動作を大仰にするだけで済まされることではないのである。
 この時から私は、「小劇場の演劇」と「大劇場の演劇」とでは、同じ「演劇」の名で呼ぶのはどうかと思われるほど、その内実が違うのではないかと考えてきた。演劇というのは、「肉声」のコミュニケーションによって成立しているものであり、この「肉声」ということを考えると、更にその点を強調しなければならないように思われる。
「肉声」には、当然ながら「到達限界」というものがある。それが「肉声」として届く範囲というものは、自ら限られているということである。もちろん私はこれを、単に空間的な広がりの問題だけで言っているのではない。つまり、「小劇場」では「肉声」がそのまま通用し、「大劇場」では、たとえばマイクとスピーカーを使ってそれを増幅している、ということでの違いだけを問題にしているのではないということである。
「差別語」の問題というのがある。「めくら」という言い方の中には差別的要素が含まれているので、「盲目」と言わなければならない、というそれである。私は、舞台の上で度々こうした問題に遭遇してきたから、言われていることのニュアンスはよく理解出来るのだが、一方舞台上ではどうしても「盲目」ではなく、「めくら」と言いたい時がある。つまり、「肉声」でのコミュニケーションというのはそういうことなのであり、いわば「肉声衝動」とでも言うべきものであろう。
 そして、テレビ電波や活字媒体など、いきなり数百万人に拡大コピーされて伝えられるような現場なら、そこに含まれた差別的要素は、拠りどころを失うから問題にされてもしようがないかもしれないが、発言者が目の前で確かめられ、その言葉から発せられるリスクを負いながら発言していることが明らかになる、たとえば「小劇場」のような空間では、この点は問題にならないのではないだろうかと考えた。
「小劇場」というのは、前述したように共同体験の現場であり、そこで取り交される「肉声」としての言葉は、常に共有され、もしそこに差別的要素が発生すれば、その場で罰せられるという呪縛力のもとにあるからである。私の言う「肉声」の「到達限界」というのは、このことを言うのであり、「めくら」という言葉を、決して差別的にでなく発言出来、しかもそのことを了解してもらえる範囲のことにほかならない。それが、今日私の感じとれるところ、「二百人」というわけである。
 言うまでもなくこれは、「差別語」の問題だけではない。「差別語」に関連させて、「めくら」を「めくら」と言って、了解をとれる範囲と言うとわかりやすいので取りあげただけであり、「肉声」という「体温を感じさせる言葉」の重要性が、この情報化社会と言われるものの中で、今日急速に見失われつつあり、それを恢復させるためにも「二百人の劇場」は、見直されなければならないと考えるのである。「小劇場」と「大劇場」の演劇を区別するように、「肉声」としての言葉とそうでない言葉も、区別して考えた方がいいかもしれない。