本・雑誌・ウェブ
さらば、東京巨人軍。――鞠とゞまるは落つるとき
清水哲男

  1 植田は鏡遠く声湧く小学校 殿村菟絲子
 美々しい句だ。見渡すかぎり、植えられたばかりの早
苗のそよぐ水田が鏡となって、青い空と白い雲を写して
いる。はるか彼方の小学校からは、子供たちの元気な声
が聞こえてくる。この句が美しいのは、さながら絵葉書
のような情景に重ねて、極めて通俗的な発想で子供たち
の音声をまとめて元気に聞かせているからだ。悪口では
ない。俳句としては、これでよい。だが、このようにひ
とまとめに詠まれた声を発している子供たちのひとりひ
とりには、もちろん別々の声がある。別々の生活があり、
別々の未来がある。
 句の作者の視点からは、まったく逆の位置にある小学
校の教室に、戦後間もなくの私はいた。そして、心地よ
い薫風の渡る田圃を横目に見ながら、否応なく私たちの
野球シーズンが終わってしまったことを思い知らされて
いた。当時のちっぽけな子供に、いささかなりとも句に
共通する気持ちがあったとすれば、田植えの終わった田
圃が、たしかに物理的には鏡のように輝いて見えていた
ことくらいだろうか。
 でも、そんなことはしごく当たり前のことだったから、
ほとんど全員が農家の子供の小学生の私たちには、鏡の
ような水田は感動の対象とはなりえなかった。とりたて
て、美しいとも思わなかった。それよりも、後で述べる
ように、これで秋の収穫期まで野球をする場所がなくな
ってしまったという寂しさ、つまらなさが、鏡のような
田圃ぜんたいに明晰にも、冷たく反射していたという思
いのほうが強くあった。
 一九四五年(昭和二〇年)。敗戦のときの年齢が七歳
ないしは八歳というのが、私たちの年代だ。職業軍人で
あった父が公職追放となり、それまでは東京の中野区鷺
宮の小学生(正式には「国民学校生」)であった私は、
父の故郷である山口県阿武郡高俣村(現・むつみ村)の
小学校に、三年生の新学期から転校した。松下村塾など
で有名な萩市から、なお八里ほど中国山脈のどてっ腹を
登ったところに位置する農村である。私たちが入村した
ときには、バスも通っていなかった。戦後というのに、
朝礼では明治天皇の御製が朗唱され、校庭の片隅には御
真影を奉った奉安殿が建ったままだった。先生がそうす
るから、児童たる私たちも、登校すると奉安殿の前でぺ
こりとお辞儀をしていた。
 三十代の父は一度は捨てた故郷で、文字通りの五反百
姓として早すぎる第二の人生のスタートを切ったのであ
る。父は農家の生まれで、たくさんいた兄弟姉妹の末に
近く、家に留まることはならずに、官費で暮らせるプロ
の軍人への道を選択したようだ。本当は「故郷を捨てた」
のではなく、捨てざるを得なかったのだ。歌謡曲「人生
の並木路」に、「故郷を捨てた甲斐がない」という一節
がある。父のことを思うと、この歌は歌えない。一九四
六年(昭和二一年)正月四日、GHQ命令により軍国主
義者として公職追放になった者は、二〇万三六六〇人。
その二〇万三六六〇分の一の家の長子としての私はとい
えば、その小さな貧しい村で、はじめて野球なるスポー
ツの存在を知ったのだった。
 ボールもなければ、グラブもバットもない。ましてや
ユニフォームなどありようもなかった戦後の子供の野球
状況については、既に多くの人が書いている。「里芋の
茎ボールで練習するより仕方ねえな」と、井上ひさし
『下駄の上の卵』の主人公がつぶやいている言葉そのま
まに、私たちは「茎ボール」も使ったし、石ころを布で
巻いた「硬球」も使った。この「硬球」を、適当な長さ
に切った竹のバットでひっぱたくと、コキーンという実
にいい音がした。ラジオの野球中継でしか聞いたことは
なかったけれど、私たちはプロ野球選手の本物の打撃音
に似ていると信じていて大満足だった。当時、「青バッ
ト」で鳴らした大下弘の「竹製バット」使用が問題にな
ったという記憶がある。もちろん、単に竹を切っただけ
のバットではないが、この事件にも、私たちのプライド
は大いにくすぐられたのである。
「草野球」という言い方があるが、語源はおそらく「草
原野球」に発しているのだろう。立派に整備されたグラ
ウンドを使えない素人が野球をやろうとすれば、とりあ
えずそこらへんの適当な「草原」や「原っぱ」を利用す
るしかなかったからだ。その意味からすると、私たちの
野球は「草野球」ともまた、はるかに異質な「田圃野球」
だったということになる。
 文字通りの草深い山奥の田舎には、原っぱと呼べるよ
うな広場はない。単に村を通過していくだけの旅行者の
目には、あるいはいくらでも野球のできる広い場所があ
るように写るかもしれない。が、よく見ると、平らな土
地はすべて居住地か田圃か畑なのだ。一見広場と見える
場所は、しぶとく草や木が密生している土地で、しかも
傾斜が急である。たとえ草や木を刈り込んだとしても、
とても野球などできる場所にはならない。それよりも何
よりも、野球ができそうな土地があるとすれば、とっく
の昔に畑か田圃にしてしまっているというのが、草深い
田舎人の真っ当な経済感覚の帰結なのである。旅行者に
はのどかに見える村の段々畑は、たとえ数メートル四方
のそれであっても、平らな土地を求めてやまない農民の
苦闘の象徴である。