Special 新芥川賞作家・玄侑宗久氏の素顔
強運の人である。
デビュー作「水の舳先」(170枚)が、「新人投稿」として異例の形で小誌に掲載されたのが、昨年の十月号。続いて、「宴」が今年の新年号に掲載された。
「水の舳先」は、第百二十四回芥川賞候補作に挙げられ、この時は受賞を逃したものの、小社から単行本として刊行された。そして、「文學界」五月号に発表した「中陰の花」で、デビュー一年を経ずして、見事、第百二十五回の芥川賞受賞を果たしたのである。
氏は、福島県三春町にある臨済宗妙心寺派福聚寺の副住職。三春町は阿武隈山系に抱かれた小さな城下町で、梅、桃、桜の三つの春花が一時に咲くことからこの名前がつけられ「みはる」と読む。日本三大桜の一つ「三春滝桜」や、郷土玩具「三春駒」で有名な地で、明治の論客、河野広中を生んだ、自由民権運動の根拠地の一つでもある。
福聚寺は、西暦千三百三十二年の開創。戦国の名将・伊達政宗の正室を出した田村家の菩提寺でもある名刹である。山に囲まれた一万坪を超える広大な境内には、桜の名木があり、春ともなれば妖艶で豪奢な花を咲かせる。この桜を見に、全国から見物客がやってくるが、同寺の三十五世に当たる氏は、この時の案内役でもある。
地元の名門、安積高校を卒業後、慶応大学中国文学科へ進んだ玄侑氏は、イスラム教、モルモン教や各種新興宗教を遍歴、職業も、コピーライター、ナイトクラブのフロアマネジャー、英語教材のセールスマンなどを転々とした。出家したのは二十七歳の時。
氏は、「胡散臭い」という言葉を愛し、禅僧の身でありながら、肉食妻帯はもとより、斗酒をも辞さずという豪傑でもある。令夫人の評によれば、玄侑氏の性格は、「いちびり」(関西弁でお調子者の意)だそうだ。
秘話を一つ紹介しよう。玄侑氏は、故・李良枝(イ・ヤンジ)氏と親しく、かつて李氏が芥川賞候補になった際、新宿のバーで、一緒に連絡の電話を待っていたことがあった。ここには、李氏を強く推していた故・中上健次氏や、小誌の今月号巻頭で「時の肖像―小説・中上健次」を書いている元「群像」編集長、辻章氏などが同席していた。
この時、李氏は落選。がっかりした玄侑氏も、痛飲したが、その頃は、自らも小説を書いていたとはいえ、芥川賞は「想像の範囲を超えた」ものだったという。
爾来、十七年、文学から身を離して、氏は様々な現実、様々な死を見続けてきた。再び、文学に戻ってきた時、氏の作品には、それだけの時間を経て来た、視線の深さが備わっていたといえる。今月号掲載の受賞第一作「アブラクサスの祭」は、氏の新境地を開く力作である。
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