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補陀落 観音信仰と日本文学

川村湊

 
 一 入水の海

 長らく歴史の薄闇のなかで忘れられていた補陀落渡海の人々の記憶が現代に甦ったのは、井上靖の短篇小説「補陀落渡海記」と、益田勝実のエッセイ「フダラク渡りの人々」(『火山列島の思想』所収)によってであった。益田勝実はそのエッセイが収録された単行本の「あとがき」で、「フダラク渡りの人々」を執筆中の一九六一年に『群像』(十月号)に発表された井上靖の小説が、中世の歴史のなかに埋もれていた補陀落渡りの渡海上人のことを掘り起こし、「子孫のわたしたち」が「もはやほとんど忘れかけている」、この特異な信仰現象に新たな光を当てたことを語っている。
 もちろん、補陀落渡海のことが、それまでに知られていなかったわけではない。身を捨てて、観世音菩薩のいる遥かな大海の向こうの補陀落の浄土に渡るために、目なし舟、ウツボ舟に乗って海へ乗り出してゆくという、自殺行にも似た渡海修行は、中世日本の特異で、不思議な仏教信仰、土俗的な観音信仰のひとつの在り方として、信者や研究者たちの関心を引かなかったわけではない。だが、それはあまりにも極端で、過激な狂信の果ての特殊なあらわれとして、一般的な信仰者や仏教者の興味や関心の対象となるには、いささか刺激的すぎたのかもしれない。
 橋川正の「我が国に於ける補陀落信仰」や、南方熊楠の「ふだらく走り」、堀一郎の『民間信仰』のなかに書かれているような「補陀落渡海」についての言及や研究論文の類が、それまでにまったくなかったのではないのだ。しかし、それを日本の仏教という宗教の問題として、信仰史、とりわけ庶民的な民俗の心に根ざした精神史の一環としてとらえようという視点は、井上靖の小説と、益田勝実の古典論的エッセイとして一九六○年代初めに、それぞれ別個に、同時的に提出されたのである。
 あえて、そのことを無理矢理に時代状況に引きつけていってしまえば、一九六○年代の、澎湃たる波のごとく盛り上がった日米安保条約の反対闘争という政治的熱狂からの覚醒や挫折感が、死への情熱とでもいうべきものに満ち溢れた、この孤独な「死に至る」信仰の形態を、遥かな歴史の闇のなかから掘り起こさせ、想起させたとでもいえるだろうか。
 補陀落渡海という信仰現象は、いかにも中世的なものだと思われる。戦乱と戦災の巷という現実、価値の紊乱、道義の破壊という精神的な荒廃、革命の挫折と蹉跌感。転形期に、まさに典型的な失意や絶望や諦念が、海上遥かな果てに、ユートピアとしての補陀落浄土を幻視させたのであり、自己を抹殺してしまおうというデスペレートな情熱が、沖へ、沖へと、挫折者たち、絶望者たち、狂信者たちを追い立てていったと思われるのである。
 そうした補陀落渡海の「発心」の有様を、もっとも印象的に記録しているのは、中世人・鴨長明が筆録したといわれる『発心集』(簗瀬一雄訳注、角川文庫)の、次のような話だろう。「ある禅師補陀落山に詣づる事」という題の説話で、無名の発心者の、知られざる信仰の事蹟が、いかにこの時代に多かったかということを実感させるものである。
 近く讃岐の三位といふ人いまそかりけり。かの乳母の男にて、年ごろ往生を願ふ入道ありけり。心に思ひけるやう、この身のあり様、万のこと心に叶はず、もし悪しき病なんど受けて、終り思ふやうならずは、本意とげんこと極めてかたし。病なくて死なんばかりこそ、臨終正念ならめと思ひて、身燈せんと思ふ。
「身燈」とはむろん身を燃やして、灯りとして仏に供養することである。壮烈な捨身行である。だが、鍬を真っ赤になるまでに焼いて、左右の脇に差しはさんでも、焼け焦がれるばかりで燃え上がらない。それで「身燈」をやめることにした。凡夫である以上、死ぬ時に(浄土への往生について)疑いの心を持ってしまうかもしれない。「補陀落山こそ、この世間のうちにて、この身ながらも詣でぬべき所なれ」と聞いている。では、そこへ行こうと、男は土佐の国へ行き、新しい小舟を一隻作り、朝夕にこれに乗って梶を取る技術を習い覚えた。
 この「身燈」について、「フダラク渡りの人々」を書いた益田勝実は、執筆当時(一九六一年頃)話題となっていた南ベトナムでの仏教僧による抗議のための焼身自殺について言及しているのだが、遥か昔の“人間バーベキュー”の伝説(伝承)が「現代に突如として復活したこと」に驚きを感ぜずにはいられなかったのである(一九八○年代の韓国における学生運動末期の焚身自殺のことも想起されるが)。だが、「身燈」の行を中止し、次に渡海を考えた男の話と、ベトナム戦争の終結以後に、今度はボートピープル(難民)による、危険に満ちた決死の「渡海」が盛んとなったことを思い合わせると、その暗合に暗然とせざるをえないのである。