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【冒頭部分掲載】

水晶内制度

笙野頼子


1 撃ちてしやまん・撃滅してしまえ

 私はどうやら外国にいるようだ。それなのに聞こえて来るものは日本語ばかりである。治療を受けている。一応病名も判っていたはずだ。でも今咄嗟に思い出せない。そもそも判らない事が沢山ある。例えば旅先で病に倒れたのか、病を押して外国に辿りついたのか、何よりも自分が誰なのかもうひとつ判らない。
 人の考えやした事がおのれの考えの中に随分混じっているようだ。感じた覚えのない感情もどんどん入ってくる。自己像の認識もぐらぐら変わっている。要は、クルってしまっている。
 耳元で絶えず妙な声が聞こえる。幻聴というやつか自分の考えが声になっているのか。ところがその自分の声というのがどの声なのかもう判定が付かないのだ。あらゆる感覚や思考に他人のが随分混入している。つまり私は完全に混乱しているのだ。そう、この姿をもしも前の世界の人々が見たら、きっとヒステリーと言うだろうと思う。無論、――。
 前の世界の「人々」というのは男性という意味だ。そういう私の性別は女性である。つまり、前の世界で、私は「人」であった事なんか一度もないはずなのだから。いや、でも確か人権はあったはずで、安全も衣食住も、そして、だが、――。
 そうださっき誰かが私に教えたのだ。お前は「人」ではなかった、と。ああ、今も教える。
「なるほど安全と衣食住か、前の国でか、だがそもそも生命は保護されてもお前は人ではなかった、お前の魂は総て収奪されるか、黙殺された、その上お前はそこにいない事にされ見えない事にされた」と、――そう、その誰かがいちいち、でも、え、だから誰かとは誰だ――。
 その上「前の国」とは、「前の国」とは、――それは一体どういう意味なのだ。そう「前の国」の「男」だって。ああそう言えば、なにしろ連中と来たら、いつだって喜んですぐにあげつらうのだ。例えばほら、笑っている。非常に甲高い声の「男」が、笑う。その国で「人」として承認されているが故に、それ故に黙殺されぬ魂を持った存在が笑う。
 ――ははははははは、は。
 ――いほつみすまるの、とめがとけ、て。
 ――ははははははは、は。
 ――たかみむすびのかみの、ゆめがわれ、て。
 笑うばかりではない。人の事を喋っている。誰の声だろう甲高くて言いっぱなしで威張っていて、人の思惑なんか一切無視した声。でも男の声だろうか、違う。女子校の中で喋る女同志の地声だ。それの年取ったやつ。ああ、いらいらするむかむかする。げっそりする。
 ――はははははは、は。出ましたね、今。いらいらにむかむか。
 ――典型だ、見事、ヒステリーそのもの、まさに更年期のようだ、ああ、ヒステリー、ヒステリー、快方に向いました。ヒステリー、不穏になった上でふいにヒステリーとは。
 ――はははははは、は。
 ――まったくね、ヒステリーというのは、これはもうね、ここで生きる上に不可欠というか、ないと難しいからね、ははははははは。
 ――はははははははははは。
 言いっぱなしではあるが幸福そのものの声達。

 自分の頭の中に違う考えが入ってくる。或いは違う声が、私と違うものが私に流れ込む。いや、そういう区別した言い方に全部もう狂いが生じていて。つまりそのように世界が全部、狂って光っている。その上あっという間に――。
 うっとうめくと部屋全部が発光納豆だ。光の中にいる。投光機のタマの中の虫のようだ。全身が熱く何か言わずにいられない。汗が粘って感覚が言葉に縋り付かずにはいられないせいだろうか。何か考えずにいられない上に黙っていられない。だが私は本当に喋っているのだろうか。考えているのだろうか。ウタっているのだろうか。意志を、ハタラカせているのだろうか。――腕には点滴を鼻には酸素チューブを。皮膚全部に虫を尿道にカテーテルを。頭に紙のおむつ脳に乾いたバッタ。それは頭の内側から外に突き出したピンで止められている。
 腸にイチゴ煮が回しかけられている。点滴の途中に目盛りの入ったキーボードのような機械がある、髪より細い管がそのあたりから出ている。モルヒネとは思えない・だって痛いから、そして定期的に不快や悲しみと恐れがこみ上げてきて、始終叫ぶから。怒り全体に生クリームをかけられて鯉がクリームだけをぱくぱく食っている。それを思うと怒りがまた悲鳴をあげ、怒りそのものが私と別の人間になって勝手にまた痛いと叫び始める。
 しかもあの鯉は呼吸不全の印。あの鯉がでかく白くなれば自分は死ぬ。いや、――。
 あれは鯉じゃないよく見るとドジョウだ。真っ白の巨大なアロワナ風に見えるがねばねばしたくだらないただの変形ドジョウだ。ここは神域だというのに・なんという事だ。巫女が私の体に全部乗って緋の袴で視界が隠されて、目は見えない、目に何か掛かっているのだった。縫い合わされたのか――。
 体中の痛いところに色が流れ込む。うわあうわあふええ駄目だ駄目だ、そもそも「神域」なんて誰が教えたのだ誰が決めたのだ。
 ――さああね、自分で言ってるだけなんじゃないんですかあ。
 おや、馬鹿にされた。私はヒステリーを起こしているのだろうか。
 瞼をぱくぱくさせると袋のような皺のようなものが沢山あって異様に痒い、痒い。うわあうわあ。ヒステリーだ。ほらまた、――。
 ――はははははははははははは。
 ――はははははははははははは。
 頭の中に次々と声が入って来て、数人で人を笑い者にしている。祝い事のように晴れやかな声で。人のクルうのを叫ぶのをつまり、――。
 ――ははははははははは。
 ――こいつらが来るたびに私は思うんだな、男女平等なんて誰が考えたのだかははははははははは。
 ――歴史浅いすよね、男、女、対等。
 クルう私。
 このクルってユく私。あるべき世界からずれてはみ出て、のけものになって追われて零れて行くような――私の状況を、彼らは笑っている。言祝いでいる。違う呪っている。それは例えば――。


続きは本誌にてお楽しみ下さい。