「ゆかしいあやまち――島田雅彦、無限カノン――」 福田和也
日本橋でのことだ。 私は、あまり社交的な人間ではない。知己とはつるむのだが、まったく見知らぬ人から声をかけられたりすると、過度に愛想よくしてしまうのではないか、あるいはそっけなくしてしまうのではないか、などと緊張をしてしまう。 浅草のこの手の店は、追い込みで合い席にさせられた同士が話しあうのがごく普通で、杯の応酬すらあるのだけれども、この日本橋の店ではあまりそういうこともない。もちろんそれには、客層が雑多なことも与っていて、兜町近辺からやってくる勤め人もいれば、老舗ではあるものの近年またガイドブックなどで騒がれたために連らねて来る客もいる。私のように昼間の都会に居場所がなくて、賑わいのなかに身を隠すようにしている者もある。昼の十一時から、夜の九時まで通しでやっていて、いつでも酒を出す。ひっきりなしに人が出入りをして、もちろん波のひいて鎮まる時もあるのだが、だいたいは落ち着いた喧騒のなかで、ゆっくりと、カツやカレーを食べながら、文庫本を相手に、呑むことができる。 声をかけてきた男は、同類と思われた。でもまあ、こっちも、向こうも、本当に同類とは思いはしないのだが。 「だいぶ、呑まれるんですね。」 と、彼は云ったのだった。 たしかに、私は、大きいジョッキを、もう二回かわっていた。この店では、普通の生ビールと黒ビールを半々にわったものを――つまり通常云うところのハーフ&ハーフを――ミックスと呼ぶのだが、そのミックスの大きい奴を二杯のみほしてしまい、三杯目をやっつけかけていた。 「いや、どうも。」 私は、返事にもならない返事をした。 「それは、上メンチですよね?」 「ええ。」大きい、金筋の入った皿に、たっぷりとしたつけ合せがのり、デミグラスソースもかけてある上メンチカツは、味はもちろん、見場からしてランチのメンチとはまったく違う。私はそのうえ、ここの名物である、五十円のボルシチとコールスローも並べていた。 声をかけてきた男――私より一回りぐらい年上だろうか――の前には、五十円のボルシチと、一合の清酒のビンと、染付けの猪口があった。猪口は厚手で、男はほんの少しずつしかつがないので、いやでもミジメったらしく見えたが、考えてみれば、それはそれで、この店での正しいやり方とも思われた。 続きは本誌にてお楽しみ下さい。
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