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【冒頭部分掲載】

「はるかなあこがれ」
――島田雅彦氏の文に向けて――


福田和也


 ジャンボ鶴田が死んだ、その次の週だったと思う。当時連載していた週刊誌のグラビアの撮影で、武道館の前まで行き、いつも手早いカメラマンはたいした時間もかからずに撮影を終わり、私は編集者に別れを告げて、初夏の空の下を、北の丸公園のほうに歩いて行った。多分、竹橋の近代美術館でも覗くつもりだったのだろう。まだ、改装されて、それらしいアートショップやレストランが出来る以前の頃である。
 もう不況がかなり深刻になっていて、北の丸公園は首吊りの名所と云われるようになっていたはずだが、昼日中ではそういう気配もあるはずがなく、クローゼットから出したばかりの麻のジャケットの軽さを楽しみながら、私は歩いた。正面に皇居の森が見え、次第に近づいてくる。
 吹上御所の一部が視野に入ってくると、銅像が立っていた。吉田茂のもので、いまにも駆けつけんばかりの前のめりの姿勢で、皇居に向かっている。私は、吉田の像が、こんなところにあるのを知らなかったので、ちょっとした発見をした気になったのだが、同時に強い違和感を覚えた。というのも、その像は、高村光雲などが創始した、写実的な偉人銅像のスタイルから遠くはなれた、むしろ象徴的な造型によるもので、よく見ると大理石で出来ていた。舟越保武――舟越桂氏の父君――の作品だったのだが、『長崎二十六殉教者記念像』や『ダミアン神父』などカトリック関係の作品で知られ、ローマ法王から大聖グレゴリオ騎士団長の勲章を授与された彫刻家が、吉田の像を作っていたことは意外だった。吉田は受洗していないはずである。

続きは本誌にてお楽しみ下さい。