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【冒頭部分掲載】

悪意の手記

中村文則


『手記1』

 十五の時、酷い病気をした。TTPという、不吉な響きの、聞き慣れない病だった。もちろん私の行った殺人を、この病気のせいだというつもりはない。ただ、手記を書くにあたって、このことから書き始めた方がいいと思ったまでだ。
 正式の名称を、血栓性血小板減少性紫斑病、という。文字通り血小板が減少することにより体内のあらゆる場所から出血し、紫の斑点が出、様々な合併症を起こして八○%が死に至る、という病だった。血漿交換、薬物療法など近年導入されてはいるが、効果のないことも多く、未だに病の全容も解明されていない。私はその病にかかった。要するに、治療が効かない場合、八○%の確率で死ぬ、ということだった。

 人間の生死を単純にパーセンテージ化する医療の習慣を、恨む余裕もなかった。普通の家庭に生まれた、普通の子供だった。一人で本を読み、物事を考え込むような傾向はあったが、友人もいたし、深刻な悩みなどなかった。「ウイルス性の風邪だが時間が経てば治る」という両親や医師の嘘は、入院の二日目で私にばれてしまった。その日の夜、眠ろうとしていた時に部屋のドアをノックする者がいた。今でも、あの時ドアを開けなければ、と思うことがある。その出来事は唐突であり、心構えとは無関係に、暴力のように私を突いた。看護婦だと思った私は、返事をしても中々入ってこない相手を不審に思いながらもドアを開けた。そこには、青い服を着た少年が立っていた。私はその姿を見、微かな悲鳴を上げた。彼の容貌を、今でも鮮明に思い出すことができる。酷く痩せ、その顔は頭蓋骨に薄い皮膚が付いているようだった。剥き出しになった歯茎には歯が付いておらず、そして何より、落ち窪んだ皮膚からこぼれるように、丸く大きな目が突き出ていた。少年は、息を飲んで立ち竦んでいる私に向かって「あんたの病気知ってるよ」と言った。
「え?」
「さ、さっき、立ち聞きしてたんだ。あんた、本当は死んじゃうんだ」
「は?」
「だから、あ、あんたは死んじゃうんだ」
「何言ってるんだよ、からかってるなら怒るぞ」
「からかってないよ。に、二○五号室ってここだろう? 間違いないよ。T先生がYさんと話してるのを、聞いたんだよ」
 Tとは私の主治医の名前で、Yはよく病室に来る看護婦の名前だった。一瞬、言おうとした言葉を忘れ、彼の言葉が深く入り込んだ。だが、すぐに気を取り直した。
「そうやってからかっておもしろいのか? もう遅いんだから、早く病室に戻れよ」
「ほ、本当だよ。お前、血の混ざったオシッコが出るんだろう? ずっと熱が高くて、この間なんて、皮膚から、いっぱい、いっぱい、血が出てきたんだろう? し、知ってるよ、お前の病気。すごい病気だな。知ってるよ」
「帰れよ、今すぐ」
「お前、死んじゃうんだよ。お、俺と、一緒だ」
 あの時、少年は声を上げて笑った。その突如私の人生に入り込んだ何かの使者のような少年は、心底嬉しそうに、その身体では苦しいはずなのに、いつまでも笑い続けた。しかし、私はそれどころではなかった。自分の病状が知られているという恥ずかしさと、薄々気がついていた、この病気に関する不安を突かれたからだ。強引にドアを閉め、翌日、一睡もせずに主治医を呼び、病気に関する説明を求めた。自分が立ち聞きしていた、と嘘をついた。私はどんな表情をしていたのだろう、医師は恐れたように顔を歪めていた。その場は追い返されたが、二日後、両親が立ち会い、気味が悪いほど静まり返った部屋の中で、本当の病名が明らかにされた。母は泣き、嘘をついていたことを何度も謝った。私はパイプの椅子にもたれ、机の角を凝視しながら、いつまでも動けなかった。視界が狭まり、激しくなる心臓は痛く、身体のどこにも力が入らなかった。思えば、あれは私が体験した、圧倒的ともいえる、人生最初の暴力だった。涙が出たのは、睡眠薬で眠った翌日の朝だった。死ぬ、という可能性は、それだけで私を押し潰していた。身体が震え、布団をかぶり、うつ伏せになりながらいつまでも泣いた。私は十五だった。看護婦も、両親でさえも、見たくはなかった。

続きは本誌にてお楽しみ下さい。