8月の果て 柳美里
【梗 概】 一九一二年、日本の統治下にあった朝鮮の慶尚南道・密陽に生まれた李雨哲は将来を期待される長距離走者だったが、マラソン出場の夢をかけた一九四○年の東京オリンピックは戦争が激化していくなかで中止になる。雨哲は二人の愛人との間に次々と子供をもうけ、妻と離婚、妓生屋の安静姫と再婚した。雨哲の弟・雨根は慶南商高でリーダー的な存在だったが、共産主義活動のために警察当局に捕まり、山中で生き埋めにされる。雨根に想いを寄せていた少女・英子は騙されて日本軍の慰安婦にされ、一九四五年八月の終戦直後、偶然出会った雨哲に全てを語り終えたあと、船上から身を投げた。日本による植民地支配と戦争、祖国分断という歴史の闇に蠢く無数の恨を背負って雨哲は走り続ける。 シャッフル PAGE of WANDS 果てしない青空の下を鱗のような巻積雲が、タラオリョム(ついておいでよ)とばかりにゆっくりと流れ出し、赤や黄や紫の葉がパルランパルラン(ひらひらひらひら)、落ちながら舞う葉の動きに合わせ大気までもがパルランパルラン……。 洗濯物がどっさり入ったパレトン(洗濯物入れ)を頭に載せた女たちがチマ(スカート)の裾を蹴りながら畦道をのぼってくる。 ちょっと見てよ ちょっと見てよ わたしを見てよ 真冬に咲く花を見るように わたしを見てよ アリアリラン スリスリラン アラリガナンネ アリラン峠を越えてきてよ やっと逢えたあのひとに 口きくことさえできないで はにかむだけのわたしなの アリアリラン スリスリラン アラリガナンネ アリラン峠を越えてきてよ パルランパルラン、女たちのチマが肉付きのいい脚のまわりで激しく波打って、パルランパルラン……チマが水平になって風が止んだ。チマの裾を紐で縛って川べりに降りた女たちは歌を呑んで顔を見合わせた。 「真っ赤だ」 「アイゴー……」 「昨夜、大きなトラックが停まったじゃないか」 「十発や二十発じゃきかなかったよ……五十発……六十発」 「いや、百発は超えていたよ、タン、タン、タン、タン、タン、タン……アイグ、怖くて眠れなかったよ」 「きっと、あそこだろうね」 「あそこしかないよ。あそこの、山がトゥッ(がくっ)と崖になって、大きな岩で行き止まりになっているところ……ひと晩中雨が降ってたから染み出たんだろうよ」 「ちゃんと埋めてないだろう。埋めないとカマギ(からす)やケ(いぬ)が……」 「アンデ(だめだよ)!」 「埋葬したりしたら、関係があると思われて警察に引っ張ってかれるよ」 「放っておくしかない」 「アイグ、どこで洗濯すればいいのか」 「井戸でするしかないだろう」 「十二人も家族がいるのに、アイグ、イルルオッチェ(これをどうしよう)」 「二、三日で元の水に戻るだろう」 「二、三日で血が抜け切るかね? ケだって逆さに吊して三十分はかかるじゃないか。ほんとうに百人以上だとしたら……」 赤い川と黒い鳥から目を逸らしていられるのならば、風景はなにひとつ変わらなかった。数ヵ月前も、数年前も、数十年前も、そしておそらく数ヵ月後も、数年後も、数十年後も、いま、在る、すべてのひとびとが死に絶えても、空、雲、山、川――、六人の女たちの視線は真っ赤な川をクブルグブル(うねうね)と溯って崖下の岩のところで停まった。 「カマギ(からす)だ」 「アイグ真っ黒じゃないか」 泥道にはたくさんの足跡が残り、足のかたちに雨が溜まっていた。 「アイグ……」 「カマギがいなくなるまで、あそこには行かないほうがいい」 「カマギが消えてもアンデ(だめだよ)。あたしらはなにも見ないし、なにも知らない。そうじゃないかね?」 「アイゴー、イロルスガー(なんてこと)」 女たちはチマの裾を縛った紐をほどいてパレトン(洗濯物入れ)を頭に載せた。パレトンが表情を隠した女たちの顔にさらに陰翳を加え、ひとりの女が口を結んだまま密陽(ミリヤン)アリランをうたいはじめると、一行は柩輿を担いで墓所へ進む行喪のように重い足取りでうたいながら、きた道を引き返していった。 間違いだったよ 間違いだったよ 間違いだったよ 輿にのり嫁にきて 間違いだったよ アリアリラン スリスリラン アラリガナンネ アリラン峠を越えてきてよ 風が女たちの唇から歌を巻きあげた瞬間、血を川に注ぎ、肉を鳥に啄まれている百三十四人の魂がそれぞれのからだから抜け出し声となって孵化した。 松林のなかで鳴く鳥は もの哀しや 阿娘(アラン)の恨み(ハン)を 哀しんでかい アリアリラン スリスリラン アラリガナンネ アリラン峠を越えてきてよ 嶺南楼(ヨンナムル)に射す月は 冴えわたるのに 南川江(ナムチョンガン)はだまって 流れるばかり アリアリラン スリスリラン アラリガナンネ アリラン峠を越えてきてよ あざやかな色どりの 阿娘閣には 阿娘の魂が宿っているよ アリアリラン スリスリラン アラリガナンネ アリラン峠を越えてきてよ 声は高く高く昇りつめ、滑らかで青い空の彼方に吸い込まれ、もうだれにも捕らえることはできなかった。 続きは本誌にてお楽しみ下さい。
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