【冒頭部分掲載】

小特集 ジャック・デリダ
Re‐membering Jacques Derrida


柄谷行人+鵜飼哲+浅田彰


   デリダのビオ=グラフィ

浅田 ジャック・デリダが去る一○月九日に世を去りました。今日は、デリダと多少とも接触のあったわれわれ三人が話をすることで、デリダに対する「喪の作業」を始めることができれば、と思っています。柄谷さんは一九七八年にポール・ド・マンの紹介でデリダと出会い、二○年近く断続的な接触をもってこられた。僕も、八四年に柄谷さんとともにデリダにインタヴューしてから、折に触れて会うようになった。他方、鵜飼さんはデリダが初来日した八三年に会われ、翌年に彼のところへ留学されて以降、デリダについて論じかつ翻訳もされながら密接な関係を保ってこられた。柄谷さんと僕は一定の距離を置いて、鵜飼さんはきわめて近いところで、デリダと接触してきたわけです。デリダが初来日して連続セミナー(『他者の言語』法政大学出版局)を開いたのはここ京都大学に隣接する関西日仏学館においてであることを思えば、この場所もまたデリダを追悼するにふさわしいと言えるでしょう。
 デリダを追悼する。「Re‐membering Jacques Derrida」という副題が示すように、それは、四散したデリダの断片を再びつなぎ合わせることでもあるでしょう。しかし、エジプト神話で、死んだオシリスの体の断片をイシスが集めてつなぎ合わせようとしたときファルスが欠けていたというように、肝心の部分が欠けているかもしれない、また、もともとなかった異質な要素が紛れ込んでしまうかもしれない、いずれにせよ、正しい復元というのは不可能なので、それぞれが自分の視点からデリダの断片をつなぎ合わせることしかできないでしょう。そのことはまさにデリダの強調していたことではなかったか。いずれにせよ、かくも巨大な存在が世を去って間もない今、彼について中立的な立場から十全に論ずることなど不可能です。むしろ今日は、普段なら人前で語ることのないそれぞれの個人的な思い出などもあえて語りながら、そこからデリダの像を点描していくことにしたいと思います。また、三人ともにデリダへの哀悼の意を分有していることは当然の前提なので、デリダに対する批判が語られるとしてもそれはデリダに対する敬意を前提としてのことだという点は、あらかじめ強調しておくべきでしょう。
 ここに集まった聴衆のなかには、デリダをずっと読んでこられた方も多いでしょうが、これからデリダを読んでみようという方もおられるでしょう。とりあえず、あまり予備知識を前提することなく、ごく大雑把にデリダの生涯を振り返るところから始め、その後おふたりにバトンを渡して本格的な議論に入っていきたいと思います。
 ジャック・デリダは、一九三○年にアルジェ近郊に生まれ、二○○四年にパリで七四歳の生涯を閉じました。彼が生まれたのは、フランスによる植民地化以前からアルジェリアに住んでいたユダヤ系の家庭だったけれど、彼が生まれたときにはもうフランス語を話すようになっていた。とはいえ、アラブ人でもベルベル人でもない、かといってフランス人でもないという、きわめて不安定な位置にいたわけです。後にデリダは『他者の単一言語使用』(九六年)という本を書きます(守中高明さんの日本語訳[岩波書店]はすぐれたものですが、『たった一つの、私のものではない言葉』という邦題は、世界中の言語をマスターした人が最後の一つの言語のことを言っているようにも読めてミスリーディングなのが残念です)。私にとって母語といえばたったひとつフランス語しかない、しかるにそれは他者の言葉である、というわけですね。これは、少年期に彼の置かれた位置の複雑さを言語のレヴェルで捉えたものといえるでしょう。しかも、そこに第二次世界大戦の波が押し寄せて来て、デリダはユダヤ人として学校から排除されたりもする。つまり、後に「フランスを代表する哲学者」などと呼ばれもするようになったデリダは、少年時代に、北アフリカにあって、植民地主義、世界大戦、そしてとくに反ユダヤ主義といった歴史の激動を、身をもって体験してきた存在だということを、最初に強調しておきたいと思います。むろん、彼はプロになりたかったというくらいのサッカー少年だったので、必ずしも暗い少年期を送ったわけではない。半面、パリのブルジョワの子どもたちのように、文学や美術や映画といったものを自然な教養として身につけることがなかった、いわば「野生の異例者」(アントニオ・ネグリがスピノザを呼んだ言葉を別の意味で援用するなら)だったということも、言い添えておきましょう(蓮實重彦さんが本誌前号で要するにデリダは文学的なセンスがなかったという主旨のことを書かれていましたが、もちろんそうだったからこそデリダは偉大だったのです)。
 デリダは四九年に一九歳で初めてフランスに渡り、五二年に高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)に入ります。日本占領下の台湾あたりで育った朝鮮人の少年がとつぜん東京大学を目指して首都にやって来たようなものですね。そこで、精神的な不安定が昂じ、試験になかなかパスできないなど、ずいぶん苦しい学生生活を送ったようです。しかし、高等師範学校で、同じアルジェリア出身のルイ・アルチュセール(彼は「カイマン」――いわば沼の主としてのワニ――と呼ばれる教師兼寮監のような仕事に就いていた)の知己を得(ただ、アルチュセールや彼が招聘したラカンを囲むエリート秀才たちの前衛主義とは後々まで距離を置き続ける)、さらに、ゲイとして抑圧に苦しんでいたミシェル・フーコーとも出会う。そんななかで哲学研究に没頭するようになったデリダは、五六年に高等師範学校を卒業する頃から自分の仕事に集中するようになっていきます。
 そこでデリダがまず取り組んだのはフッサールでした。五三~五四年にルーヴァン大学のフッサール文庫を訪れ、未刊のものも含めた草稿を研究して、『フッサール哲学における発生の問題』(九○年になって刊行)という論文を書く。さらに六二年にはフッサールの『幾何学の起源』を翻訳してそれに序文を付す(青土社)。これが哲学者デリダの出発点と言っていいでしょう。
 ちなみに、ルーヴァンに行った後、デリダはハーヴァード大学にも留学し、ジェイムズ・ジョイスに熱中したりもしている。フランスではマージナルな存在であると同時にアメリカで活躍するという後のキャリアの端緒が、すでにそこにあると言えるかもしれません。なお、留学中に結婚したマルグリット(精神分析家でドイツ語文献の仏訳者でもある)との間にはふたりの子どもが生まれます。長男はピエール・アルフェリという筆名でオッカムに関する論文を書いたのち詩学や詩のほうへ進み、エチエンヌ・バリバールの娘である女優兼歌手のジャンヌ・バリバールとコラボレーションを試みたりしているのですが、デリダが僕に「息子は僕の名を使ってくれないんだよ」と言うので、「それが無理だということはあなた自身の理論からも明らかでしょう」と答えた記憶があります(笑)。
 さらにいえば、デリダはシルヴィアーヌ・アガサンスキ(キルケゴールからベンヤミンにいたる研究で知られる女性哲学者)との間にも子どもをひとりもうけています。港道隆さんが『図書新聞』一○月三○日号に書かれた追悼文のなかで、デリダの遺族の心痛を慮りつつ、フランスの新聞がわざわざアガサンスキとの子どものことに言及するのが理解できないと書いておられて、その心情はわからなくもないのですが、僕はむしろ逆の印象をもつんですね。結婚制度はくだらないと言っていたデリダは、とにかく種を撒き、育ってきたらそれに応答するという、「散種(ディセミナシオン)」と「応答=責任(レスポンサビリテ)」という倫理を実践しているわけです。アガサンスキは後にリオネル・ジョスパンと結婚するわけで、ジョスパンがル・ペンに出し抜かれず大統領選挙でシラクと対決していたら、ファースト・レディになっていたかもしれない。現に、首相時代のジョスパンが来日したとき、僕も随行したアガサンスキと食事をしたことがある。そんな相手との間にも子をもうけるところが、いかにもフランスの文人らしい。むしろそれがデリダなのだと思います。
 話を戻すと、デリダは六四年に母校に戻り、八四年(五三~五四歳)までそこで教鞭をとります。むろん、高等師範学校というのは大学校(グラン・ゼコール)と呼ばれる超エリート校ですが、デリダはメートル・アシスタン、つまり講師というような肩書きのままだった。パリ大学(ソルボンヌ)で教授になって弟子を育てるといったアカデミー主流からは排除されていたといっていいでしょう。ちなみに、デリダは、その後八四年から社会科学高等研究院の研究ディレクターになって最後まで務めるのですが、これもまた大学院大学のようなもので、デリダのセミナーは出席者の多くが鵜飼さんのような外国人という状況でした。
 そのデリダが最初に大きな反響を引き起こしたのは、フッサール論である『声と現象』(理想社)をはじめ、『グラマトロジーについて』(現代思潮社)、『エクリチュールと差異』(法政大学出版局)と三冊の本を立て続けに出した六七年のことです。しめしあわせたわけではないでしょうが、六六年にフーコーの『言葉と物』がベスト・セラーとなり、六九年にジル・ドゥルーズの『差異と反復』や『意味の論理学』といった主著が出るわけで、後に「ポスト構造主義」と言われることになる主要な仕事がこのころ一気に出てくるんですね。その少し後、七二年にも、『余白』、『散種』、『ポジシオン』(青土社)という三冊が出ます。これらの仕事によってデリダは誰もが注目する存在となったのです。
 デリダは一生をかけて要約という暴力に抗い、テクストを細部にいたるまで精密に読むことにこだわった人なので、これからすることは最悪の形でデリダを裏切ることにほかならないのですが、あえて暴力的に要約するなら、『声と現象』や『グラマトロジーについて』で彼が行なったことの核心のひとつは、音声中心主義批判という形でデカルト=フッサール的な意識の自己現前の神話を批判するということです。フッサールは『デカルト的省察』という本を書いているくらいで、デカルトの「我思う故に我在り(コギト・エルゴ・スム)」を現象学的に厳密化したのだと言ってもいい。そういうデカルト=フッサール的な哲学の根幹にある、意識が自分自身に対して透明に自己現前するという円環は、実は「自分が話すのを聞く(s'entendre‐parler)」という円環に基づいている。つまり、「ロゴス中心主義(ロゴサントリスム)」とは「ロゴス音声中心主義(ロゴ・フォノ・サントリスム)」であり、実はデカルトどころかプラトンにまで遡るそうした「ロゴス音声中心主義」こそを批判しなければならないのだ、ということになるわけです。

続きは本誌にてお楽しみ下さい。