本・雑誌・ウェブ

【冒頭部分掲載】

まぼろし

生田紗代


 上りのエスカレーターを降りた瞬間、迷った、という思いが、なぜだか頭をよぎった。実に久しぶりに覚えた感覚だった。
 私はよく道に迷う子どもだった。方向音痴、というのとも少し違う。おそらく、目的地にたどり着けるように自ら努力する能力が、若干欠けていたのではないかと思う。
 例えば、行き慣れていない街で道に迷ったとしても、歩道のあちらこちらに立っている看板に貼られた地図を見て、自分の現在地を確かめるということはせずに、ただやみくもにうろうろと歩き回っては、さらに迷い、見知らぬ風景の中で一人、途方にくれる、そんな子どもだったのだ。初めて行く友達の家に向かおうとしては迷い、かくれんぼをしてもっと見つからない場所へ、と思っているうちに迷い、ピアノのレッスンの帰りに寄り道をしては迷っていた。
 迷ったときはすぐにわかる。目の前の景色がぶわりと膨張するからだ。宇宙みたいに広がって広がって、膨らんで、自分の体と地面を結んでいた、蜘蛛の糸みたいに細くて白い糸がしゅるりと消えて、私は突然身軽になる。身軽になるから足どりも軽くなって、やたらと歩き回ってさらに取り返しのつかないところまで迷う。それが私の迷いのメカニズムのようだった。
 九歳のとき、私があまりに頻繁に道に迷う、ということを父から聞いたらしい祖母は、お正月に家族で父の実家に挨拶に行ったときに、これだけ覚えていれば大抵の場合は大丈夫だから、と私に念を押してから、「亜紀ちゃん。迷ったときは、まず近くにいる人に訊くこと」と教えた。
「ここはどこですか。〇〇に行きたいんですけど、どう行ったらいいですか。この二つを、まず訊くんだよ」
 素直にその教えを守ってきた私は、成長してもその癖がなかなか抜けなかった。電車の乗り継ぎがわからなかったら、切符売り場の路線図も見ずに、真っ先に駅員に訊く。友達と一緒に歩いていても、すぐに人に道を訊くので、「ねえ、そこの看板に地図あるじゃん。まずそっち見ようよ」と呆れられたことも往々にしてあった。当たり前だが人間は地図より正確ではないので、結構いい加減に答える人もいて、教えられた通りの道を行ったら全く違う場所に出てしまったことも少なくないのだが、それでも私は、人に訊くことをやめようとは思わなかった。人に訊いたほうが、私が望んでいる場所にきちんとたどり着ける。そんな固定観念が、私の頭にはなめらかにすり込まれていた。

続きは本誌にてお楽しみ下さい。