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【冒頭部分掲載】

百の谷、雪の嶺

沢木耕太郎


   第一章 ギャチュンカン

    

 ギャチュンカンという山は知っていた。地図上では、世界最高峰のエヴェレストと第六位の高さを持つチョー・オユーとのあいだに位置している。しかし、山野井泰史はそれまでギャチュンカンを意識して見たことはなかった。チョー・オユーの南西壁を、新しいルートからたったひとりで登ったときも、エヴェレストの手前にその頂が見えていたはずだが、まったく記憶になかった。
 山野井がギャチュンカンに関心を抱かなかったのも、ある意味で無理はなかった。ギャチュンカンは、山野井だけでなく、世界のクライマーにとってもさほど関心のある山ではなかったのだ。少なくとも、登る対象になりにくい山だった。
 理由は二つある。
 ひとつは、ネパールとチベットの国境にあるヒマラヤの高峰群の中でも、とりわけ未踏の谷の奥深くにある山だったということがある。山の取り付きにたどり着くためには、かなりの距離のキャラバンをしなくてはならない。
 ギャチュンカンが谷の奥深くにあるということは、その名が示してもいる。チベット語で「ギャ」は「百」、「チュン」は「谷」、「カン」は「雪山」を表す。つまり、ギャチュンカンは「百の谷が集まるところにある雪山」という意味になるらしいのだ。ギャチュンカンの中国名は、音をそのまま漢字にしたものと思われる「格仲康峰」だが、チベット語の意味を踏まえて「百谷雪山」、あるいは「百谷雪嶺」と表現されることもある。しかも、その「百谷雪嶺」の壁は急峻で、他の山のように比較的簡単に登れるノーマル・ルートを見出しにくい。
 ギャチュンカンがこれまであまり登られなかったもうひとつの理由は、その高さである。世界には八千メートルを超える山が、八八四八メートルのエヴェレストから八○一三メートルのシシャパンマまで十四座ある。それらはすべて広義のヒマラヤに位置しており、世界のクライマーたちは、このヒマラヤの八千メートル峰十四座をめぐってさまざまなかたちの先陣争いを繰り広げてきた。しかし、ギャチュンカンの高さは七九五二メートルと、八千メートルにわずか四十八メートル足りない十五番目の山なのだ。逆に言えば、難しさはほとんど八千メートルの山を登るのと同じか、それ以上なのに、登頂しても八千メートル峰を登ったという「勲章」を得ることができない。とりわけ、八千メートル峰の十四座をすべて登るなどという目標を掲げているクライマーにとっては、まったく意味のない山だった。
 山野井には、八千メートル峰の十四座を完登するとか、七大陸の最高峰をすべて登頂するといった「ピーク・ハンティング」の趣味はない。その山野井にもギャチュンカンが視野に入ってこなかったのは、やはりその近くにエヴェレストやチョー・オユーといった巨峰があり、まずそちらに眼を奪われていたからということになる。

 そのギャチュンカンにどうして登ろうと思いはじめたのか。

続きは本誌にてお楽しみ下さい。