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【冒頭部分掲載】

死顔〈遺作〉

吉村 昭


 駅の南改札口は、跨線橋の上に設けられていて、改札口を出た私は、橋の上を右方向に渡っていった。
 橋の両側には事故防止のためか、高い金網が張られていて、その下方に列車、電車のレールが幾筋ものびている。
 橋を渡り切ると、私は、いつものようにそこで足をとめた。前面に生れ育った町が遠くまでひろがっている。終戦の年の春に夜間空襲で町に焼夷弾がばらまかれて焦土と化し、当時の面影は失われている。
 石段をおり、道を横切って左に曲った。露地を進み、右手のホテルの自動扉の中に入った。
 フロントの前に広い喫茶室があって、私は入ると左手の壁ぞいの椅子に腰をおろし、近づいてきたウエイターにミックスサンドとコーヒーを頼み、椅子に背をもたせかけた。
 その喫茶室に入る度に、奇妙な感慨にとらえられる。母は空襲のあった前年の夏に子宮癌で痩せさらばえて死んだが、父は母の療養のために隠居所を建て、母の死後、私と弟がその家で寝泊りしていた。
 母が死ぬ前から父は待合の女将を愛人にしていて、隠居所が空襲で焼けた夜も女を相手に奥の座敷で酒を飲んでいた。そのうちに米軍機が飛来して、裏の家に焼夷弾が落ちて炎をふき出すと、酔った父は女とともに家を出てゆき、私もそれを追うように駅をへだてた谷中の墓地に避難した。
 今から二十年ほど前に駅の近くにホテルが建ち、当時からあった道をたどってホテルが隠居所のあった地に建っているのを知った。喫茶室は庭のあった場所にちがいなく、鯉の泳いでいた池や梅の花をつけた樹が思い起される。
 椅子に座っていると、空襲のあった翌日の午後、焼跡に足をふみ入れて白くひび割れた庭石に腰をおろしていたことがよみがえる。池の水は蒸発してコンクリートの底に亀裂が走り、焼きはらわれた町が干潟のように平坦にみえていた。
 運ばれてきたサンドイッチに手をのばした時、白髪の小柄な兄が喫茶室に入ってくるのが見えた。
 兄は近づくと、よおと言うように少し右手をあげて、私の横の椅子に腰をおろし、ウエイターに私と同じものを註文した。
 前日の夜、私は兄に電話をかけ次兄の病気見舞いに行くことを打合わせた。落合う場所を話し合い、適当な場所が思いつかず生れた町に建つホテルの喫茶室に定めたのだ。
 兄は私より六歳上の八十歳で、横浜で寝具商を営み軽い肺気腫があるが、店は長男にまかせ、英会話をまなんだりしてすごしている。
 次兄は、十年ほど前、肺癌の手術を受け、その後は再発することもなくすごしてきたが、昨年の晩秋頃から全身が衰弱したらしく、二十日ほど前に自宅に近い茨城県下にある総合病院に入院していた。
 嫂が病床に付き添い、次兄の長男がしばしば病院に行っているようだったが、数日前、長男からの電話で、長くは持たないと担当医に告げられたという。
 私は、病人の見舞いには行かぬことを常としていて、それは自分の病歴の経験から信条に近いものとなっている。
 中学校に通っていた間に、肋膜炎、肺浸潤と二度の発症に見舞われ、戦後二十歳の冬に喀血し、寝たきりの肺結核の末期患者になった。菌は腸もおかして、食糧が枯渇していた時代に、わずかな栄養価の乏しい食物を口にしただけであったが、それも消化されず痩せに痩せた。咳は絶えずつづき、発熱にもおそわれて、眼から熱い涙が流れた。
 戦後、焼跡に建てられた六畳と三畳二間のバラック建の家で病臥していたが、時折り親戚の者や友人が見舞いに訪れてきた。ベニヤ板の張られた天井を見るだけですごしていた私には、それらの人の訪れが嬉しかった。
 かれらと対する時、私の内部に作為ともいえる意識が働いていた。私は決して重病人ではなく、近いうちに病いも癒えて日常生活にもどれる。それをしめすため、張りのある声で話し、笑うこともする。それは当然体の負担になり、かれらが辞してゆくと、必ずたとえようもない疲労が体を無感覚にし、熱はあがり、息も絶えだえになって長い間眼を閉じていなければならなかった。
 一日置きにやってくる町医は、死は時間の問題だと兄たちにひそかに告げ、私も意識を失って、眼をあけてみると町医とともに兄や弟たちが私の顔を見つめているのを眼にしたこともある。後にきくところによると、町医が臨終に近いと兄たちを呼んだのだという。そうした私が、半ば実験的な肋骨を切除することによって治療に導く手術があることを知り、兄たちがこぞって反対したが、私はそれを押し切って手術を受け、それによって奇蹟的にも死をまぬがれ、それから五十年近く生きつづけている。
 末期患者であった頃の記憶が胸に焼きつき、見舞いに訪れてきた人に元気を装っていた自分の姿がよみがえる。虚勢をはり、それ故にその後の甚しい苦しみが思い起される。

続きは本誌にてお楽しみ下さい。