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【冒頭部分掲載】

新連載
決壊

平野啓一郎


祈りなさい、主よ、
私たちに祈りなさい、
私たちはまぢかにいます
――パウル・ツェラン

      第一部 殺人
       一 疑念

        1
『……なぜだろう?』
 博多行の新幹線〈こだま〉は、新下関駅で、後続の〈のぞみ〉の通過待ちをしていた。
 沢野良介は、進行方向を背にして、向かい合わせに設えられた座席の窓側に座っていた。正面には三歳になる息子の良太が、隣に座る妻の佳枝の膝を枕にして眠っている。
 駅弁の甘酸っぱい臭気が立ち籠める車内は、盆休みの帰省客で賑わっていた。所々で子供たちのはしゃぐ声が聞こえ、それを諫める大人たちの声が聞こえる。或いは、実家の家族と携帯電話でこっそり到着時刻の確認をしたり、同乗の者と何と言うこともない世間話をしたりする声が聞こえている。
 良介は、自分が今いるそうした風景に、まだ硬い蕾のような感慨を覚え、目の焦点を曖昧にした。自分はこの場所に、ひとりの父親としている。――そう、父親なんだ。妻を伴い、子供を連れて両親の待つ実家に帰省しようとしている。何時の間にか、そうした年齢になってたんだ。……
 丁度、そんなことを考えていた時だった。通路を歩く見知らぬ乗客が、通り過ぎ様にジロリと座席の人の顔を見て行くように、先ほどの言葉が脳裡を過ぎていった。
 良介は、殆ど反射的に自分自身を顧みて、今度は改めてその言葉の方に目を遣り、見えなくなるまで、ずっとその後ろ姿を追っていた。確かに一瞬、目が合ったように感じた。しかし、その一瞥に、彼はまるで心当たりがなかった。そうした疑念が何処から来たのか分からなかったし、何故自分を訪うたのかも分からなかった。しかし、一層奇妙に感ぜられたのは、それをただ、気のせいだとやり過ごすことが出来ずに、まるで何かを見咎められでもしたかのように、動揺してしまったことだった。
 既に言葉は去っていたが、彼の中にはその一瞥の記憶が残った。そして、不安げにそれを覗き見ると、見られた自分が、そのまま身動きが取れなくなって、そこにまだじっとしているような気がした。

続きは本誌にてお楽しみ下さい。