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【特別対談】情報革命期の純文学/東 浩紀+平野啓一郎(「新潮」2010年1月号より転載)

■ 特別対談 ■
情報革命期の純文学/東 浩紀+平野啓一郎

(「新潮」2010年1月号より転載)


編集部 平野啓一郎さんの書き下ろし長編『ドーン』(講談社刊、2009)と東浩紀さんの単著としては初の小説『クォンタム・ファミリーズ』(小社12月刊)には興味深い共通点があります。まず、二〇三〇年代の近未来が舞台である。そしていずれも、超高度情報化社会の人間あるいは世界の〈同一性障害〉を描いた作品です。人間の同一性障害は『ドーン』における「分人dividual」という概念に象徴され、世界の同一性障害は『クォンタム・ファミリーズ』における並行世界という設定に象徴されます。お二人が、シンクロするかのように近未来の視点から現在を照射する力作を書かれたのに際して、初めて語り合っていただきます。

平野 『ドーン』の設定では、主人公である宇宙飛行士が火星から地球に帰還したのが二〇三六年なんですが、東さんの『クォンタム・ファミリーズ』(以下『クォンタム』)を読んだら、時代設定がほぼ同じだったので、驚きました。僕の場合、人類が火星に行って帰ってこれるのがいつ頃なのかを調べた結果、最短で二〇三〇年代だろうって意見が多かったんですね。それと物語に大きくかかわるアメリカ大統領選の四年周期を考えると、二〇三六年という年号が自ずと出てきたんです。さらに言えば、今マンションを買う人が三十五年ローンを組むと、二〇三六年はまだ支払い終わってなくて、未来ではあるけど現実感がある時期です。小説の後半に、老人になったブルース・スプリングスティーンを登場させたんですけど、ブログの感想を読んでると、あそこに反応した人がけっこういました。二〇三六年ならまだ彼も生きているかもしれないと(笑)。ですから、単なる寓話として未来を書くというよりも、もう一回そこを経由して現代を考えられる距離感が大切だったんです。
 僕のほうも一応は設定上の理由があるんですが、直感的なものでもありました。うちの娘が二〇〇五年生まれなんですが、彼女が三十歳になるのが二〇三五年なんです。結局平野さんがおっしゃったのと同じことで、現在から手の届くギリギリの未来という感じですね。
平野 『クォンタム』では並行世界を描かれていますが、そのせいで、現在からリアルに想像できる未来も、実際にはありえないような未来も同時に描けるというのは設定の強みだと思いました。
 ありがとうございます。
平野 『クォンタム』の最初のほうでは、「量子脳計算機科学」の理論にけっこうなボリュームが割かれてますけど、あれはどうなんですか。あれだけ詳しく書いたのは、やっぱりあそこが重要なんですかね。
 確かに長すぎたかもしれませんが、あれは作品の中で本質といえば本質なんです。『クォンタム』っていくつも世界がある話のようですけど、実は、全部が計算機が見てる夢という話でもある。
平野 ええ。ちょっと円城塔さんの『Self-Reference ENGINE』を思い出しました。
 でも円城さんとはちょっと違っていて、この物理的な世界そのものが計算機みたいなもので、だからデータを別様に解釈するとまた別の世界が出力されてくる――そういう世界観を書きたかったんですよね。というわけで、それを支える世界観の部分が長くなってしまうのはしょうがないというか、あれがないと単純な多世界宇宙SFになってしまうと思って。
平野 僕はボルヘスの「八岐の園」という短篇を思い出しました。物語の中で何か出来事が起こるたびに、あれかこれかのプロットの選択をせずに、そこから考えられる分岐の可能性を全部書くという人の話です。すごく好きな作品だったんだけど、『クォンタム』を読んでもう一回考えた時に、なんかあの話って変だなと思ったんです。
 どういうことかというと、あれはフィクション論ですが、何か起こった時にすべての展開のパターンを網羅的に考えられるという前提の話なんですね。なんとなく納得するんですが、他方、実際の人生の分岐点って、結局、過去を振り返って、主体を中心に、恣意的に決定されるポイントなんだと思うんですよ。東さんが小説で書いた人生の折り返しとしての「三十五歳問題」みたいなのも、自分の人生を振り返って、現時点からそれを言語化していく中で、あそこが自分の分岐点で、違う選択をしていたら違う人生があったというようなことを、想定するわけですよね。そこから並行世界の想像というのが湧いてくる。こうなり得たかもしれない自分と世界という。だけど、それは言語化の中で起こることだから、Y字路みたいな物理的な実体として過去に分岐点があるわけでは当然ない。過去をどういう言葉で語って、どこを分岐点と定めて、どんなパターンを考えるかによって、想像される並行世界は全然違ってくる。
 だから、忘れてしまっているような、どんな些細な一瞬でも、原理的には分岐点として想定しうるし、東さんが言われてるみたいにバタフライ効果みたいなことまで考えだすと、分岐点が一体どこに潜んでるかわからなくなってしまう。大学入試の合否とかは分かりやすい分岐点かもしれないけど、ぼーっとテレビを見ていた時に、突然何かを思いついたはずだとか、どっかの蝶が羽ばたいたかもしれないとか、そういう分岐点が潜んでいたのかもしれない。そうすると、極端な話、三十五年間の無限に細かい一瞬一瞬が全部分岐点になってしまって、並行世界は収拾がつかなくなってしまう。
 結局、フィクションに於ける分岐点っていう発想は、外部からの影響がない世界の中で、主体を中心に組み立てられたプロットだからこそ出てくるんだなと思ったんです。中心的なプロットを設定せずに、完全に等価な並行世界を描くのはボルヘスが考えたほど簡単じゃないなと。実際の創作では、その無数に細かい分岐点を排除しながらプロットを考えてるんだと思いますけど、『クォンタム』を読むまで、そういうふうに考えてみたことがなかったんですね。東さんが描こうとした世界観を理解しそこなっているかもしれませんが。
 『クォンタム』で書こうとしたのは、哲学書と小説という違いはありますが、僕がデビュー作『存在論的、郵便的』以来、考えている問題です。つまり、一方において僕たちは無数の可能性の世界を想像することができ、他方において一回の生しか送れない。普通はどっちかが大切だってことになるわけですが、それをもう少し上のレベルで統合できないか。今回の作品で言えば、さっき言ったみたいに単純に並行世界を書いたつもりではない。むしろ、人はどうしても並行世界があるように感じてしまうし、そんな錯覚によって人生が変わってしまうこともまた真実だ、そういう意味で可能世界があることとないことは等しいのだ、という寓話を書いたつもりです。
平野 思ってしまうってことですね。計算機の夢みたいな感触は、第二部で特によく出ていたと思います。全体として、批評では扱えない設定やテーマが盛り込まれているし、あと、文章の勢いというのか、すごいエネルギーを発散しながら書いてる感じは、作家がこれを書く必然性があったということが伝わってきました。


批評家はなぜ小説を書いたか

 なんで僕が小説を書いたか。これから何回も問われる質問でしょうから、何かいい説明を考えとかなきゃいけないんでしょうが……僕の場合、なんで小説を書いたかが問題なのではなくて、なんで批評を書いてきたのかのほうが問題なのかもしれません(笑)。
平野 どういうことですか。
 まず言えるのは、ここ二十年間ぐらい、思想や批評の表現が驚くほど不自由になってきてるということです。そこでやれることには限界がある。その点では僕は批評家としては割り切ってきている。批評で世の中を動かそうと思ったら、ちまちま評論を書くより、テレビに出たりブログを書いたりするほうがよほど効率がいい。
平野 ああ(笑)。
 その状況であえて文章を書くことの意味を考えた場合、もう趣味で書くしかない。だとすれば小説でもいい、というか小説こそいいのではないか。小説ではまだ、趣味で書くことと社会に影響を与えることがそんなに分化してないように見えますしね。小説であれば、僕が昔使っていた言葉でいえば「誤配」される可能性があるかもしれない。残念ながら、いま批評や思想の世界で誤配を起こすのはとても難しい。
平野 評論の部数が減ったというよりも、書いたことが広がらないためにモチベーション上がらないということなんですか。
 うーん、なんといえばいいか……。
平野 部数でいうと、今、純文学って一万部売れれば出版社もけっこう喜ぶくらいの規模になってて、それって単純に日本の人口の〇・〇一パーセント弱とかでしょう。僕自身もやっぱり自分の作品の影響力ってことは考えるんですけど、そういう意味では悲観することもあるし、同時に、まあ結局は、好きで書いてるってことが何よりも先に立っているところもある。東さんがあえて小説を選ぶというのは、趣味的なレベルのもうちょっと先にある話ですか?
 批評というのは、ある意味で小説よりもはるかに競争が過酷なところがあって、一時代に一人しか残らないんですよ。せいぜい二人か三人。同時代にいろんな人が書いていても、完膚なきまでに忘れ去られる。批評の歴史というのはそういうものなんですよね。
平野 でも、それは環境の変化によって変わるものでもないんですか。
 いや、そうじゃないと思います。批評もしくは思想というのは、ある種の時代精神を体現せざるをえない、というか時代精神をむしろ作ってしまうものなので、決定的な書き手はそんなに共存できないんです。だから、それは必然的にゲームになる。批評は別にゼロ年代にゲームになったわけじゃない、本質的にそういう部分をもっているんです。そして僕は、この十年間で比較的そのゲームに勝ったと思うんですが、「三十五歳問題」とも密接に関係する話ですが、最近いろいろ面倒になってきてしまった。
平野 文学史の場合、戦後は結局、「第三の新人」とか「内向の世代」とか、完全に世代論になってしまいましたが、明治の頃ってそうじゃなかったでしょう? 耽美派と自然主義は同時代にあったし、硯友社のように結社的なものもあった。あれは中央集権化される前の藩のイメージを引き摺っている人たちの感覚だったと思うんです。それが戦後になって世代論的になりましたけど、元々、一時代の多様な作家を同一性の下に一括りに出来るはずないんだし、「J文学」にいたっては名称は完全に形骸化してしまいました。僕は今みたいに作家の多様性が確保されているのはいいことだと思うんです。批評の場合、そういう話にはならないんですかね?
 批評という言葉で何を指すかですけど、例えば「折口信夫が好きだから折口論やってます」というスタイルは、それは今後も絶対に残るでしょう。でもそれは文学研究ですよね。学者が時々文芸誌に書くというタイプのものはあるだろうけど、それは批評じゃなくて文学研究の多様性です。僕の実感として言えば、批評というのは、すごくアクロバティックなメタゲームなんですね。要はだれが一番頭がよく見えるか、だれがいちばんメタに立てるかってことだけをやっている世界で、スポーツに近い。多様な可能性を生かすという条件にないんです。批評というゲームそのものが。
平野 それはその政治性も含めてということですか。
 政治性というか……。昔だったらイデオロギー的な対立があったけど、今はそれもないですよね。
平野 どれぐらいの規模で批評のプレゼンスを考えるのかによると思いますけど、実際に頭のいい人が影響力を持つようになってます?
 いや、それは本当に頭がいいかどうかとは関係がない。ただそういうゲームがあるというだけです。
平野 そのことにうんざりしてると?
 そうですね……。僕の場合、両義的に答えざるをえないですね。一方で、思想や批評には、潜在的にはおそらく三万か四万ぐらいの読者がいるので、僕はその市場をきちんと掴み、後続を育てるべきだと考えています。たとえば今『思想地図』という批評誌をやっていて、初版一万部出ていますけれど、あの読者はもう少し増えると思うんですよ。そうすれば批評は活気づくし、市場も再起動する。そういう試みは粛々とやるべきだと思いますし、今後も続けていく予定です。しかし、同時にそれはやっぱりゲームだとも思っている。やったほうが世の中のためになると思うからやるけれども、やりながらうんざりするときもある。というわけで小説を書いたって感じですね。
 ちなみに批評家・東浩紀としてしゃべりますが、僕は『ドーン』を評価しています。二〇〇九年に純文学から出てきた小説で、若手作家で残るものは平野さんの『ドーン』と川上未映子さんの『ヘヴン』なんじゃないでしょうか。というのも、『ヘヴン』と『ドーン』だけが、外部の読者に向けて純文学を再生しようと試みているように見えるからです。ただこの二作にも違いはある。『ドーン』は純文学の外部をなんとか取り込もうとしているのに対して、『ヘヴン』はむしろ純文学のなかに箱庭を作ろうとしているように見える。
平野 まあ、そうかもしれません。
 だから、よく知りませんが『ヘヴン』のほうがおそらく評判はよいのでしょう。けれどもあの方向は逃げ道がない。これは小説の出来不出来ってことじゃありません。『ヘヴン』はよくできている小説です。でも未来がない感じがする。そういう点でいうと、『決壊』から『ドーン』にいたる平野さんの試みは、応援するべきであると僕は思うわけです。
 それは言い替えれば、平野さんは純文学を外部の読者に対して開こうと思っているということだと思います。つまり文学に責任を感じているわけです。僕はその点で、平野さんや川上さんのような作家が出てきて本当によかったと思っています。だれということはないのですが、芥川賞をとったから後は自分の好きなものを書きます、それが文学的良心だと思います、みたいなことを言う人とは僕はあまり同席したくないんです。そういう発言は、自分は逃げ切れると思います、と言ってるだけのように聞こえますからね。
平野 でも、いずれ逃げ切れなくなるでしょうね、今の状況からすると。


読者との関係の中で考える

平野 今、東さんに好意的に解釈してもらったのはすごくうれしいんですけど、はっきり言って、さっきの読者数問題だけでも、純文学で日本語を変えるとか、美しい日本語がどうとか言ってても、ネットの世界で起こってる言葉の変化に比べたら、黄河の片隅の清らかな小川みたいなものじゃないですか(笑)。そこにコネクトする経路が何もないまま、「文学は素晴らしい」みたいなことを言ってても仕方ないと思うんです。何の意味もないとは言わないけれど。
 いや、端的に何の意味もないですよ。「何の意味もないとは言わないけれど」とか譲歩してるから、ますますひどいことになっている。そこは平野さんのような方がはっきり言ったほうがいいかも。
平野 いや、まあ僕は、そうしばらく言ってたけど、だんだん、自分のことだけでいいような感じがしてきてるんです。
 それは残念だ(笑)。
平野 僕が文学シーンの全体に対して責任を持つという感じはないんです。そう期待されてるとも思いません。ただ、対社会という意味では、自分は文学者だと思っています。そして、今の世の中では、俺は本当にマイノリティに属してるんだなと思うんです。で、マイノリティの重要さというのを確信すればするほど、いかにマジョリティに対して戦略的にアプローチするかってことを考えざるをえないんですね。啓蒙主義的に「マイノリティのことを尊重しなさい」とか言っても意味がないし、そういう中で、マーケットに食い込んでいけるように、文学をコンテンツのレベルから徹底的に考えないと絶対にうまくいかない。どんなに宣伝を頑張っても、今や文学の評価が全面的に読者の側に移ってきてるから、いくら同業者や批評家が褒めても、実際に評価軸を動かしているのはブログやアマゾンのレビューです。
 そういう中で、文学の世界の住人である自分としては、読者との回路を考える必要を感じるんです。文学を内側から考えるのも勿論、大事だけど、今は外側から考える時期でしょう。そもそも、ポーみたいな人の詩論でも「効果」っていうことを強調するわけだし、漱石の「還元的感化論」でもなんでもいいけど、もっと読者との関係の中で小説を考えるべきだと思うんですよ。で、その時に理想的な文学愛好家をナルシスティックに想定してもしょうがない。今のリアルな読者を考えないと。文学が変わるってそういうことだと思う。
 けど、そういう話を文壇の世界で言っても通じない局面がいっぱいあって、だんだん面倒くさくなってきてるんですよ。関心を持ってくれる人には熱心に話しますけど、なんか軽薄なこと言ってるくらいにしか思わない人もいるでしょう。
 文芸誌の作家の多くが、自分は好きなものを書ければいいって人たちになっちゃったんでしょうね。それは深刻な問題ですね。
平野 ネットの登場が如実でしたけど、大きな世代間ギャップができてしまいました。それは作家のあいだにもあるし、読者のあいだにもありますね。
 僕はメディアに着目して、人間の時間の使い方を三層ぐらいに分けて考えるんです。時空間的に、どれくらいの規模の人とコミュニケートできるかということだと思うんですけど。身体を媒介にするコミュニケーションの層と、それから出版印刷を中心とするマスメディアの層、それからインターネットというメディアの層ですね。その三層の中で小説を考えた時に、伝統的な私小説は身体を媒介にした対面コミュニケーションだけを書いてきました。他方で、漱石や鴎外は明治の作家であっても、書物というマスメディアの層を通じて計ったコミュニケーションの成果を取り入れながら書きました。日常生活を描きつつ、ゲーテがこう言ってるとか、書くわけですね。そして今、ネットという新しい三層目が登場して、人間の生活に圧倒的な影響を及ぼしているにもかかわらず、いまだに一層目と二層目しか扱わない小説の方がやっぱり多いです。だけど、さっき『ヘヴン』について言われた話に関係するかもしれないけど、その二層は、かなり書き尽くされてるんですよ。九〇年代の感覚はそれだったと思う。確かに一つの事件を書くにしても、層が一つずつ増えていくわけですから情報量はものすごく増えていて、にもかかわらず、読者が本を読む時間自体はどんどん減ってるわけだから、どういうふうに情報を圧縮して読ませるかというのはすごく考えるべきところなんですが。
 まあ、それは構造的な問題で、文芸誌はそもそも高齢の読者に支えられている。だから彼らに向けて最適化したコンテンツを出そうとすれば現状になるんでしょう。そしてそういう古いシステムに寄生していれば、若い書き手もそれなりに生きていける。だからみんな局所的には最適です。しかし全体としては沈没していく。
 とはいえ僕は文芸誌の人間ではありません。だから僕はある意味では平野さん以上に冷めていて、当事者が望めばなんでもいいと思うんです。それに僕はサブカル評論家でもあって、ネットしか知らない人たちの無教養や問題もよく知っている。けれどもそれでも、新しいことしか知らないやつと古いことしか知らないやつのどっちがいいかって言ったら、まあ新しいことしか知らないやつといたほうが楽しいかなあと。ひとことで言えば、それが僕が批評家としてサブカルやオタクに比重を移した理由ですね。
平野 僕はその考えに、今はわりと賛同するんです。僕の経歴はそう見えないかもしれないけど。たとえば、過去の小説を読むことが創作する上で意味があるというのは、勿論そうですけど、外向きという意味で言うと、いまや教養の共有が不可能になってるでしょう。しかも、今後ますます膨大な情報が、淘汰もされずにデータ化されて蓄積されていく。そんな玉石混交の中から何を自分でチョイスして、どうやって自分の中の教養として編集するのかというのは、完全に各自バラバラになっていくと思います。そういう意味で僕は、いいものなら残るはずだみたいな考えも、今はあんまり信用してないんです。ちょうど音楽でレアグルーヴのブームが起こった時に講談社文芸文庫が出たのは同期的だったと思うんですけど、ああいうことはもう起こらない気がする。知られざる傑作を見つけてきても、そんなの別にグーグルの図書館にデータ化されてあるんだから、それをある人が自分の好みで編集しただけでしょって話になる。


批評のコンテクスト依存

 少し話が戻りますけど、さっき僕が言ったのはもっと素朴な話で、つまり文学というか小説は時代を越えて共感することが可能ですよね。というか、そういう装置として作られてるわけです。ところが、思想や批評はコンテクスト込みで作品なんですよ。ここは難しいところで、僕が考えるに、多くの小説家が評論をうまく書けない理由はまさにそこにある。というのも、小説家はテクストだけで読者を感心させようとするわけです。けれどもじつは評論はそういうものじゃなくて、そのテクストの外のコンテクスト全部込み込みで作品なんですね。だから、たとえば「なんで東さんはブログやってんの?」とか言われると、僕はそういう人は批評がわかってないなあと思う。批評の読者は僕のテクストを、ブログを書いてるとか『朝まで生テレビ!』に出てるとか、すべての情報を込みで受け取り読むわけです。批評というのは原理的にそういうものです。だからブログも僕にとっては不可欠な一部になっている。
 これは言い替えれば、批評というのは、自分で自分が読まれるコンテクストを演出していく表現だということです。だから、さっき言ったみたいに、一つの時代に少数の批評家しか残らない。自分のテクストの価値をうまくセッティングできたやつが勝つんですね。これは批評の本質なんですよ。
平野 平たく言うと、マスメディアでのプレゼンスをそれなりに維持しなくてはいけないということなんですか。
 いや、必ずしもマスメディアでのプレゼンスってだけじゃなくて、セッティングの方法はなんでもいいんです。僕はもともとフランス現代思想の人間だったわけだけど、現代思想のテクストってすごくコンテクスト依存的なんですよね。とくにデリダについては、従来の哲学がいかにコンテクスト依存的だったか、それを発見するのが中心的な思想でしたからね。
 しかし、そういう思想のコンテクスト依存性は必ずしも弱点ではなくて、例えば今も僕たちはカントを読みますね。カントの思想それ自体は単に非科学的だったりするのに、今も読めるのは、つまりはその後の二世紀の哲学がカントが作ったコンテクストでの内部で動いているからです。だからアクチュアリティがある。けれども、カントと同世代にいた人間は、単純に生き残ってないので、時代を越えて読み直すコンテクストがもう作れないわけです。
平野 そのコンテクストを複数化することってできないんですかね。
 それは互いに話が通じない島宇宙になるだけですね。やっぱり批評は、領域横断的にいろんな人たちが交流する場を提供するのが役割なので、できるだけ多くのコンテクストを統合したほうがいい。でも、その時の統合のしかたが、さっき言ったみたいに、純粋にテクストだけを統合するという感じにはならないんです。これは理論的な話というより、僕がずっとやってきての実感です。
平野 まあ、レジス・ドブレも『メディオロジー宣言』でそのような話をしてますけどね。
 小説はコンテクストを作らなくても読者が勝手に感情移入してくれる装置、具体的には「登場人物」という装置を持っている。バフチンがドストエフスキーの作品世界をポリフォニーと呼んだように、小説には登場人物がいっぱいいる。その意味では、批評には登場人物が「私」ひとりしかいないんですよ。
平野 それで言うと、小説の場合、世界観のエージェントとしての登場人物たちが具体的にぶつかってくれないと、話が動かないところがありますね。映画でも、『ターミネーター』だったら、あのスカイネットというのを代表するエージェントとしてターミネーターがいなきゃいけないし、『マトリックス』はまさにエージェントだし。だから、ドストエフスキーの場合も、複数の思想のエージェント同士が議論してる感じですね。
 そう。この問題はけっこう重要で、思想の専門家というのは思想史を小説のように読んでるんですよね。
平野 ええ、そうですね。
 というか、私見では批評の才能はそれに尽きます。現実の人間を登場人物のように見なす能力。そのレベルに立てるか立てないかは、身体感覚みたいなもので、立てるひとは最初から立てる。
平野 確かに、フーコーの『性の歴史』とかを読んでて面白いのは、「こう言われてきたけど、違う、こうだ」というような、徹底して対話篇的に、議論が擬人化されてるせいですね。
 本当にいい思想史は小説のように読めるんですよね。とはいえ、いずれにしろ、僕はそういうゲームの中で一人の登場人物として振る舞うのに疲れてしまった(笑)。少なくとも僕の半分は。

(次のページへつづく)



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