立ち読み

2016年6月号

「鏡」内村薫風

 お話ししたいことが二つあります。一つは今現在の私の仕事、国家公務員として日夜、国を守るために働いている――と言いますと少々大仰ではありますがその職場での様子を、もう一つは十年前、地元で遭遇した虎にまつわる出来事を、そしてもし余裕があるようでしたらさらに一つ、学生時代に出かけたスペイン旅行、プラド美術館での話も述べられれば幸いです。
 いざ語るとなるとどのような順番でどれを主軸に置き、どれを脇に回すべきか思案に余ります。いずれの話もそれぞれに関連があるわけではなく、強いて言えばこの私が登場してくるという共通点はあるものの、話しているうちにそれらの話が渾然一体となることを期待されましても裏切ることになります。
 ですのでみなさまがたには――私の愛読する、十八世紀のあの小説に倣えば、奥様奥様と呼び掛けるべきかもしれませんが――これから述べる事柄につきまして、日々の雑感もしくはただの私の生活と意見と受け止め、付き合っていただければと願っています。

 今、私の目の前では年百年中優しい顔をしている新渡戸三等空佐がトランプを切り混ぜており、数字合わせ(神経衰弱)ゲームをやるためにカードを裏返して広げはじめています。緊張感のない、学校における休み時間のような印象を受けるでしょうが実はそれは誤りで、私と新渡戸三佐はむしろ緊張度の高い任務の最中、二十四時間体制のアラート待機中でした。領空に近づいてくる他国の飛行機が発見された場合の緊急発進に備えているわけです。
 この基地内で二組――二人で一組となります――が待機し、そのうちの一組が五分待機状態、すなわち防空識別圏に正体不明の航空機が接近し、緊急発進命令が出たとなれば、五分以内に発進しなくてはなりません。音速で飛ぶ戦闘機は、領空侵犯してから何分もしないうちに、その気さえあれば本土上空に辿り着くことができますから、まさに刻一刻を争うわけで、私と新渡戸三佐は耐Gスーツを穿いた状態で、F-15Jが待つ格納庫にいつだって飛び出せるように、心の中では陸上競技のクラウチングスタートの体勢でいるのです。
 スクランブル発進は非常に神経を使う、緊張感のある仕事です。そのために待機中はできる限り肩から力を抜き、リラックスしている必要があります。他国の戦闘機の資料を読んだり整備状況を確認したりすることもあれば、カードゲームを楽しむことも珍しくありません。神経を尖らす任務中に、数字合わせ(神経衰弱)ゲームをやるのは神経を疑われる可能性はありますが。
 数分前に新渡戸三佐は
――布瀬、おまえはどうしてこの仕事に就いたんだ。どうして自衛隊に入ったんだ。
 と訊ねてきました。
――頭の中に絵が架かっているからです。
 と答えるべきだったでしょうか。その絵を解釈するだけの鑑賞者でいることに嫌気が差したからです、と。ただそれでは相手に通じないのは明白です。
 私は答えるために記憶を辿り、過去の出来事を頭の中で振り返りましたがそうしたところ、久しぶりに再生させた昔のビデオに予想以上に見入るような気分になり、しばらく無言になってしまいました。新渡戸三佐は私に答えにくい事情があるのだと察したのでしょう
――そういえば、うちの息子が離乳食をはじめたんだけどな。
 と別の話をはじめました。並べたトランプをかき混ぜながらです。
――三佐のお子さんはもっと大きかったのではありませんでしたか。自分と同じ二十代後半じゃ。
――いや、二十歳だよ。それが長男でな、歳の離れた末っ子がいるんだよ。今の嫁さんとの子だ。もはや孫のようなもんだな。その子が食べ物を噛まずにすぐ飲み込むんだ。今は離乳食だからまだいいが消化には良くないだろ。だからこの間、医者に、どうしたものか相談したんだ。よく噛むようにと言ったところで乳児には伝わらないからな。
――どうしたらいいんですか。
――ベテランの小児科医はこう言ったよ。お父さんがよく噛みましょう。
――三佐が噛んで柔らかくするんですか。子供のいない自分はよく分からないですけど、咀嚼して食べさせてあげるものなんですか。
――違うよ。子供の見てる前で俺がちゃんと飯をよく噛んで食ってやれば、それを真似するんだと。思えば赤ん坊ってのはそうだよな。こっちを見て、同じことをやるんだ。
 私の頭に想起されたのは、ひところ話題になったキーワード、ミラーニューロンのことでした。霊長類の脳にある神経細胞、あれです。サルの前で、物をつかむ動作をしてみせると、そのサルの脳でも、物をつかむ時に働く脳細胞が発火します。そのおかげで人は他者の言動から意図をシミュレートし、人の言動を模倣することができますし、他者の感情を体験し、共感できるわけで、いわば、「人間らしさ」の源とも言えるかもしれません。
――ミラーニューロンが発見された時のエピソードを知っているか。
 私にそう話しましたのは兄です。その会話がどこで交わされたのかは覚えていませんが、ここでは仮にスペインのプラド美術館、ベラスケスの絵の前にいた時ということにいたしましょう。
 唐突に脳神経の話が飛び出してきたことに、私は困惑しました。私たちは生まれながらに対となる存在で、一卵性双生児に対して世間の人が抱くように思考は似ていましたし、あうんの呼吸、心を以て心に伝う、といったことが多かったのですが、もちろん万事そうというわけではありません。
 兄は説明してくれました。
――研究室でマカクザルの実験をしていた時に、たまたま研究者の一人がコーンアイスを舐めていた。そうしたところ、下前頭皮質に電極をつながれていたサルの脳に、まさにアイスを舐めた時と同じ反応が起きた。サルはアイスを舐めてもいないのに、脳は、舐めているように反応したんだ。それをきっかけにミラーニューロンシステムが発見されたんだと。
 その時、私の目の前にはかの有名な、このためにプラド美術館に来たといっても過言ではない名画『ラス・メニーナス』がありました。みなさんご存知の通り、ベラスケス作のこの絵には数多くの注目すべき点がありますが――このことは後で喋らせていただきます――その最重要ポイントの一つは間違いなく、キャンバスの中心からやや左下の位置に描かれている、鏡の存在です。
 そこからミラーニューロンを連想したのかもしれません。
――サルのエピソードは嘘だったらしいんだ。
――何が嘘。
――脳に電極をつけられた猿が、アイスを舐める研究員を見て反応した、という話は事実ではなかった。ミラーニューロンが見つかった時のそのエピソードは作り話だったんだ。いかにもな感じの話だから広がっちゃったんだろう。それと同じだ。
――何が。
――ベラスケスだよ。当時のスペインの王、ハプスブルグ家のフェリペ四世はベラスケスをいたく気に入って、自分の肖像画はベラスケスにしか描かせないと言った。
――そんなに気に入ったのか。
――フェリペ四世が、ベラスケスが落とした絵筆を拾ってやったという逸話がある。それくらい、フェリペ四世はベラスケスを大事にしていたと。
――筆をね。へえ。
――王が、宮廷画家の落とした物を拾うことなんて異例中の異例なんだ。
――それが?
――それも後からできた嘘だと思うんだ。ミラーニューロン発見の挿話と同じだ。いかにもそれっぽい感じがするし、面白い。まあ、それくらい王が、ベラスケスを気に入っていたという意味合いだろう。それっぽいが真実とは違う。
 申し訳ありません、新渡戸三佐の末っ子の話から、後で余裕があれば述べようと思っていましたスペイン旅行の美術館での場面に入っていました。とはいえ、かの著名な小説に倣うならば、“脱線は日光、読書の真髄は脱線”という部分もあるでしょうから、ついでと言ってしまっては心苦しいのですが、このまま今より十年前の思い出を述べさせてください。




内村薫風 ウチムラ・クンプウ

2014年、短編「パレード」でデビュー。『MとΣ』が初めての単行本となる。2015年、『MとΣ』所収の「MとΣ」が第153回芥川龍之介賞の候補となる。



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