立ち読み:新潮 2023年11月号

第55回新潮新人賞受賞作
シャーマンと爆弾男/赤松りかこ

 娘を鏡の前に座らせて口紅の引きかたを教えるのならわかるけれど、母親、といっても当時すでに老いの気配をにじませていたそのひとは川に面した掃きだし窓の両翼を開け放ち、ぬるんだ藻のにおいが立ちのぼってくるうすずみ色の川面の夕刻の照り映えを娘の顔へ浴びさせるようにしながら慎重に紅筆を使い、植物を擦った黄色の汁をまだ幼くむくんだような上下のまぶたに塗りこめた。
 くすぐったいのと同時に、母親から抜き差しならぬものを感じもして、彼女は椅子から垂れ下げた足をぶらつかせないように固い膝の皮に爪をたてながら座り続けた。
 でんぷんを溶いたとおぼしき白い液体は、浅黒い彼女の両ほほにそれぞれおたまじゃくしのような跡をふたつずつつけた。芯のある白髪がまばらに入る母親はその出来に満足したのかしないのか、娘の肩を抱いて背後から聞き飽きた物語をする。

 そのとき部族の長の若く美しい息子が母さんを、髪に結わえた羽根の下から見つめた
 彼しかつけることを許されていない銀の輪飾りがたくさん首から下がっててまぶしかった
 母さんはもう五十歳を過ぎていたけどすぐにおまえが出来た 先端が細くなっていく小さな小屋、上も下も葦やバナナの葉でできているあかるい日が射し込む小屋でね
 赤ん坊のおまえはおおきな儀式を越えて、皆が認めた だから私ともども手招きされて立派な女たちといっしょに昼寝をゆるされた 誇らしい瞬間
 首長は帰国するわたしに言った
 あたらしい国にもこのアマゾンのような川があるだろう 一羽の水鳥にそのためのひとつの河口があるように、その子どもにもひとつの川があるだろう なつかしい声が聴こえるよう しっかりさせなさい
 おまえは選ばれたこどもだってこと、忘れないで

 そして今、母親はビニール製の長く実用的なよだれかけを施設のテーブルに広げ、それを敷き布として置かれた平皿や小鉢、カップ、そこに満ちる色とりどりの飲食物を油断なくみまもりつつ、職員が口中へねじ込んでくれる入れ歯を待っている。
 椅子三つぶんの距離をとり、アクリル板ごしにその様子を眺める彼女にふと気づいた母親が、きびきびと作業をすすめる職員になにごとかを耳うちする。
「いえ、外国のかたじゃなくて、お嬢さんですよ。だからあなたの、ええと」
「優子、ゆうこだよ」
 彼女が板の上から投げ込むように助け船をだすと、生え際のまだ若々しい職員はほっとしたように続けた。ゆ う こ さんですよ。
「なつかしい」
 くぐもった母親の声がきこえ、耳をすますと細々つむぎだすように言葉を継いでいる。
「その、灰色の、なつかしい匂い。川えびのすりもの? それから食べるよ、それ以外は厭」
「お母さん」
 呼びかけをはらいのける仕草をした老女はもうすっかり食事の匂いや色に夢中なのだった。
 食堂へしつらえられた大きな窓のむこうに、このホームの西側を流れる河が広がっている。
 河の一部は近代的な都市を模した町を造成すべく、黒い煙を吐く工事車輛の一群によって埋められ均され、夏には花火、スポーツ大会を鑑賞できる景観をももとめ低く設計された堤防の内でしんとしている。
 もともと暴れる河ではなかったが、この開発によりさらにおとなしい水となったようだ。しかしいつかはこの家畜のような水が、自来の奔流となって語り掛けてくるはずなのだ……。
 本当に?
 匙で口に運ばれる食事にこまごま注文をつけている母親を驚かせないようにそっと立ち上がると、職員へ会釈をして彼女は食堂をあとにした。
 老人ホームの表はぬるい雨を含んだ風が吹いている。足首まである黒い合羽を着込み、水鳥の足取りで歩き出す。
 彼女は彼女の根の物語の話し手である母親がそこから退場しようとしていることを感じて心細く思うと同時に、三十を半ばも過ぎて母親から与えられた使命をよりどころに生きている自分をふがいなくも思った。

 なまずかドジョウが手に入ればぶつ切りにして塩と油で煮込む。泥を吐かせはしないから、小骨のじゃりつきとともに藻と土の匂いが腹のなかに溜まっていく。あるいはアルゼンチンの赤エビ、ワカサギを腸ごと炒め、固い頭部をすりこぎで潰す。鯉が店先にあれば大豆と赤インゲン豆、八丁味噌で炊く。換気扇を回すと近所から悪臭に対する苦情がでるので台所とつづきの五畳の和室を川底の生臭さで満たしながら火にかける。
 フナが捕れたときも同じ、褐色の泥のような汁に骨が崩れきるまで根気よく煮る。ペルー産のバナナは房のまま蒸し、実を指先で団子にしながら上あごへすりつけるように食べる、これは毎日。
 ようするに川へ、それが都会の川であってもそこへ踏み入ったとき、水質調査人であるとか護岸工事設計のための測量士だとか、川の嫌いそうなニンゲンと誤解されないために、そして壊死せんばかりに弱弱しい都市の水脈へ原始の水をはるか彼方から供給していると感じられる河川の精霊たる南米の巨流へと合図するため、二十年あまりもそんな生活をしてきたのだ。

(続きは本誌でお楽しみください。)

[→]受賞者インタビュー 赤松りかこ/シャーマンを現代の東京に呼ぶ