立ち読み:新潮 2024年2月号

アイデンティティ・ポリティクスを超えて――『構造と力』文庫化を機に/浅田 彰

本を書いた時代背景

 1983年9月に勁草書房から出版された『構造と力』は、2022年の段階で59刷16万8800部に達しました。一時的なブームが収まった後も根気よく小刻みに増刷を続けてくれた出版社のおかげで、感謝しています。だから出版40周年で文庫化の提案を受けたときには躊躇したんですが、文庫はもともと古典を集成するものであり、『構造と力』が古典であるなどという愚かなことは絶対に言わないものの長い歴史を生き延びてきた本であることは確かなので、この際、応ずることにしました。
 現在の僕にとって『構造と力』を書いた40年前の浅田彰は半ば他人で、何を考えていたか記憶が定かではないし、いまそれを代弁することはできない。ただ、中途半端な本を量産することだけはしたくない、10年はもつような本だけ出せばそれでいい、と思っていたことは確かです。実を言うと、高校時代の僕は、生前刊行した著書といえば『論理哲学論考』ただ一冊で、二冊目の『哲学探究』の出版を前に死んだルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインに憧れを抱き、「私はこの本で哲学の問題を本質的な点で最終的に解決した、この本の第二の価値はそれによっていかにわずかのことしかなされなかったかを示したことだ」(大意)という『論考』の前書きは最高だと思っていました――もちろん子どもなりに自分がヴィトゲンシュタインのような天才では絶対にないという自覚はもっていたし、ヴィトゲンシュタインがやがて『論考』のパラダイムから『探究』のパラダイムへと転回する(ちなみに後に『批評空間』などを共に編集した柄谷行人もそれに触発されて転回することになる)ことも一応知ってはいましたが。思えば、その後、中途半端な本を何冊も出すことになって、高校時代の自分には嘲笑されるに違いない。それでも、『構造と力』は10年どころか40年も読み継がれたわけなので、それをもって満足すべきでしょう。
『構造と力』は83年に刊行した本ですが、最初に当時の時代背景を振り返っておきます。マルクスに漠然とした興味を持っていた僕は75年に京都大学経済学部に入学しました。68年に世界各地で起こった若者の反乱も70年代に入るとだんだん下火になり、特に日本では72年の連合赤軍によるあさま山荘事件以降、新左翼運動が袋小路に入るわけですが、京大では、「滝田修」こと竹本信弘・経済学部助手の処分問題をめぐって例外的に闘争が続いており、「人民の海に浮かぶガラパゴス」などと呼ばれていました。僕は、竹本が自衛隊朝霞駐屯地襲撃事件の共謀共同正犯として指名手配され大学に出てこられないことを理由に機械的に解雇するのは問題だと思った半面、レーニンのボルシェヴィズム(前衛党の指導する革命)に対し下からの自然発生的革命を重視したローザ・ルクセンブルクの研究者だった竹本に不用意な言動があったのも確かだろうと思いましたが、一応その闘争には付き合いました。
 一般的に言うと、レーニン-スターリンのソ連型社会主義の限界は30年代には既に明らかだったとして、60年代に流行ったマルクーゼらの疎外論的マルクス主義――産業(工業)資本主義によって疎外された自然や人間的自然(human nature:他者とのエロス的共生関係に基づく人間の本性)の回復を目指す――の限界も明らかになってきていると思ったんですね。資本主義による疎外を超えて「われわれの共生」を取り戻すはずだったのが、家庭にも社会にも帰れないところで退路を絶って背水の陣を敷き、ブルジョワ的な要素を削ぎ落として純粋な革命戦士としてのアイデンティティの形成を目指す、その結果が仲間同士の殺し合いでしかなかったというのが、連合赤軍事件の教訓でした。
 そうした主体主義とは別の視角を与えてくれたのが構造主義です。主体が思考し実践するというけれど、ゼロから完全に主体的に思考するなどということはできない。そもそも、ある程度複雑なことは言語なしには考えられない。極端に言えば、私が考える(われ思う)のではなく言語が私の中で考えるのだ、というのが構造主義の思想でした。
 丸山圭三郎が明晰に読解したソシュールの構造言語学の示す通り、「赤」という同一性をもった単語が予め存在するのではない。シニフィアン(聴覚イメージ)のレヴェルでは、赤(aka)は麻(asa)や穴(ana)ではなく坂(saka)や鷹(taka)ではないから赤なのであり、シーニュのレヴェルでは、赤は虹の他の6色とは違うから赤なのだ、ということになる。つまり、同一性(アイデンティティ)を持った単語が事後的に加算されて言語ができるのではなく、言語全体が差異の束として構成される、というわけです。そういう言語的構造をさまざまなところに発見し分析していくのが構造主義でした。そのエッセンスは同一性を差異に分解(微分)するということだったんです。
 さらに一歩進んで、フーコーやドゥルーズ、あるいはデリダといった、いわゆるポスト構造主義の思想家たちは、差異を生み出す空間的・時間的なズレのようなものを「差異化」や「差延」と呼び、構造主義を超えるダイナミックなヴィジョンを展開しようとしていました。疎外の克服を唱える主体主義が袋小路に入ったように見えたとき、こうした構造主義やポスト構造主義が新たなパースペクティヴを開いてくれたわけですね。

(続きは本誌でお楽しみください。)