立ち読み:新潮 2024年3月号

この星のソウル/黒川 創

 田川律という変わった風体のおじさんがいた。ひげ面にメガネで短髪。いつもカラフルなシャツや帽子でおしゃれしていた。いや、あまりに独特な格好で、これが、この人のおしゃれなのだ、と気づいたのは、知り合ってからずいぶん長い歳月が過ぎてからである。
 知り合ったのは、もう四〇年以上前、私がまだ郷里の京都で大学に通っていたころ、アルバイトしていた学生街の喫茶店でのことだった。フォークシンガーたちのライブも開く店だったので、すでに東京住まいの田川さんも、しばしば顔を出した。音楽雑誌にレコード評を書いたり、舞台監督をしたり、音楽関係の書籍を翻訳したりして暮らしているようだった。
 生まれは大阪だった。だから、やわらかな大阪弁、少ししわがれた声で、いつも冗談めいた軽口を言っている。エッチな話をするのも大好きなのだが、威張らず、マッチョなところがない。女の友人たちとも、同じ調子で、だはは、でへへ、と気楽そうにしゃべっている。たしか一九三五年生まれだから、いまになって思えば、私の父親くらいの世代である。だけど、そういうふうに意識したことがない。おじさんなのだが、「父親」っぽさから、ほど遠かった。むしろ、そういう父性的なものから慎重に距離を取って生きようとしていたのではないか。
 ご当人によれば、高校時代には絵に描いたような優等生だったという。父親は戦後早くに亡くなって、母親が女手だけで子ども四人を育ててくれた。姉、自分、弟が二人。そういう事情もあって、親元から通える大阪大学の国史科に入る。いざ大学生になると、勉強よりも、街でいろんな音楽に接することが楽しくなった。卒業後は、小さな音楽事務所に就職。やがて、大阪労音という大きな音楽鑑賞団体に転職。資金が豊富で、さまざまな自主公演も組める。けれど、組織が膨れるにつれ、スター中心の興行になっていく。それより、ボブ・ディランみたいな少数派の音楽への興味がつのって、やがて退職。音楽を足場に、違った生き方をしてみたいと考えた。
 田川さんは、料理も得意だった。とくにアングラ演劇の黒テントでは、料理番を担当。地方公演などにも常に同行し、出演者、スタッフたちのまかない食を受け持っていた。テント芝居だから、もっぱら野外公演である。したがって、可動式の劇場となる巨大テントの傍らで、プロパンのガスボンベにつないで火を焚き、大きな寸胴鍋で料理を作る。ごはんも、大型のガス炊飯器で炊く。スタッフや役者たちが、火を囲みに寄ってくる。田川さんは、アルマイトなどの器で、せっせと、彼らに料理をふるまった。京都の鴨川べりで黒テントが公演したときも、河原で料理を作っていた。ずいぶん歳をとるまで、歯の欠けた口もとで、えへへ、うしし、と笑いながら、そんな暮らしを続けていた。
 田川さんから、
「ぼくのじいさんは、朝鮮人で、画家やったんやて。おかあちゃんの父親が。明治時代に、朝鮮の開化派として日本に亡命してきて、書画をうてもろたりしながら潜伏生活を送っとったらしい。ほんで、大阪のお寺に隠れ住んどるうちに、そこの娘とくっついて、やがて子どもが生まれた。それが、ぼくのおかあちゃんなんやて……」
 といった話を聞かされたのは、私が京都の大学を卒業して、東京で働きはじめてまもない一九八〇年代なかば過ぎごろのことだったと思う。場所は、新宿御苑前駅近くにあった、小劇場の関係者などが多く出入りする「韃靼」という店の木造りのカウンターではなかったか。こうしてフリーランスのライター仕事を駆け出しで始めるころ、私は、田川さんから取材相手に取り持ってもらうことが多かった。
「――家族のこととか、ぼくはあんまり関心もないし、たいして知らんかった。けど、このごろ思いなおして、おかあちゃんにしつこう尋ねてみたら、そないな話やん。とくに北海道には、じいさんが描いた絵や書を持ったはる家がぽつぽつ残っとって、見せてもろたこともある。韓国の親類にあたる人らとも連絡が取れた。これからは、ひまを見つけて、そないなことも調べておきたいと思てるねん」
 なかばあっけに取られて、そういう話を聞いていた。
 だが、仕事が独り立ちするにつれ、田川さんと顔を合わせる機会も間遠になる。次に、そのことを田川さんと話題にするまで、きっと一〇年くらい、あいだが空いたのではないか。
 ――おじいさんのこと、あれから、調べは進みましたか?
 私が訊くと、
「それなりに。けど、誤算もあったわ」
 と、冴えない反応である。
「――朝鮮民族独立の闘士やったんとちゃうか、と期待したんやけど、どうも、あべこべになってきて。日清戦争のあと、ミン暗殺てあるやん? あの事件で、王妃を殺しに行く日本の軍隊やらを王宮に案内するようなことをした疑惑があるねん」
 情けなさそうな表情をつくって、田川さんは、えへへ、と笑った。
 けれども、たぶん、あれは、田川さんの行きすぎたマイナス評価だったのではないかと、いまでは思われる。
 田川さんの母方の祖父にあたるのは、黄鉄ファンチョル(一八六四~一九三〇)という人物で、現在では、かなり経歴も明らかになってきた。

(続きは本誌でお楽しみください。)