| 波 2006年6月号より |
白洲次郎『プリンシプルのない日本』 保阪正康
私が、白洲次郎という人物に関心をもったのは、吉田茂の評伝を書こうと思って資料を読み漁ってからのことである。吉田はなぜ戦後にGHQ(連合国軍総司令部)との連絡役にこの人物を用いたのだろうか、あるいは昭和二十六年九月のサンフランシスコ講和会議に随行させたのだろうかという疑問がわいてきたし、占領下にあって幾つかの官職に就いているのも吉田の力があってのことだったようだ。 とはいえそのルーツをさぐると、昭和十一年に吉田が駐英大使としてロンドンに赴任したときに、白洲はビジネスマンとして活躍していたが、その折りの再会を機に親交を深めている。もっとも白洲はすでに樺山愛輔の次女正子と結婚していて、吉田の側からみれば遠い関係ではなかったとはいえる。ふたりには毒舌、皮肉屋、しかし筋を通すという点で共通の性格があり、まもなく親友としての信頼関係をもつに至っているが、白洲には二十四歳も年上の吉田に気に入られる度胸も備わっていたのであろう。 白洲のそういう性格をよく窺うことができるのが本書である。白洲は、他人に書かれることはあっても自らは筆を起こすことが少なかった。本書は白洲自身が一九五一年から五六年ごろまでに、『文藝春秋』や『新潮』『週刊朝日』などに書いた稿を中心に編まれている。一九六九年に『諸君!』に書いた稿も二編収められているが、基本的には占領下にあっても歯に衣を着せずに本音を語っているのが特徴である。この書は執筆時から五十年近くも経て刊行されている(二○○一年五月)。 これだけの時間的な経過があるにもかかわらず、白洲のものの考え方や視点、それに歴史を透視する力にはまったく違和感がない。たとえば白洲は占領下にGHQによって与えられた民主主義を「借り物民主主義」といい、憲法についても「おくりもの憲法」と評する。一見すると、頑迷な保守主義者による占領政策批判のようにも聞こえる。しかしその論旨を正確に読みぬくと、私たちが自覚なしに、あるいは主体性なしに歴史を捉えているその姿勢を批判していることがわかる。さらにあの太平洋戦争についても、「吾々の時代にこの馬鹿な戦争をして、元も子もなくした責任をもっと痛烈に感じようではないか。(略)吾々が招いたこの失敗を、何分の一でも取返して吾々の子供、吾々の孫に引継ぐべき責任と義務を私は感じる」と自省している。 白洲は、自立せよ、あるいは自律せよ、と日本人に説いた文明史家の範疇にくみこまれるべき知識人ではないか。小林秀雄とそれこそ肝胆相照らす仲であることは、本書に収められた稿の中からも窺えるのだが、そのような知識人であると理解したときに、吉田茂がなぜ白洲を自らの手元で要職に置いたかがわかってくる。つまり吉田は白洲の中に日本人のありうべき姿を見たからではなかったか、と私には思えるのだ。 「占領ボケ」とか前述の「借り物民主主義」などは、白洲の造語と思われるのだが、白洲によると戦後日本の復興にたどたどしさや甘えがあったのは、戦前に日本人が住んでいた家は焼失して、かすかに残っているのは土台の石だけなのに、あたかも家があり、そこに住んでいるように思いこんでいる錯覚にこそ問題があると言いたいのである。こうした一見わかりにくい表現もしばしば白洲は用いるのだが、それは読者の側に考えるヒントを与えているのである。白洲の文章は怒りや苛立ち、それに感情的な表現も少なくない。その激しさにときに不快感をもつ者もあるであろう。 だが実はこうした表現と併行して、きわめて深い意味をもつ表現も用いられている。本書を読み進むうちに理解できるのだが、本質を突く言い回しが実にあっさりと用いられている。GHQの将校たちの態度は終始一貫日本や日本人を対象にしていたのではなく、「ワシントン政府及び米本国」を見つめていたのであり、「如何にすれば本国によく思われるかということに汲々としていた」と書く。もとよりこの見方ですべて割り切れるわけではないが、白洲の歴史的本質を射る表現は確かに次代の者には参考になるように思う。 白洲は青年期にロンドンに渡り、努力してケンブリッジ大学を卒業、英語を自在に操りながらイギリス社会を生きてきた。その経歴の中からユニークなナショナリストの実像が育くまれたのであろう。二十一世紀を先取りしたプラグマティストといっていいかもしれない。 (ほさか・まさやす ノンフィクション作家、評論家)
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