新潮文庫


春のオルガン
湯本香樹実

小学校を卒業した春休み、私は弟のテツと川原に放置されたバスで眠った──。大人たちのトラブル、自分もまた子供から大人に変わってゆくことへの戸惑いの中で、トモミは少しずつまだ見ぬ世界に足を踏み出してゆく。ガラクタ、野良猫たち、雷の音……ばらばらだったすべてが、いつかひとつでも欠けてはならないものになっていた。少女の揺れ動く季節を瑞々しく描いた珠玉の物語。

ISBN:978-4-10-131513-3 発売日:2008/07/01

立ち読み 書評

420円(定価) 購入

波 2008年7月号より

『夏の庭』を越えた青春小説
金原瑞人


 湯本香樹実というとまず『夏の庭』が頭に浮かぶけれど、『春のオルガン』もそれと同じくらい、いや、それ以上に評価されていい作品だと思う。
 内容的には「さわやかな青春小説」とはとてもいえそうにないのに、なぜかさわやかだ。そしてなにより、この充実した読後感。まさに、「読みごたえのある本」という言葉は、こういう小説のためにあるのだと思う。


 塀は月の光に白く浮きあがり、それがあまり明るいせいだろう。そのむこうの暗闇は、いっそう深く、息を殺して、私たちに聴き耳をたてているようだった。

 うまいなと思う。これから何かがはじまる、不穏な気配がすっと広がる。それも白と黒。
 拒絶の白、恐怖の闇、そんな色調(トーン)のなかで、ふたりの子どもは死んだ猫をさがそうとする。
 主人公のトモミは小学校を卒業したばかりだが、自分が怪物になってしまう夢におびえ、出会いがしらに胸をさわってきた男におびえている。弟のテツは図鑑や知識本が大好きな四年生。隣家のおじいさんが殺虫剤で猫を殺していると思って、いやがらせに猫の死骸を庭に放りこむ。
 ふたりを取り巻く世界には不安をそそるものがあふれている。威圧的な隣のおじいさん、ほとんど家に帰ってこなくなった父親、精神的に不安定な母親、しつこく咳をしながら廃品同然の物を執拗に修理しつづけるおじいちゃん。
 行き場のないふたりの行き場のない気持が、物語を読み進めるにつれて、ひしひしと伝わってくる。そして自分のことをいびつに感じているトモミの浮遊感、不安感もリアリティをもって迫ってくる。
 ところがトモミとテツが、猫に毎日餌をやっているおばさんに会うところから、少しずつ何かが変わっていく。
「ブリキ板や、横倒しになった冷蔵庫や、車輪のとれた自転車」などのガラクタが積み上げられた川原のゴミ捨て場、そこに捨てられたのら猫、そばに転がっているマイクロバスの残骸。そんな場所で、ささやかな冒険が幕を開ける。
 そしてそれまで、ばらばらで、ぎすぎすしていたいろんなことや、いろんな人が、ゆるやかに寄り添うようになっていく。とくにマイクロバスのなかで夜を過ごそうとしていたふたりをおじいちゃんが訪ねてくる場面は忘れられない。この部分だけで、見事な短編になっている。
「持ってるもので争うくらいなら何も持たずにいるんでかまわない」というおじいちゃんの言葉には、胸をつかれてしまった。
 やがて物語は猫の不気味な流行病を経て、みずみずしいエンディングへ。
 ふたりは恐れと不安から逃げるのではなく、それを「黒くぬれた小さなトカゲの顔」のように、自分たちのものとしてしっかり抱えて、途方に暮れつつも、手探りで一歩前に踏み出す。
『春のオルガン』という作品はなぜか日本のほかのヤングアダルト小説とは風合いがちがうような気がしてならない。比較したくなるものがないのだ。どちらかというと、海外の作品に近い存在感がある。
 たとえば、死体探しという少年たちの冒険を描いた現代版『宝島』のような『スタンド・バイ・ミー』、昆虫の死骸やクモの巣にまみれてネズミなどをあさる、翼をもつ青年を助けようとする少年少女を描いた『肩胛骨は翼のなごり』、そんな作品の横に並べたほうがしっくりする。もし英語に翻訳されたら、スティーヴン・キングもデイヴィッド・アーモンドも喜んで推薦文を書いてくれると思う。

(かねはら・みずひと 翻訳家)


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