波 2005年10月号より

『凍』刊行記念・山の現場から
ギャチュンカンからの生還

沢木耕太郎『凍』

神長幹雄


『死のクレバス』というノンフィクションがある。南米アンデスのシウラ・グランデ、六三五六メートルの未踏峰に、西壁から挑んだ二人のクライマーが、登頂後、悪天候のために遭難。逃避行の際、著者が足を骨折し、ついには墜落して宙吊りになってしまう。パートナーによってロープを切断されながらも、彼はクレバスから自力で脱出、奇跡的に生還した。生への渇望と感情の揺れをみごとに描いた生還の物語だった。最近、『運命を分けたザイル』というタイトルで映画化され、セミドキュメントとして話題にもなった。
 山野井泰史・妙子夫婦によるギャチュンカンからの生還も、その『死のクレバス』に勝るとも劣らない凄まじいものだった。ギャチュンカンは、中国・ネパール国境にそびえるヒマラヤの難峰で、八○○○メートルにわずかに足りない七九五二メートルという標高から、これまであまり注目を浴びることがなかった。二○○二年秋、その北壁に山野井と妙子は挑み、山野井が単独で登頂に成功するが、下降中、嵐につかまり、妙子とともに決死の脱出を試みる。予期せぬ高所でのビバーク、度重なる雪崩の襲来、視力の減退、食料も登攀具も底をついたなかで、彼らは六日間にわたって苦闘し、奇跡的に生還した。重度の凍傷を負い、山野井は両手指五本、右足指五本、妙子は両手指十本をすべて付け根から失うことになったが、まさに死と紙一重の生還だった。
 その生還の一部始終を、細部にわたって忠実に再現したのが本書である。
 著者の沢木氏は、いっさい「私」を出さず、山野井と妙子の代弁者になることに徹している。状況を説明し、彼らの想いを語り、そして背景を解説する。事実が凄まじいだけに、私情をはさまない淡々とした記述がかえって迫力を増す。さらに山野井と妙子以外の登場人物をできるだけ排し、彼らだけを浮きぼりにしようとする。そうすることで、余分な説明を省き、読者の関心を彼らに集中させることができるからだ。また登山の成り立ちから準備、出発、キャラバン、順応、登攀、脱出と、時系列にそって再現を試みる。読者は、彼らとともに嘆き、悲しみ、生還の喜びに安堵する。ひとつのミステリーを追うように、一気に生還のストーリーに引き込まれてしまうのだ。
 そして著者が最も気を遣ったであろうことが、クライミングや登攀の細部を、手を抜かずにていねいに描いている点である。小説でも映画でもこの部分が軽んじられてしまうと、いかにテーマやストーリーが卓越したものでも、一度に興ざめしてしまう。その点を充分に承知している著者だけに、クライミングの細部などはかなり専門的であっても、ていねいに、なおかつ初心者でもわかるように記述されている。だからストーリーに厚みが増し、山のノンフィクションとしても重厚な読みものに仕上がっている。
 しかし、そうした表現するための手法や技巧は、あくまでも手段でしかない。肝心なのは、著者が彼らの考え方や行為に共鳴して、それを本書のテーマにしている点である。
 彼らの考え方は、個性として文章のなかに随所に表われる。山野井の日常生活へのこだわりのなさと、その対極にある山へのこだわり、決して諦めない不屈の想い、持ち続ける挑戦する心。妙子の一貫してものごとに動じない性格、それでいて自然への愛着の深さと人への細やかな心遣い。そうした彼らの考え方に著者は共鳴し、その想いを素直に綴る。
 そしてギャチュンカン北壁でのクライミングと、あの窮地からの脱出という行為そのもののすごさ。著者が感情を移入するまでもなく、壮絶な体験と並はずれた事実がもつ重さがそこにはある。
 さらに今さら言うまでもないが、著者の長時間にわたったであろうインタビューと精緻な取材、全体を構成する力とそれを表現する力。
 こうした要素がうまく融合して、一級のノンフィクションとして本書を成功させている。決して声高にではないが、高度に発達した現代社会にあって、あらためて生へのひたむきさ、人間の力の大きさを教えられたような気がするのである。
 なお、山野井は今年七月、本書の十章「喪失と獲得」に描かれた中国のポタラ峰北壁の単独初登攀に成功した。またひとつ、獲得したものが増えたのである。


(かみなが・みきお 編集者〈山野井泰史『垂直の記憶』(山と渓谷社)担当〉)



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