| 波 2004年2月号より |
梨木香歩『家守綺譚』 立川談四楼
小説家志望の男・綿貫征四郎が京都の奥、滋賀県に近い一軒家に住まい始める。そこが京都と明記してあるわけではないのだが、山一つ越えたところに湖があり、その湖から引いた疏水が裏山の裾を走っているという記述から、読者は、湖は琵琶湖、住まいは山科辺りと見当をつける。 綿貫の学生時代の親友に高堂という男がいて、ボート部に所属していた高堂は、その湖で行方不明になってしまう。綿貫は町(京都市内?)に残り、英語学校の非常勤講師などしつつ物書きを目差していたが、ある日、高堂の父親から、隠居するので家の守をしてくれないかと持ちかけられる。いくばくかの謝礼も付くこの話に、綿貫は渡りに船と乗り、その暮しが始まるのだが、この小説はそんなことが分かった序の口からあやしく動き出す。すべて植物名の全二十八章から成り立つ第一章「サルスベリ」のそのサルスベリが、ある意志を持って登場するのだ。 のみならず、行方不明になったはずの高堂までがやってくる。その家の床の間に掛け軸があり、それは水辺の葦の風景で、白サギが水の中の魚にねらいを付けている図なのだが、高堂はボートを漕ぎ、掛け軸から抜け出てくるのだ。 高堂は、庭に植えてあるサルスベリの妙な気配を、綿貫にこう伝える。「サルスベリのやつが、おまえに懸想をしている」と。そして綿貫も、その言に妙に納得する。「木に惚れられたのは初めてだ」などと。 のっけから木の人格化であり、幽霊と語り合うという展開である。しかしこれぐらいのことで驚いてはならない。「ヒツジグサ(小さな睡蓮)」の章では、何と河童が出現するのだ。庭の池で見つけた得体の知れないもの、綿貫はそれを持って山寺の和尚に相談を持ちかけるが、和尚ひとつも驚かずそれは河童だと断言し、それを木綿の風呂敷に包んで犬の首にかけ、ずっと先の川へ返してこいと命ずる。ゴローという名のこの犬も自覚的な意志を持っていて、心得たとばかりにワンと吠え、山へ向かって駆け出してゆく。しかしゴローは二日経っても帰ってこない。隣の犬好きのおかみさんが心配するので、わけを話すと、おかみさんはまじめな顔で「よくあることです」と頷く……。 一事が万事この調子である。和尚だと思い喋っていたらそれが実は狸であったり、狐がもう少し手の込んだことをしたり、果ては可愛いとさえ言える小鬼まで出てくる。 隣のおかみさん、山寺の和尚、縁あって住みついたゴロー、時どき訪れる編集者、そして掛け軸から抜け出てくる高堂など、彼らとの交わりの中で主人公綿貫は奇妙な経験を重ねるわけだが、読者がそれに恐怖を覚えるかというとそうでもない。ただ深夜に読んでいて、ふと辺りを見回すということはある。しかしそれは狐狸妖怪、あるいは幽霊を発見するためではなく、そう、「気」を感じたくてそうするのだ。 明治三十年代の後半、つまり百年ぐらい前の話だと見当をつけて読んだ。綿貫の住む家に電気はきているがそれは停電勝ちで、通常は洋燈(ランプ)で暮らしている。そして綿貫は作品を仕上げると町に出かけてゆき、原稿を郵便局から送っている。そんな記述からの推測だが、その時代のあの辺りには「気」が横溢してたはずなのだ。 しかるに著者は「気」に触れない。あえて筆を抑えているかのように。それはつまり、読者自身に、あの時代のあの辺りの「気」を感じて欲しいということなのではないだろうか。そして著者はこれも声高には言わない。親友を亡くしてもケロッとしていて、なおかつその実家にちゃっかり住んでいる綿貫が、実はその死を人一倍悲しみ、哀悼の意味すら込めてその家に住んでいることを。それが読後にジンワリ届いたということは、著者の「気」が読者(私)に伝わったということであろう。 四季が見事に描かれている。圧倒的な自然は怖いものだが、そしてそこでの暮しは不便なものだろうが、一年という限定でなら住んでみたいと思った。失ったものがそこにあると言うと月並であるが、作品世界に根源的な懐かしさを覚えたのだ。 小説家を志す綿貫征四郎は、作家として大成したのであろうか。いわゆる大家にはならずとも、いい短編を三つ四つ残す渋い作家には成り得ただろうとは容易に想像がつくのだが。 (たてかわ・だんしろう 落語家・作家)
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