| 波 2003年7月号より |
石田衣良『4TEEN』 森 絵都
ともに十代を過ごした旧友と集まり、ああでもないこうでもないと言い合いながら痛飲するのは、私にとって定期的に必要な楽しみの一つだ。二十年近く友達をしていれば、良くも悪くもすっかり気心が知れているし、二十年分のネタがあるからまず間違いなく盛りあがる。皆が皆の過去を知り、恋愛を知り、傷を知り、下手をするとセックスの嗜好まで知っている。 が、それでいて私たちはもはや十代の頃のようには結びついていない。あの頃のように瞳に映るすべてを共有し、わかちあい、重なりあうことを求めてもいない。 単純な話、すべてをわかちあうには、私たちは個々の経験を積みすぎてしまった。恋。挫折。反発。和解。絶望。別離。誰もが味わうそれらを一通り経験し、すでに私たちは二巡目や三巡目に入っている。何もかもが新鮮だった一巡目の驚きや興奮、しびれるような感触。誰かに伝えたくて、わかってほしくて、わかりあいたくてしょうがなかったあの狂おしい衝動も、すべてを笑い話にする術に長けた今の私はいつしか忘れていた。 石田衣良氏の『4TEEN』を読んで、久々に思い起こした。一巡目の世界の初々しさと、生々しさと、痛々しさを。 『4TEEN』は、十四歳の少年四人が主人公の連作集だ。舞台は月島。新しいものと古いものと、豊かさと貧しさとが複雑に入り組みあう、もんじゃのように混沌とした町で彼らは日々暮らしている。 テツロー。ナオト。ジュン。ダイ。当然ながら彼らは女の子の好みも小遣いの額もファッションセンスもまちまちで、性格からしてまるで違うし、合わせようともしていない。同じ学校に通う十四歳。それだけで共通項は充分に事足りているのだ。 しかし、中には同じ十四歳でありながら、早老病とも言われるウェルナー症候群に冒された仲間もいる。ナオトだ。すでに髪の半分が白く、もしかしたら人生の二巡目や三巡目はかなわないかもしれないナオトの側にいる三人は、だから「早く大人になりたい」なんて決して口にはしない。否が応でも今の自分を、その時々の自分たちを満喫して生きることを迫られる。そしてそれを実際、なんとも軽やかにやってのけてくれる。 とはいえ、一見脳天気に映る彼らもまた、それぞれ内側には重たいものを抱えている。いつも何かを頬張っている大食漢のダイは、じつは家庭内暴力の犠牲者。ほかにもこの一冊には拒食症、飛びおり事件、老人の孤独死、同性愛などの問題が次々に登場するけれど、それらは新聞やテレビで見る「社会問題」とはまったく印象を異にする。一巡目の世界に生きる彼らにとって、それらは遠い地平で起こった他人の不幸ではなく、日々新たに発見する初々しいもの、生々しいもの、痛々しいものの一つなのだ。傷つくのを承知で手を伸ばし、自らの肌で確認せずにはいられないもの。ましてそれが仲間内で起こった事件ならば、じっとはしていられない。 ひときわ胸を打たれる一作「空色の自転車」で、ダイが自分の父親を殺めてしまったときも、他の三人はそれを社会問題として括ったりはせず、自分たちの問題と考えて身を乗り出した。仲間が困っているから力を合わせて助ける。彼らにしてみればごく当たり前のことを、人は何巡目あたりから当たり前にできなくなってしまうのだろう。忙しいから? 背負うものが多いから? 体のあちこちにガタが来ているから? もしもあの頃の自分と、一巡目の瞳に映った風景ともう一度めぐりあいたい方は、どうか最終話の「十五歳への旅」を読んでいただきたい。四人で新宿まで自転車を走らせ、高層ホテルのラウンジから地上を見下ろし、初めてのアダルトショップにどぎまぎし、クラブで出会った女の子たちと心を通わせ、夕暮れの晴海ふ頭で自分たちの秘密を告白しあう彼らの声に耳を傾けてほしい。 「みんなにはあの音がきこえないのかなあ。地球が猛烈な勢いで自転して、一日を刻むごーごーという音。ぼくが一番怖いのはあの音だな。だってみんなの三倍の速さで、ぼくの地球はまわってるから」 そんなナオトの告白――壮絶な「生」の意識に触れたなら、きっと頑固に立ち塞がっている過去のむこうから、生まれたてのようにぴかぴかした一巡目が透けて見えるだろう。 (もり・えと 作家)
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