波 2007年12月号より

走り続けたいい子は天国に行ける

伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』

杉江松恋


 そっか、伊坂幸太郎はビッグ・ブラザーを書けるんだな。
 この場合の「書けるんだな」は書くことができる、じゃなくて、書いてもいい、の意味でとってもらいたいのである。今さら説明するのは気恥ずかしいがビッグ・ブラザーとはジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984年』(ハヤカワ文庫NV)でオセアニア国を統治しているとされる独裁者だ。この国ではテレスクリーンという端末が市民の家庭内にも置かれ、誰もが相互に監視しあう統制システムが出来上がっている。
『ゴールデンスランバー』の舞台は、オセアニア国とよく似たシステムのある日本という設定になっている。テレスクリーンによく似た監視装置は、名前をセキュリティポッドという。さすがに個人の住宅内には置かれていないが、街角に配置された機器はカメラ撮影と携帯電話の傍受によって市民を監視しているのである。ザッツ警察国家! キルオと呼ばれる連続刺殺犯が出現したため、仙台市にこのシステムが試験的に導入された。その仙台の街である日、大事件が起きるのだ。パレード中の首相が、ラジコン飛行機に仕掛けられた爆弾によって暗殺されてしまうのである。即座に大規模捜査を行った警察は、青柳雅春という青年を犯人と断定した。各テレビ局は、彼がいかに危険な人物かを伝える番組を一斉に報道し始める。青柳雅春の名は、今や〈好ましからざる人物(ペルソナ・ノン・グラータ)〉として人々の胸に刻まれつつあった。
 これまで、伊坂幸太郎は心を枉げない個の小説を書いてきた。ひとの存在はあまりに小さく、頑張ってもどうにもならないことが多すぎる。それでも希望を捨てずに生きるやり方があると、伊坂作品は読者に語ってきたのだ。それが、ビッグ・ブラザーに統治される相互監視社会を伊坂が書ける、と私が思う理由である。個の尊厳をぎりぎりまで狭めようとする暗黒社会なんて、誰にでも書けるもののはずがない。個の闘いについて真摯に検討し、考える書き手の作品でなければ、わざわざ読む価値などないのである。
 どうでしょう、伊坂幸太郎は。私が好きなのは妻を殺された男性が殺し屋組織に立ち向かう『グラスホッパー』(角川文庫)なのだけど、それ以外でも人間の良心についての「賭け」が行われた『ラッシュライフ』(新潮文庫)だって、人類が終末の時に直面する『終末のフール』(集英社)だって、じゅうぶん信頼に値する作品だったと思うのだ。ある作品の登場人物の台詞を借りて書くけど、伊坂幸太郎は君のために結構頑張ってるんじゃないかな。
 冒頭の暗殺事件は、あえて一九六三年のジョン・F・ケネディ暗殺のディテールを借りて描かれている。あの事件に、陰謀論者の妄想を刺激してやまない麻薬のような魅力があるからだろう。ケネディ暗殺は巨大な謀略の一部であると主張する人々は、その行為を楽しんでいる。消費される対象として、死の事実を見なしているのである。青柳雅春という男が首相を暗殺したという大事件さえ、テレビを観る人には娯楽イベントとして消費されてしまうのだ(この小説におけるビッグ・ブラザーとはテレビそのものだろう)。青柳雅春にとっては最悪の事態である。誰もが彼を人間として見てくれない。首相を暗殺した凶悪な犯罪者というレッテルが貼られた瞬間、青柳雅春は警察によって狩られる獲物に成り下がったのである。ページ数の大半を占める「事件」の章は、青柳雅春の孤独な逃亡と闘いを描くものだ。
 一人であることに絶望している人に読んでもらいたい小説だと思う。逃げ回る青柳雅春の動きに沿って、伊坂は物語の各所に種を蒔いていく(何気ないエピソードを伏線として利用する技術が冴えわたっている)。それらが一斉に芽吹き、大輪の花をつけるクライマックスは、過去の伊坂作品と比べても最上のものだ。安っぽい慰めの言葉ではなく、孤独に走り続けた人物がゴールテープを切る瞬間の表情ですべてが語り尽くされている。


(すぎえ・まつこい 書評家)