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さよなら渓谷
吉田修一

きっかけは隣家で起こった幼児殺人事件だった。その偶然が、どこにでもいそうな若夫婦が抱えるとてつもない秘密を暴き出す。取材に訪れた記者が探り当てた、15年前の“ある事件”。長い歳月を経て、“被害者”と“加害者”を結びつけた残酷すぎる真実とは――。『悪人』を超える純度で、人の心に潜む「業」に迫った長編小説。

ISBN:978-4-10-462804-9 発売日:2008/06/20

立ち読み 書評 雑誌から生まれた本

1,470円(定価) 購入

波 2008年7月号より

[吉田修一『さよなら渓谷』刊行記念インタビュー]
吉田修一


ありえない愛だからこそ、美しい

1997年に「最後の息子」で文學界新人賞を受賞して以来、精力的に作品を発表してきた吉田修一さん。2002年には『パレード』で山本周五郎賞、『パーク・ライフ』で芥川賞を立て続けに受賞し、エンターテイメントと純文学を自在に行き来する作家として注目を浴び続けてきました。昨年出版された『悪人』で大佛次郎賞と毎日出版文化賞をダブル受賞し、いま最も次作が待たれる作家である吉田さんに『さよなら渓谷』について伺います。


 この『さよなら渓谷』は、「どんなお話なのか説明してください」と言われても、非常に説明しにくい小説です。著者の自分でさえ、口ごもってしまう。ものすごく乱暴に言ってしまえば、「レイプ事件の加害者と被害者が、十五年の歳月を経て、夫婦のように一緒に暮らしている日常を描いた小説」ということになります。絶対にあり得ないと思える状況ですが、自分としては究極の恋愛を書いたつもりです。
『さよなら渓谷』は僕にとって初めての週刊誌連載でした。文芸誌とは読者層も違うでしょうし、どんな作品を書こうか思案していた時に、ぼんやりテレビを眺めていたら、畠山鈴香が大勢のレポーターやカメラマンに囲まれている映像が映ったんです。もう彩香ちゃんを殺した疑いをもたれていた頃でしたが、びっくりするほどたくさんの人たちが子供を亡くした一人の女性を取り囲んで詰問するその光景は、非常に奇異でした。もし何の咎もない人があの中心におかれたとしたらどんなにか恐ろしいだろう、と思ったことから、集団に取り囲まれ真ん中で怯える女と、女を取り囲む側でありながら、その女にのめり込んでいく男のイメージを膨らませていきました。
 そのイメージから、前から書きたかった運動部の学生によるレイプ事件を主人公となる男女の出会いのきっかけにしようと決めました。リスキーな題材であることも分かっていましたが、秘密を抱えながら緑豊かな渓谷のそばにある小さな町にひっそりと住む二人のことはなんとなく書けそうだ、という手応えがあったんです。
 作品を書くときに一番最初に決めるのは、「その物語が始まる場所はどこなのか」ということです。『東京湾景』なら、品川埠頭とお台場、『7月24日通り』ならリスボンに似た地方の小さな港町というように、場所を特定すると急に作品の輪郭もはっきりしてきます。
 主人公の俊介とかなこが住むのは畠山鈴香が住んでいたような団地の隣家で、ぶらぶら歩いていくと渓谷に出るような場所にしたいと考え、秋川渓谷をモデルにすることにしました。もう何年も前に初めて行ってから、何度か訪れていて、いつか小説の舞台に使いたいと思っていたんです。温泉もあってぶらっと出かけるには格好の場所ですが、秘密を抱えた男女が住むのにちょうどいい、どこへも行けない閉塞感があるような気がしました。
 レイプ事件の加害者を主人公にして果たして読者が共感してくれるだろうかという心配もありましたが、『悪人』の主人公で殺人犯の祐一のことも書けたんだから大丈夫だろう、と。僕は加害者を書くのは結構得意なんです(笑)。集団になったときにだけ醸し出される不思議な解放感は、自分一人の時なら絶対にしないような行為に自らを走らせたりすることもあります。素の部分では全然悪人ではないのに、仲間に臆病なところを見せたくなかったり、その場の不穏な雰囲気を早く終わらせたいと思うがあまりに率先して大胆な行為に手を染めてしまうこともある。そういった体育会的なノリから主人公の俊介は事件の加害者になります。しかし、学生時代の犯罪だったこともあり、社会的にはそんなに大きな傷を負わずに済んでしまう。では、被害者の女性のその後の人生はどうだったのか――。
 進むことも戻ることも出来ないけれど、自分のすべてをさらけ出すことが出来る。誰といるよりも安心できる相手なのに、一緒にいても絶対に幸福にはなれない――出会い方のボタンを掛け違ったまま負の部分で繋がらざるを得なかった男女の感情の揺らぎを感じてもらえれば、と思います。
「運命の相手」とこれ以上ない不幸な出会い方をしてしまった男と女。言い換えれば、不幸な出会い方をしたからこそ、互いの「運命の相手」になりえた男女を描いたと言えるかもしれません。

(よしだ・しゅういち 作家)

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