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カントの人間学
ミシェル・フーコー、王寺賢太/訳

人間とは何か? それは神と宇宙を媒介する第三の形象なのか? 日常的な「世界=世間」のなかで主体はなぜ逸脱し、失調するのか? 十八世紀末にカントが発した問いを、若きフーコーが、ハイデガーに抗して解き明かす。散逸を肯定せよ! フーコー哲学の原点ともいうべき書物が、半世紀の時をへて、ここにヴェールを脱ぐ。

ISBN:978-4-10-506707-6 発売日:2010/03/25

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波 2010年4月号より

理性の限界を「散逸」させよ

市田良彦


 一九八四年、ほとんど死の床で行われたインタビューのなかでフーコーは語っている。「私の哲学的生成のいっさいはハイデガーを読んだことに決定づけられた。」そのことの意味をなにより教えてくれるのが、博士論文『狂気の歴史』の副論文として六一年に提出されたこの『カントの人間学』であるはずであり、そのことの意味は、晩年にフーコーの頭を占めていた「主体」問題を、彼の生涯を貫く仕事のなかでどう位置づければよいかを左右することがらのはずである。
 生前最後の二年間の講義は「自己と他者の統治」と題され、具体的には「パレーシア」(=ほんとうのことを言う)というギリシャ的観念が西洋史のなかでたどる変容を追跡することに費やされている。権力や知(真理)といった周知の主題と、八〇年代になって前面に躍り出た「自己」ないし主体といったテーマを、彼はそこでいわば綜合しようと試みているのである。まるで生涯の終わりを見据えるかのように。そして講義録の読者は気づかずにはいられない。このフーコーのなんとハイデガー的であることか。存在論という術語の使用が解禁され、主題全体が「真理言説の存在論」と言い換えられる。もちろん、ハイデガー存在論との差異についても触れられてはいるものの、統治とパレーシアをめぐる論究が主体の自己触発的な「在る」に照準を合わせていることは見間違えようもない。そこでの主体はもはや権力と知の謀議により「構成される」だけのものではないのだ。なにより、「自己と他者の統治」講義は「〈我々の現在性〉の存在論」としてカントの『啓蒙とはなにか』を読むことからはじまっている。これはフーコーに構造主義の後を認めてきた読者にとって、かなり困った事態ではないのか。構造主義はサルトルの後であって、少なくともフランスではサルトルがハイデガーの後だったからである。生涯の終わりにハイデガーに戻っては、さらにはハイデガーに自らの哲学的生成を「決定づけ」させては、構成的な「人間主義」を突破しようとしてきた六〇~七〇年代の努力が水泡に帰さないか。つまりハイデガーは、死の床のフーコーが私たちに遺した難問をなしている。
『カントの人間学』にあっても、ハイデガーは一種の難問である。著者がハイデガーの『カントと形而上学の問題』と格闘する様子を見せてくれるからではない。反対に、このドイツ人哲学者の名前がまったく登場しないからである。多少とも二〇世紀の哲学史に通じた者には、問題構成と言葉使いにハイデガーの深い影響が明白な章においてさえだ。その第六章「鏡のなかの反復」においてフーコーは大まかに言って、ハイデガーが感性と悟性の二重体たる想像力の「図式」から自身の「基礎存在」(存在と無からなる別の二重体)論を“導出”したのに対し、『純粋理性批判』と『人間学』の二重体そのものに「超越論哲学」を封じ込めてみせる。続く第七~八章において展開されるその効果、実質的な意味は驚くべきものだ。ハイデガーにあって、個的状況に縛られた二重体から一つの人間的で普遍的な二重体への移動であった「超越」が、フーコーにあっては「世界としての世間」のなかでの「散逸」へと意味を変えられてしまう。『人間学』の正式名称は『実用的見地における人間学』である。フーコーにとって「実用的見地」からする「超越」とは、たとえば人間の寿命を延ばそうとする努力であり、あるいは婚姻生活のなかでたえず浮気すれすれの状態にいる技法であり、自然や規範をすべからくカッコに入れるべしとの命法と見分けがつかない。いたるところで限界を越えようとすべし、無数の「実用的」破れ目に向かって理性の限界を「散逸」させよ、これが人間学という鏡のなかで反復される理性批判の姿である。
 晩年のフーコーが論究の俎上に上せた〈自己への関係における真理〉とは、ストア派に典型を見出せるような、主体の在り方に変化をもたらす実用的な真理である。まさに『人間学』における「理性」のように。そして最晩年講義における犬儒派はプラトニズムの「割れた鏡」なのであった。しかし「超越」を封じ込めた「鏡」は、とめどない拡張性の反復によって『カントの人間学』においてすでに割れていないか?


(いちだ・よしひこ 神戸大学大学院教授)

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