| 波 2000年8月号より |
バルガス=リョサ『若い小説家に宛てた手紙』 工藤庸子
昔の貴婦人で、空気の精のようなほっそりした体型をとりもどすために、サナダムシを丸飲みにしたひとがいたそうです。「文学」とは言ってみれば、その寄生虫みたいなもの、という寓話から著者は語り始めます。それというのも、これは身体に棲みついたが最後、宿主の養分を吸いとり、どこにでも一緒についてゆく。作家たるもの、寝食から娯楽の時間まで、人生のすべてを体内の「彼女」に捧げてしまったような具合だというのです。つぎに登場するのは「カトブレパス」。水牛と豚を合わせたような怪物で、首はくにゃくにゃ、でっぷり肥えて、陰鬱に泥のなかにうずくまり、そうとは気づかず自分の脚を食べてしまいます。フローベールの『聖アントワーヌの誘惑』に描かれた、知るひとぞ知る恐るべき動物なのですが、豪放な大作家ラブレーの作品や、文学の極北と形容したいボルヘスの短編にも、ちらりと姿をあらわします。なるほどその姿は、自分の人生に鼻をつっこみ、自分の身体を咀嚼して「作品」をつくる作家のそれに、どこか似ているのかもしれません。 著者マリオ・バルガス=リョサは、アルゼンチン出身のボルヘスに一世代おくれてラテンアメリカ文学の黄金時代に参画したペルーの現代作家です。『都会と犬ども』『緑の家』『世界終末戦争』などの小説は、つぎつぎと新鮮な驚きをもたらしたものですが、近著『若い小説家に宛てた手紙』は、趣向を変えて、作家志望の若者に小説家になるための手ほどきをするという体裁の本になっています。 話題は少しそれますが、大学で「文学」を語るという考えてみれば奇妙な職業をやっている者として、昨今の印象を語れば、小説を読もうという若者は激減しているにもかかわらず、小説を書きたいという若者は、相当数いるようです。文学賞への応募者数で推し量るかぎり「文学」は安泰という話も聞きます。でも、小説を書くためには、古今東西の小説を――それこそ自分がサナダムシになったみたいに――むさぼり読むことから始めなければダメなのです。すくなくとも、リョサの話術に惹かれて、この『手紙』を読みおえた賢明な読者はそう思われるにちがいない。つまりこれは『若い読書家に宛てた手紙』でもあるわけで、訳者が「解説」で指摘しておられるように、イタロ・カルヴィーノ、ウンベルト・エーコ、デイヴィッド・ロッジなどの読書論にならぶ、このうえなく贅沢な、読み方の指南書といえます。 ところで、バルガス=リョサがペルーの大統領選でフジモリと闘って敗れたのは、十年もまえのことですから、ご記憶の方は少ないかもしれないけれど、あのとき大衆のまえに姿をあらわしたリョサは颯爽とした美丈夫でした。彼の本の書き方も、行動的で、颯爽として、美しい。小説の「説得力」はどこから生じるのか、「語り手」の機能とは何か、フィクションの「時間」はどのような仕掛けで成り立つか、等々。テーマごとに、『ボヴァリー夫人』『ドン・キホーテ』からアンブローズ・ビアスの短編までを巧みに紹介し、具体例を縦横に引きながら、まさに「説得力」あふれる議論を展開してゆきます。文学を語るのに、大学教師の難解な専門用語や手の込んだ批評装置は無用という彼の持論に、思わず納得させられてしまいます。 ユーモラスだけれど凄みのある比喩をとおして、「文学」をやるのはカニバリズムのように恐ろしいことだと言われ、小説の技法については、先輩たちの神業のような芸を矢継ぎ早に見せられたとき、肝心の「若い小説家」たちは、どう反応するのでしょうか。勇気百倍、パソコンにむかうのか、早々と「読書家」に徹する決意をしてしまうのか。なにしろリョサは、出来上がった作品の文体を「模倣」することを、きつく戒めているのですから、ハウツー物のように「助言」を役立てようなどという邪心は捨てなければなりません。 若い作家が先達に学ぶべきものは、なによりも「文学への献身」である――愚直なまでに文学を愛したリョサが、次世代に手渡したいと願う「教訓」は、この一言につきるような気がします。これを、感動的なメッセージとうけとめるひとだけが、たぶん「作家志望」の名乗りをあげる資格をもつのでしょう。 (くどう・ようこ フランス文学) ▼バルガス=リョサ著/木村榮一訳『若い小説家に宛てた手紙』は、七月三十一日発売 |