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しみじみとジャズを聴きたくなる本

村上春樹

 僕がこの『さよならバードランド(From Birdland to Broadway)』という本をたまたま見つけたのはニュージャージー州プリンストンの書店で、これを手に取ってページをぱらぱらとめくったときから「うん、この本は何があろうと僕が自分で訳すしかないよな」という固い決意を持った。1992年の初春のことである。でも当時ちょうど僕は長い小説の執筆にとりかかっていたし、ほかに翻訳にかかっていたものもあったので、それらの合間を見つけては「個人的楽しみ」としてぼちぼちと訳して、翻訳完成までに結局三年くらいかかってしまった。
 もっともそのおかげで、翻訳のための資料を集める時間だけはたっぷりととれた。資料というのはジャズ関係の書籍とかレコードのことだが、とくにレコードについては、とにかくクロウさんの加わったレコードは片端から集めてやろうと決心した。僕はスタン・ゲッツとジェリー・マリガンの熱烈なファンだから、クロウさんの入っているレコードはもともとけっこう所持していたのだが、身を入れてあちこち調べてみるとあるわあるわ、次から次へと「クロウ入りレコード」が出てきた。結局アメリカ各地の中古レコード屋に入り浸りになり、苦労に苦労を重ねた末に(というのはもちろんつまらない冗談だけど)、主要な作品はほとんどオリジナル・アナログ盤で手に入れてしまった。中には相当ヘンなもの、珍しいものもあります。その成果は巻末に付録としてつけた詳細な「私的レコード・ガイド」をごらんいただければと思う。僕はニュージャージー州ニューシティーにあるクロウさんのお宅にも一度お邪魔して、コレクションをざっと見せていただいたけれど、僕の方がずっとたくさん彼のレコードを持っていた。ビル・クロウというベーシストはもともとが「知る人ぞ知る」という渋いプレイヤーで、かなりジャズを聞き込んでいる人しか名前を知らないだろう。でも知っている人なら「おお、あのビル・クロウか」と思わず相好を崩してしまうことになる。要するにそういう人なのだ。まずやっている音楽の趣味がなにしろいい。スタン・ゲッツ、ジェリー・マリガン、ボブ・ブルックマイヤー、アル&ズート、クラーク・テリー……といった東海岸の知的なジャズのプレイヤーたち(その多くは白人)のレギュラー・バンドのベーシストとして、ずっと第一線で演奏し続けてきた。しかし本人は決して派手な存在ではなくて、ソロもあまりとらないし、リーダー・アルバムもない──もっとも96年にはこの本と同じタイトルの「From Birdland to Broadway」というリーダーCDを日本のレコード会社から出すことになったらしいが。本人に会ったときに、「ソロをあまりとらないのは、性格的に派手なことが嫌いなせいなんですか?」と質問してみると、「いいや、そんなことはないよ。僕だって本当は長いソロをとりたかったんだけどね、ホーン奏者たちは自分たちがソロをとるのに忙しくて、僕のためにソロの時間をほとんど残してはくれなかったのさ」と笑いながら答えていた。でももちろんそれだけではないと思う。彼は自分が前に前にしゃしゃり出るよりは、ホーン奏者たちに熱く気持ちよくソロをとってもらえるようなベースラインをきっちりと刻むことを、自分の仕事の項目の第一に置いていたのだと思う。それはおそらく彼のレコードを聴いていただければわかると思う。チャーリー・ミンガスとかオスカー・ペティフォードみたいな「これは凄い」と人をうならせるベースラインではないけれど、でも虚飾のない、独特の気骨に溢れる玄人好みの音がしている。文体でいうと藤沢周平みたいな、魚でいえばアジの干物みたいな感じの演奏だ。おそらくそういう彼の「味のある偏屈さ」みたいなものが、長い歳月にわたって多くのミュージシャンに愛されたのだろうと思う。
 ビル・クロウはまたとても文章の巧い人で、これまでにも何冊かのジャズについての本を書いている。彼の文章を読んでいると、1950年代にニューヨークでジャズ・ミュージシャンであることは本当に特別なことだったんだなあと、これもアジの干物的にしみじみ思う。ジャズの好きな方、これからジャズを聴いてみたいと思っていらっしゃる方は、何はともあれ是非この本を読んでみてください。きっとジャズがしみじみと聴きたくなります。





発売:2005/07/01