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寄る辺なくはない私たちの日常にアイドルがあるということ

 三年目っていうのは転職したくなる時期なんだよって先輩は言う。そんな誰にでも来る思春期みたいに言わないでほしい。あんたがどうだったか知らないけど私のつらさを一般化しないでくれよ頼むから。
 仕事に慣れてきて中だるみする時期と言われている入社三年前後の社員を対象に、モチベーションの向上を主目的とした一週間の宿泊研修が用意されていた。六日目の夜、研修プログラムをすべて終え、あとは懇親会と翌日の移動を残すのみとなり、私はただ疲弊していた。研修でモチベーション上がるやつって存在すんのかな? 一刻も早く逃げ出したい思いを強めるイベントに過ぎないんだけど。この研修にかかる費用の分だけ給料に上乗せしてくれた方がよっぽどモチベーションは上がる。人事課の連中もわかってるけど慣習だからっていう惰性でやってんだろどうせ。
 職場に強い不満はないけど強いやりがいもない。こうはなるまいって思う人はいてもこうなりたいって思う先輩はいない。あらゆることが、ほんのちょっとずつ自分にハマっていないけど、そのどれもが致命的ではなく、要領が悪くないせいで何となくやりすごせてしまう。定年まであと三十五年。永遠か? 永遠にこのままやり過ごし続けるのか? ここではないどこかへ行けば何かが好転する気がするっていうのはやっぱり甘いのだろうか。
 入社当初は二十数人いた同期も十人ちょっとに減っていた。スマートフォンが当たり前に普及した今、昔のように足を棒にしなくても、意志と指先を動かせば少ない労力で転職を成功させることができる。執着するような待遇じゃないことはわかっている。その実、ひどい職場じゃないってこともわかっている。気分転換だ! っつって、ポリシーなく転職しちゃいたいけどその勇気も自信も今のところ、ない。
 半ばノルマみたいになってる上役へのお酌もひと段落し、同期の女たちで寄り集まって卓を囲んだものの、研修会場の宴会場ともなれば目の届くところに人事課の社員がいるわけで、おおっぴらに仕事の愚痴や横行している社内不倫についての話題を出すわけにもいかず、いまひとつ盛り上がりに欠けるままちびちびと酒を飲んでいた。そんな中、一人が「そういえば、私のが最近逮捕されたんだけど……」と切り出したのでみんな思わずヒッと息を飲み、「何で何で何で何で!?」とにわかに場が沸いた。
いんこう……」
 ああ……とその場の女たちの口からため息ともつかないうめきが漏れる。
 推しとは、もともとアイドルファン用語で、自分の応援しているメンバーのことを「推しメン」と表現したのがおそらく始まりだが、今となっては意味が広がり、アイドルだけでなく俳優や漫画のキャラクターなど、ご執心の存在なら何でも「推し」と呼ぶのが一般的になっている。確かこの子の推しは若手声優だったはずだ。
「推しが逮捕されるってどんな気持ち? ねえどんな気持ち?」
「いや、うーん、何ていうか……率直に言うと、私の力不足だったかなって」
「意味わかんない。あんた関係ないよ」
「関係ないとか言わないでよ! そんなの私が一番わかってるよ!」
「淫行かー。それはきっついね。せめて飲酒運転とかなら……」
「いや飲酒運転の方がダメでしょ! 人が死ぬかもしれないじゃん!」
「でも淫行よりは飲酒運転の方が犯しちゃった気持ちに寄り添えるよ!」
「だから寄り添う必要ないんだって」
 その点推しが二次元の私に死角はない、と十年くらいずっと同じ漫画の同じカップリングで二次創作を続けている女がドヤ顔で言い張り、うーん全っ然うらやましくない! と口々に言い合う中、きょとんとした顔でしばらく口を閉ざしていた森田あいが、細い首を不思議そうにかしげて「みんな、推しとかいるもんなんだ? 推しっていう概念がそもそも私にはよくわかんないんだけど」と言い放った。
 女たちに「はあ? あんた何のために働いてんの?」と問いただされた愛梨は、「いや、自分のためだよ! それ以外にあんの?」と何をわかりきったことを、という表情で答えた。
「推しを推すためでしょうよ」
「推しを推すっていうのは推しのためでもあるけど間接的に自分のためでもあるから……」
 愛梨は「ちょっ、ごめん、何言ってんのかわかんない。大体さー、私、付き合えるわけでもない人間に一切興味ないんだよねー」と笑った。
「お前っ、すげーな」
「強い。あんたは強いよ。まぶしいよ」
「えっ、だってアイドル推してて付き合えんの? アニメのキャラ推してて結婚できんの? 無理でしょ?」
「いや、私は推しと付き合いたいかと言われるとまた違うんだよなー」
「ウッソー、じゃあ推しに付き合ってくださいって言われたら振るの?」
「絶対振らないよ?」
「セックスしよって言われたら断るの?」
「絶対断らないよ?」
「ほらみろー!」
「ジャニーズ、ハロプロ、はんりゅう、宝塚、若手俳優、プロレス、芸人、バンド、声優、二次元、フィギュアスケート、これらのわなが各所に張り巡らされてる現代社会に生きてて、マジでどの神も信じてないの? 無宗教なの?」
「うん! 強いて言うなら自分教。だって誰ともセックスできないじゃん! あっ芸人くらいだったらいけんのかな?」
「あんただったらマジでいけそうで怖い」
「よっ、さすが人間マッチングアプリ!」
「昔ちょっとアイドル好きだったことあるけどー、コンサート会場とか行くと冷めちゃうんだよねー。自分以外にもその人のことを好きな女とかがいっぱいいんの、何かキモくない?」
「うわー同担拒否だ。女子高生かよ。引っ込めー」
 ドータンキョヒってなにー? 童貞短小拒否の略? と真剣な顔でしょうもない下ネタをぶちこんできた愛梨はもう適当にいなされ、最近までフィギュアスケーターを推していた女の「ところで私、プロ棋士にハマりそうなんだよね」という急な推し変告白に関心がうつった。棋士ってジャンルは未知数でどのくらい時間と金を持ってかれるもんなのか全くわかんないけど、何かヤバそう。

 愛梨のように強くない私の世界には推しが存在している。愛好ジャンルはアイドル、もっと細かく言うならば「大手アイドル事務所の研修生」だ。DD(誰でも大好き)オタというほどではないにせよ常に推しは複数いて、今の本命はゆんちという愛称で親しまれている十八歳の男の子だ。
 以前は母の影響で某国民的男性アイドルグループを箱推ししていたが、デビューしてから二十年以上つ彼らは、良くも悪くも大団円感が強くて、漫画で言ったら第五部くらいまで完結してるだろっていう落ち着きっぷりに飽きてしまった。幼い頃から応援していたので、一緒に人生を歩んできたという感慨はある。私が小学生の頃から、別ジャンルにハマっていてえんだった時期も、大学を出て社会人となった今も、彼らは変わらずアイドルなのだった。長いこと見ていると、ああ、この人は色んなことに折り合いがついたんだなっていう瞬間がわかったような気になる。アイドルっていう職業への覚悟とか、満足感とか、慣れとか、ていねんとかがぜになったかんろくをいつしか彼らは持ち合わせていたのだった。私は自分がつくりあげた彼らの物語に勝手に切なくなってしまう。
 そういう感傷を与え続けてくれる彼らのことを、多分これからもずっと変わらず好きだけど、目が離せない時代はとうにすぎてしまった。ファンの多さもゆんちとはけたちがいだし、もう安心だ。私の上を通り過ぎていった心の元カレたちよ、私の知らないところで幸せになってくれて構わないよ。
 その点研修生というジャンルの目の離せなさと言ったらない。入所オーディションの時はそのへんでちょろちょろしている子どもなのに、みるみるうちに歌やダンスを覚える。身長が伸びる。声変わりをする。メイクが上達する。立ち居振る舞いがアイドル然としていく。アイドルとしての成長のスピード感が段違いで酔いそうになる。特に、夏休みに集中する現場仕事やそれに伴うレッスンが詰め込まれる研修生の一夏は長くて、研修生たちは夏を越えると別人のようにパフォーマンスレベルが上がっていたり体つきが変わっていたりする。
 それぞれに成長し、他の研修生との関係性を深めながらも、彼らの中でグループを結成してCDデビューに至れるのはごく一部の選ばれた者のみで、大多数はひっそりと退所していく。ともすれば、アイドル未満とも言える彼らの物語は、連載開始にぎ着けることができるかすら定かではないのだ。めまぐるしく変化する彼らのうち、誰がいつ華々しくデビューするのか、それともとうされるのか予測がつかず、片時も油断できないし目が離せない。
 私の推し活は、推しがデビューを決めた時、あるいは夢破れて退所する時に思いっきり泣くための準備みたいなもんだ。

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 推しという概念がわからない「人間マッチングアプリ」こと森田愛梨と私は、趣味は全然合わないけどなぜか気は合って、しばしば合コンの人数合わせなどにお声がかかり、誘われるがまま参加したりする仲だった。堅実めの社員が多い職場でパリピ寄りの愛梨ははっきり言って浮いていて、中には露骨に彼女を軽視している人も多い。「ちさぱい今週末飲もうよー」なんつって私のデスクまでひょこひょこやってくる愛梨に対して周囲で含み笑いの目配せが行われたり、愛梨の話題を出すと「ああ、あの森田(笑)ね」と嫌なやり方で笑われたりすることもままあるが、義憤に駆られて彼女をかばうでもなく、そうですーその森田ですーなんつって適当にやり過ごす私の良心が痛んだりすることは別にない。
 私が神谷と出会ったのも愛梨に誘われた飲み会だった。
 神谷は、愛梨が学生時代にインターン先で知り合った男の子の就職先の同期とか、確かそんなんだったと思う。毎週末フットサルやってますみたいな顔した根アカの男と連れ立ってやってきた神経質そうなメガネが神谷だった。
「ちさぱいはー、ちさぱいって呼ばれてるけどおっぱいは小さくないから大丈夫だよー脱いだらすごいんだよー」
 愛梨は飲み会の度に自己紹介のくだりでりちに説明してくれるけどそもそもお前しかそのナメたあだ名で呼んでねーんだよと思いつつ私も毎回「もうちょい夜がけたら巨乳ギャグ披露しますねー」と大してウケるわけでもないやりとりを繰り返してしまうし、万一に備えて巨乳ギャグは二つほど用意してある。
 二度と会うこともないような人間との飲み会に慣れると、その場しのぎの受け答えばかり上達してマジレスの仕方を忘れる。
 浅いとか深いとかダサいとかオシャレとかいうマウンティングと無縁で、掘り下げられすぎることもなく、かつまるきりのうそでもない合コンコミュニケーションを私は常に模索している。
 趣味を聞かれれば「最近は献血ですかねー。成分献血って知ってます? 血から必要な成分だけ抜いてあとは戻すやつなんですけど、ヌくのもイれるのもできるんでお得ですよ」つってライトな下ネタで場をあっためる。好きな音楽の話になれば、誰でも知ってて音楽通にもウケが良くて気取ってないバンドの最適解ことスピッツを申告する。私がリアルに多用している最新版合コンさしすせそは「さすがっすわー」「しんど!」「すさまじいね」「世紀末かよ」「それマジのやつじゃん(あるいは「そういうとこあるよね~」)」でファイナルアンサーです。とりあえずその場をしのぎたい、モテを重視しない方のみ参考にしてください。
 ドルオタの集いでも何でもない飲み会の場でアイドルが好きなんて言うのは悪手、コミュニケーションの摩擦が生まれてお互いにそよそよとしたストレスを感じるだけだ。だからこそ、フットサル顔が「俺は休日はだいたいフットサルやってるなー」とすがすがしいほど意外性ゼロの発言をした後に神谷が「僕の趣味は、もっぱらアイドルですね」と言ってのけた時、へーお前の合コンスタンスそういう感じなんだ? 私が言うのも何だけどモテる気あんのか? と一抹の不安を覚えた。
 愛梨は、「おっ、ちさぱいもわりとアイドル好きじゃなかったっけ~?」と、私がどの程度の熱量でアイドルを語るかをゆだねる言い方でトスを上げた。愛梨はパリピだけど空気が読めるので、合コンの場で私がドルオタであることと遠恋中の彼氏がいることは基本的に伏せておいてくれるのだった。
 神谷に推しているアイドルを尋ねると、川上ももなっていう子なんですけど……と私が女子ドルで今一番注目している女の子の名前をあげたので、「おっ、もにゃ推しなんですね~」とあいづちを打つと、「もにゃをご存知なんですか!?」と眼鏡の奥の目をかっぴらいた。もにゃこと川上ももなちゃん十四歳は女子アイドルグループを多く擁する大手事務所の研修生だ。昨年夏に行われた入所オーディションの合格者発表の時に、ほかの女の子たちが不安そうにひとみを震わせている中、半ギレの目で審査員一同をにらみつけるように見ていた視線が印象的だったので私の研修生レーダーに引っかかっていた。私がもにゃを把握していることに神谷はたいそう興奮し、もにゃがいかに天使で自分の生きる喜びになっているかということをとうとうとまくしたて始めた。うわ~。こいつしゃべるタイプのオタクか~。この時点で愛梨は神谷を完全に度外視し、フットサル顔にフルスロットルの構えを見せていたので私も気合いを入れて爆弾処理業務にかかることにした。
 神谷は、私や愛梨と同じく社会人三年目だけど大学院を出ているので年齢は二つ上だった。軽い気持ちで専門を聞くと、「マングローブにしか生息していないコオロギを使って体内時計の仕組みを研究していました」と言うので、思わずごめん何て? と聞き返してしまった。さほど興味のある分野ではなかったが、風変わりな教授に気に入られてほとんどマンツーマンで研究をしているうちにだんだん面白くなってきたのだという。博士課程に進むつもりだったのに指導教授がサバティカルに入ったので断念したらしい。それで今は大手食品メーカーの研究職に就いているのだそうだ。それってコオロギと関係あるんですか? と聞くと、あるといえばあるし、ないといえばない、と神谷は言った。意味がわからん。とりあえず、さすがっすね~、と相槌を打ったらげんな顔をされた。その後もいくつか当たりさわりのない質問をしてみたが、どうも私たちの間には共通言語がもにゃ以外に存在せず、神谷はその他のこととなると極端に口数が減ることが明らかになった。仕方ないので酒を多めに飲んでボルテージを上げ、「古今東西もにゃに言われたい台詞せりふゲーム」を始めてアホほど盛り上がった。最優秀賞が神谷の発案した「本当はほかに好きな子がいるのにもにゃに弱みを握られてさんざん振り回された後に涙目で言われる『もう、離してあげる……』」に決定したあたりで、パカパカ機嫌良く白ワインを飲んでいた神谷が、れに手刀でもかまされたのかな? ってくらい何の前触れもなくテーブルに崩れ落ちた。フットサル顔が、「いやー神谷これまでになく飲んでたからね~」とケラケラ笑いながら言った。じゃあ止めろよ。何面白がってんだよ。「めっちゃテンション高かったよね~よっぽどちさぱいちゃんのこと気に入ったんだろうね~」おいおいどうすんだよこいつ~。有無を言わせずフットサル顔に介抱させたいところだったが、愛梨が言っとくけどうちらこの後やる気満々だからな……という念を送ってきたので腹を決めて神谷もろともタクシーに乗り込んだ。ひょろい体を後部座席にぶち込みながら、あからさまに嫌な顔をする運ちゃんに「大丈夫です! この人絶対吐かないんで!」と宣言した。知らねーけど。マジで頼むから絶対吐くなよ。

 翌朝私の家で目を覚ました神谷は、一瞬「え、自分何もされてませんよね?」とでも言いたげな被害者ヅラをしやがったので「神谷さんゆうべでいすいして意識失ってどーしよーもなかったんでうちに連れてきちゃいましたけど良かったですか? てか体調大丈夫ですか? 救急車呼んだ方が良かったですか?」とこれまでのあらすじを説明してやったら意図していたよりも多めにいらちが伝わってしまいのろのろと土下座の体勢をとられ「この度は……」と謝罪を始めたのでそこまでしなくていいよ! とあわてて制した。
 私もゆうべの酒が残っていて薄く頭痛がするし、当然朝食など用意する義理もなく、特に行動を起こす気になれないまま何週か前に録画してそのままにしてあったキングオブコントの決勝をしばらく二人でぼうっと眺めていた。ネタそのものより、ネタ前に流れる二分足らずのコンビ紹介VTRの方ばっかり真剣に見てしまって気がついたら二人とも泣いていた。な~にやってんだろ。
 ちさぱいさん、部屋れいにしてますね、と唐突に神谷は言った。
「あー、あんま物増やさないようにしてるんで」
「どうやって収納してるんですか? どうしてもかさばりません?」
「何がですか?」
「CDとか雑誌とか、ポスターとか」
 推しのグッズって、ついつい複数買いしちゃいません? とはにかんだ笑顔で神谷は言った。
「ああ、基本買わないです」
「えっ」
「キリないんで。物増えるの嫌なんですよ。やっぱアイドルは地上に限りますよね~テレビとかネットの供給が段違いなんで」
「えっえっ、でもそれじゃあもにゃに全然お金落ちないですよね」
「そうですねー。でもしょうがなくないですか? 欲しくないんですもん。あ、ファンクラブは入ってますよ。コンサートは入りたいんで。でもそれでも、会費とチケット代でせいぜい年間一、二万ですね、アイドルに投資してるのって」
 神谷は、ぜんとした表情でつぶやいた。
「それって、すごい、不誠実じゃないですか?」
「そうかもしんないですね」
「たとえば、男性と初めて食事する時にサイゼリヤに連れてこられたらどう思います? 不誠実じゃないですか?」
「それはまあ不誠実っつか、だせーなとは思いますね」
 ってか、その例えビミョーに適切じゃなくないっすか?
 納得の行かない様子の神谷が帰った後、不快な頭痛にこめかみを押さえながら無理やり大量の水を飲み、ベッドに寝そべった。ツイッターを起動し、ゆんちオタと交流するために作成したアカウントを開く。私はツイッターアカウントを用途に合わせて七つか八つは所持しているが、どうりつが高い順に、ゆんちアカ、もにゃアカ、あとは友人との交流用のプライベートアカウントとなっている。プライベートって。ドルオタは仕事かよ。その他のアカウントは若気の至りで作った愚痴アカや、かつての推しのために作ったアカウント等で、今となってはパスワードも定かではなく削除するのもおっくうでそのままにしている。
 ツイッターは、私にとって推し活における情報収集のメインツールだ、何か推しの状況に動きがあればタイムラインがざわつくのですぐそれと知れるし、コンサートの前などはツイッターを介してチケットを融通しあったりもする。
 タイムラインでは、ドルオタたちがめいめいこの動画の何分何秒のゆんちがわいいとか振りが一拍ずれてて可愛いとか先輩とテーマパークに行ったらしい可愛いとかかまびすしくツイートしていて、うんうんわかるわかる可愛いよね~ゆんちは可愛いんだよね~と読んでいて口元が緩んでしまう。
 推し活の質を高めるために、推しに関する良質なツイートを投稿してくれるオタを厳選してフォローしているので、タイムラインでは基本的にみんな推しの話をしている幸せな世界だ。ツイッターを見てると全国民がゆんちのこと好きなのかなって思っちゃう一方で、日常生活でゆんちを推してる人間に遭遇することはまずなく、ゆんちって私にしか見えてないのかな? って思う時もある。
 ゆんちへのラブを手を替え品を替えユーモアにくるんでツイートする。タイムラインの有益な情報や共感性の高いツイートにはいいねを押す。今日もアイドルは可愛いしドルオタは元気だなあ、平和で良かった、と充足感を覚える。
 もしSNSがない時代に生まれていたら、私は多分アイドルにハマってないだろうなと思う。可愛いアイドルを眺めるそれ自体よりも、むしろオタ同士でやいのやいの言ってるのの方が楽しいとこある。漫画だって原作より二次創作の方が好きだったりするし。他者の感受性の手助けなく自分で一から魅力をいだすのをサボってるのかもしれない。
 地下アイドルなんかもずいぶんってるけど私はやっぱり大手ジャンルが好きだ。大手ジャンルはチケットの競争率が高かったりクソオタが目立ってひんしゅくを買ったりするっていうようなデメリットもあるけど、ファンの母数が多い分だけ面白いブログやツイートを発信できるファンもたくさんいるのでネットサーフィンがはかどる。また、大手事務所のアイドルはSNSの利用を制限されていることが多いっていうのも良い。本人不在の方がうわさばなしは盛り上がる。まあ今の時代当然みんなエゴサーチくらいはしてるだろうから、厳密には不在ってこともないんだろうけど。
 そうしてスマートフォンを片手にだらだらしてたら半日経ってしまった。推しが歌うCDを聴くわけでも推しが出ている雑誌を読むわけでもなく、推しがカワイイの気持ちの共有だけで休日はあっという間に過ぎ去る。
 私はアイドルに不誠実か?
 中学生の時、放課後コンビニでっていたら連れの一人が万引きで捕まって、店長の「こういうことされちゃ商売になんないんだよ!」というしっせきに対して、「知るか! 中学生だって職業なんだよ!」と言い返していたことをよく思い出す。当時はこいつ逆ギレしてるよ~バカだ~うける~と思ってけらけら笑っていたけど、あれから十年経った今でも「中学生だって職業なんだよ!」という無茶苦茶な言い分が折に触れて頭をよぎる。
 私はアイドルに不誠実か? 私がやっていることは万引きか? ヤリ逃げクソ野郎か? アイドルを不当にさくしゅしているのか?

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 別に推しにお金を使う価値がないと思っているわけじゃない、でもしっかりお金を落とすことに伴う精神的な億劫さを私は忌避しているのだった。
 推しとしっかり向き合ってお金を落とそうとする。
 まずは推し関係の商品情報を把握する。
 CDが出るならオリコンの初週売上に計上される期間内に買う。スマートフォンに取り込む。CDは収納する。聴く。
 雑誌に掲載されるなら、掲載誌を調べて買う。推しの最新の発言を把握する。これまでの発言を踏まえて推しのことをまたひとつ正しく理解する。雑誌は解体してファイリングする。
 こういう一連の流れって推しのことを心から応援してる人にとっては心躍る推し活の一環で、ひとつも面倒くさくないことなのでしょうか。私はゆんちのことめちゃカワイイと思ってるし心から応援してるけど普通に面倒くさいよ。
 ひとたびお金を使い出して、全部買わなきゃって義務感を抱きたくない。推しの発言をくまなく拾って正しく理解しなきゃって思いたくない。他に気になる子ができたらラフに推し変したい。推し変したあとに、これまでに発売されたあれもこれも買っときゃ良かったって思いたくない。狭い部屋に歴代の推しのグッズが乱雑にたいせきしていく状況にストレスを感じたくない。
 そういう経済的側面以外の心理的負担は、その商品の魅力や推しに課金したっていう満足感を差し引いてもお釣りが出るくらい私の中では大きい。
 別にお金を落とさなくても、YouTubeの公式チャンネルで配信してる動画を見たりとか、音楽番組を録画したりとか、SNSを巡回したりするだけでもじゅうぶん楽しいし。
 アイドルで疲れたくない。仕事じゃねーんだよドルオタは。
 うーんやっぱり私はアイドルに対して不誠実な気がしてきたなあ。

 週明け、始業前に愛梨が私のデスクまでやってきて肩をたたき「よっ、金曜日は変な奴押し付けたみたいになっちゃってメンゴ!」と謝る気ねーだろっていう謝罪をかましてきた。悪いと思ってんならランチでもおごれ。金で誠意を見せろ。
 そっちはどうだった? 一発やれた? と小声で聞くと、愛梨はにたりと笑って一発どころじゃないよーんと私の肩を小刻みに揺すった。
 そうそう、神谷氏がちさぱいの連絡先知りたがってるけどどうする? ブッチする? とスマートフォン片手に尋ねられ、ちょっと迷って了承した。
 夜には、神谷から迷惑をかけて申し訳なかった、きちんと謝罪したいので一度食事でもどうか、何か食べたいものがあれば教えてほしいというラインが入り、「じゃあサイゼリヤで」と返信する。
 結局神谷が指定したのは、小綺麗な地中海料理屋だった。
「サイゼリヤでいいって言ったじゃないですか」
 神谷はもごもごと、いや、そういうわけには……と言った。
「あの、あらためて、本当に先日はすいませんでした、介抱していただいた上に不誠実とか言っちゃって……。ドルオタにもそれぞれのスタンスってものがあるのに」
 控えめに乾杯してすぐに謝罪をする神谷は、きっとな人間なんだろう。その性質に好感を抱くわけでもなく、生きづらそうだなあと思う。神谷は、身体からだの細部がどことなく自信がなさそうで、指先やつま先の動きに安定感がない。
「まあ、私たち、同じもにゃ推しとはいえ宗派が違うんで仕方ないですよね」
「信じてる神は一緒なんですけどね」
「そもそも私はもにゃ単推しなわけでもないんで、強いて言うなら多神教の人間ですし」
「僕は、完全に一神教で……もともと別に推してる子がいたんです。その子のことも、僕なりに真剣に愛してました。しっかりお金も使って、認知もらえるくらい現場にも通ったし。でも、七期生のオーディション特集でもにゃを見た時、『出会ってしまった』って思ったんですよね。そこからはもう、知れば知るほど、もにゃのことしか考えられない自分がいて」
 ポリ、と口に入れたピクルスを丁寧に食べている風で神谷が今味わってるのはパプリカではなく彼女への思いで、ゆっくり響くしゃくおんがどうにもじれったく、間を持たすためにビールを一口飲む。
「正直、男性アイドルのファンが羨ましい部分はあります。僕は、もにゃと一緒に年を取りたいのに、女の子のアイドルは引退が早いじゃないですか。ももにゃんが卒業する時のことを思うと、今から……」
「ちょっ、何泣いてるんですか! 娘を持った父親じゃないんですから」
「できることなら、一生アイドルとしてのもにゃを見ていたいんですよ。僕は、一生もにゃを推す覚悟はできてるんで。でも今の芸能界じゃそれも難しいじゃないですか」
 神谷は眼鏡を外し、ハンカチで目頭を押さえた。こいつ、意識失うし泣くしで酒癖が悪いのでは? と疑ったが今日彼が注文していたのはノンアルだった。こいつが悪いのは酒癖ではなくもにゃ癖だ。
「もにゃの卒業後のことなんて考えたくないんですけど、女性アイドルのセカンドキャリア問題が取りざたされている記事を読むと、居てもたってもいられなくなっちゃいます。もにゃがもにゃらしく一生輝き続けるために、一体僕には何ができるんだろうか」
 大きなお世話じゃないか? アイドルの人生にドルオタぜいが責任を感じることこそごうまんなんじゃないか? いつアイドルを卒業するのか、卒業後に芸能活動を続けるのかそれとも引退するのか、全てもにゃ本人が決めることで、ファンが勝手にやきもきしたって仕方ないだろう。若くて愛らしいもにゃは今後何にだってなれる。別にアイドル以外にも引退年齢が早い職業はたくさんあるし、アイドルの卒業後のことを過剰に心配するのって、推しの一番可愛い時期を不当に搾取してるって後ろめたさの表れなんじゃないですか? あの子たちは好きでアイドルやってるんだから、ただ降り注ぐカワイイに身を任せていればいいんじゃないですか? って思っちゃうのは、推しに対してちょっと冷淡すぎるだろうか。
「僕にとって、もにゃって何なんですかね……」
 こっちが聞きてーよ。
「そんなんじゃ、週刊誌に撮られた時とかどうすんですか?」
 ちょうめんにハンカチの角をそろえてたたみなおしている神谷の鼻は赤い。
「そんな縁起でもないこと言わないでください」
「じゃあ、推しにはどんな恋愛をしていてほしいですか?」
 初対面の日からそうだったが、神谷とのコミュニケーションはこちらが質問をする形式で進めるのが一番スムーズなのがしゃくにさわる。司会じゃねーんだぞ私は。甘ったれるな。
「欲を言えば、アイドルを卒業するまでは恋愛はしてほしくないですね」
「はあ? でももにゃが卒業するのは嫌なんですよね。一生アイドルやっててほしいんですよね。じゃあ神谷さんとしては、もにゃが一生アイドルかつ処女でいるのが理想ってことですか? 結婚して子ども産んでっていうのはしないでほしいってことですか?」
「そうなりますね」
「アイドルサイボーグになれってことじゃないですか。発想が悪の組織じゃないですか。それじゃあ、もにゃが片思いするのはオッケーなんですか?」
「片思い……かあ……片思いよりももっと淡い感情だったらオッケーですね」
「は?」

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「何か、恋愛には興味があるし、かっこいいと思う人もいないわけじゃないけど、今はやっぱりメンバーと一緒にアイドルやってる方が楽しいやって思っててほしいです。でもその一方で、普通に恋愛する一般の女の子にあこがれていてほしいです。ラブソングを歌って複雑な気持ちになっていてほしいです」
「うわあ気持ち悪い」
「勝手なことを言ってるのはわかってます。でももにゃはしんで賢い子だから理解してると思うんですよね。自分がどんな土俵で闘っているかっていうのを。ファンがどんな気持ちでもにゃを応援して、握手券を買って、フォトセットを買ってるかっていうのを。アイドルっていうのはある種の疑似恋愛なわけで、それを職業にする以上恋愛はしないのが礼儀だと思うんですよ。話題になったあの子みたいに、生放送で結婚宣言なんかされたらたまったもんじゃないですよ」
「あれ、この世界はほんろうするかされるかなんだよ! って気概が伝わってきて私はスカッとしましたけどね」
 私、もにゃは普通にうまいこと仕事しながら彼氏つくる気がするんだけどな。むしろ、私はそういうずるがしこく自分の利を追求しそうなところが良いなと思っていたのだ。私と神谷のもにゃ像には大きな隔たりがある。話していくにつれて、きずなは一向に深まらないのに傷ばかり深くなっていく。オタクの数だけもにゃがいるんだなあと思う。多くの人に知られるってことは、それだけ多くの人に誤解されるってことなんだろう。
「私はわりと推しがどんな恋愛しても別に構わないですよ。大してお金も使ってないのに、交際相手がいたからって裏切られたとも思わないですし。まああんま軽率なことしてたらバカだなーとは思うかもしんないですね。アイドルの恋愛なんて、隠しとくに越したことないんで。どっちかっていうと、要領よく恋愛できるアイドルに憧れます。子どもの頃から芸能活動してる子ってどのタイミングで異性を知るんでしょうねー。若いアイドルグループ見てると、この子らのうち何人経験済みなのかなって考えちゃいません?」
 さすがにけいべつされるかと思ったが、もう宗派の違いにどうこう言うつもりはないのか、けいけんな神谷は表情を変えず、リベラルな姿勢、大変結構です。と師範のような感想を述べた。
「お金は落とすけど恋愛禁止を主張する僕と、お金は落とさないけど恋愛に寛容なちさぱいさんだったら、どっちがアイドルに対して誠実だと言えるんでしょうね」
 どっちも無責任なんじゃないっすか? 無責任に他人の人生を消費したいから私たちはアイドルが好きなんじゃないですか?
 私はステージに立っているアイドルを見ててももちろん泣けるけど、ステージの外の、ベテランの振り付け師に叱責されてるとことか、撮影の合間にメンバーとじゃれてるオフショットを見るともっと泣ける。この子たちが選んできたものと切り離してきたもの、これからつかみ取るものに思いをせて泣ける。そういう彼ら彼女らの物語をおかずに白飯を食っているのだ。
 平凡な私だってこれまでの人生で数え切れないほど取捨選択をしてきたし、これからもするだろう。でもアイドルたちの取捨選択や喜怒哀楽の方が私の胸に切実に響き、むしろ自分の人生の方がごとみたいに感じるのは何でだ。

 毎朝六時半にアラームが鳴る。何でこのクソ眠いのに起きなきゃいけねーんだよって脳みそが考え始める前に無心で素早く起き上がることがすっきり目覚めるコツだと思う。考えるだけ損なことっていうのはある、悲しいことに。起床後即テレビをつけてYouTubeのアプリを起動させ、アイドルの動画を流しながら身支度をするのがルーティンになっている。ネットサーフィン中に偶発的に目に入ってくるもののほかは一切ニュースのたぐいを見ない。アイドル以外の、政治とか経済とか世の中のこと全然知らなくて人としてやばいかなーと漠然と危機感を抱くこともあるけど現状何とかなっているから毎朝目先の英気を養うのを優先してしまう。アイドルはレッドブルのウォッカ割りとだいたい同じくらい効く。営業部の愛梨は、取引先との会話のタネになるから情報番組やネットニュースは日々くまなくチェックしていると聞いたことがある。スタバの新作も発売されたらマストで飲むとも言っていて、これが結構話のとっかかりとして有用なのだという。経理部の私は内勤で息がつまることもあるけど、営業に配属されなくて良かったと心から思う。
 たまたまタイミングが合ったので愛梨と会社の近くのイタリアンにお昼に行った。先日棋士に落ちそうと宣言していた同期の女がまんまとハマって将棋に詳しくなり、その結果将棋をたしなむ上司に過剰に気に入られてセクハラ騒ぎになっているらしい。愛梨は社内ゴシップに異様に詳しく、本人もゴシップガールのような生活を送っている。
 愛梨は例のフットサル顔とうまくいっているようで、正式に付き合うことも視野に入れているが手放したくないセフレもいるしでどうしようかなーとジェノベーゼをくるくる巻きながら悩んでいた。
「あーほんと仕事が手につかないよー。今月達成率やばいのにさー。そっちはどうなの? 神谷氏と。やった?」
「やってない」
「ほんとかよー。だってちさぱい、遠距離の彼氏と最近会ってんの?」
 彼と最後に会った日を思い出そうとするけど、いつだったか、今よりは薄着だったような気がするという程度の記憶しかない。
「夏頃会ったかな」
「もう秋も終わるんですけど! さみしくないの?」
「別に、もう付き合って長いし」
「それってもう飽きちゃってるんじゃないの?」
「もう家族みたいなもんだから……家族って飽きないしころころ変えたりしないでしょ」
「おっとな~。私だったらやりまくっちゃうなー。絶対ばれないじゃん! どうせ結婚するんだったらその前に遊んどいた方がよくない?」
「いや、うーん、遊びたい気持ちもないわけじゃないけど、彼を傷つけたくはないからさあ」
 真面目かよ! いつもみたいに適当なこと言ってやりすごせばよかったのにうまくできなかった。そのくせ、マジレスっぽく口から出した言葉もどこか自分の本音とそぐわない気がして、妙な違和感に居心地が悪くなる。本当に彼を傷つけたくないんだったらホイホイ合コンになんか行かないんじゃないか? 合コンで、誰ともわかり合う気がないような適当なコミュニケーションをとっているくせして、内心、あわよくば、と常に思っているんじゃないか?
 会社に戻り、今日は残業なしで帰れそうだなと順調に業務をこなしていたつもりが、定時を二分過ぎたあたりで作成していた伝票のミスに気付いてしまってうなれる。おいおいマジかよー。類似作成で複数の伝票をつくったので、単純だけど広範囲にわたる修正を入れなければいけない。小さく呻き声をあげて紙資料を乱暴にデスクの端に置き、修正範囲を正確に把握するべくキーボードをタイプする指の動きが荒くなる。隣のデスクの先輩が怪訝そうにこちらを見やったので「アディショナルタイムに失点しちゃいましたあ」と冗談めかしてへらりと笑ったはいいものの内心結構やられている。よっぽど明日にまわそうかと思ったけど明日も明日で業務がパツっているので全て直してから帰ることにする。残業時間の削減はチーム全体の目標でもあるため、残業することを伝えるとチームリーダーに嫌な顔をされた。もう三年目なんだし、自分で抱え込みすぎないで周りに適切に仕事を振れるようになってねと小言を言われる。本音半分建前半分の苦言は、その通りだと思うけど自分のしょっぺーミスのしりぬぐいをチームに振り分ける気には全くなれない。はい、すいません、と生返事をしながら全て自分で処理した。残業時間はきっちり申告した。
 家に帰って手早くシャワーを浴び、スキンケアを済ませてベッドに仰向けに横たわる。背中とベッドの接地面に身体中の疲労がじんわり沈み込んでいく。おなかかないけどアイドルは空いた。さっさと補充して早く寝たい。
 ツイッターを開くと、ドルオタたちは今日もまたゆんちがいかに愛すべき存在かっていうのを飽きもせず発信している。研修生のゆんちは、そう毎日露出があるわけではないので、実際のゆんちよりもドルオタが語るゆんちのイメージの方が私にんでくる。インターネットを見れば見るほどオタクたちの共同幻想が膨れ上がってゆき、本人とかいしていくような気がしてくる。
 馴染みのフォロワーにリプライを送り、その返信を待っている間に手持ちになってゆんちの名前をリアルタイム検索にかけた。すると、ゆんちの可愛らしさを称賛する数々のツイートの中に紛れている不穏分子を発見しておや? といぶかしく思う。「そういう向上心の無さやずるさが周囲の士気を下げてるってこといい加減わかった方がいいと思う。あの子のオタって全員頭お花畑だから本人も気付けないのかな?」該当ツイートを発信したアカウントのホーム画面に飛ぶと、それはまさしくゆんちのアンチアカウントで、定期的にフルネームで検索をかけているからわかるけれどもこんなもの絶対数日前までは存在していなかった! アンチアカウントというのは、特定のアイドルの悪口をのべつまくなしにツイートしまくり、しかもアカウント名に本人のフルネームを組み込んだりしてわざとエゴサーチに引っかかりやすいようにしている大変タチの悪いアカウントのことだ。どうやら三日ほど前に作られたらしいそのアカウントはすでに百件以上ゆんちに関するネガティブなツイートを投稿しており、やめときゃいいのに私はそれを全てさかのぼってしまっただけでなく、ゆんちのアンチアカウントが他に存在しないか検索技術を駆使して探し出し、見つけ次第ツイートを全て読むということを繰り返していたら夜が明けた。考えうる限り最悪の夜の過ごし方をしてしまった。
 最初は面白半分、怖いもの見たさでのぞいただけだった。アンチアカウントができるなんてゆんちも出世したもんだなあ、どれどれどんな揚げ足の取り方をされているのかなって。ただ、そこに連なっていた悪口の数々は、全部が全部まるっきりのいちゃもんというわけでもなく、私が愛情にかまけて知らんぷりしていたちょっとした違和感などをすごく誇張して批判しており、もちろん総合してみればいずれも言いがかりにすぎない妄言なのだけど自分でびっくりするぐらいってしまった。
 芸能人なんだからアンチくらいいて当然、特に研修生なんてデビューできるのはごく一部、ライバル同士のとし合いなんだから、大方他のえない研修生のファンが我が推し可愛さにゆんちのことを悪く言っているんだろう。ゆんちがあんまり魅力的なばっかりにデビューが近いかもしれないと思ってしっしちゃったのかな? うんうん、わかるよわかるよ~その悪意。全然想定内。これは想定内の悪意。見つけたら即ブロック、迷惑アカウントとして運営に報告、これが正しい処置。頭ではわかっているんだけどなあ。アンチアカウントがツイートに添付していた、ゆんちが某地下アイドルに送ったと思われるラインのトーク画面のスクリーンショットが頭から離れない。下心丸出しの文面はあまりに生々しく、嫌いな食べ物を無理やり口に詰め込まれたような気分になる。
 一睡もしていないけど朝になってしまったので仕方なく出勤した。今日中にデータを集計して完成させなければいけない資料がある。朝から集中して取り組んでも終日つぶれるだろうと見越していたが、データを見直しているうちに、あれ? これ本当に今日中に終わるのかな? という気持ちになってくる。
 隣のデスクの先輩に、顔色悪いけど何か疲れてる? と声をかけられ、いや、大丈夫です、と言葉少なに返す。無理しないでね、と気遣う声がずいぶん遠い。
 寝てないせいで頭痛がひどい。のどの奥に吐き気も潜んでいる気がする。一瞬でも苦痛が和らげばと目を閉じると、脳内にゆうべ読んだゆんちの悪口が流れ込んできて頭がグラグラする。ゆんちはブスじゃないし整形でもねーよ。他の研修生をさりげなく下げて相対的に自分を優位に見せるような意地の悪い会話運びなんてしてねーよ。ゆんちはそんなに賢くねーよ。パフォーマンスレベルが低いのに開き直って大した努力もせずにキャラクター性で売り出そうとなんかしてねーよ。いやそれはしてるかもしんないよ。
 十代の男の子をとうするためのアカウントを作成してせこせこ悪口をツイートするような頭がおかしいアンチのせいなんかでゆんちの価値は一切損なわれないしましてや私の機嫌が左右されるなんてことは絶対にあってはならない! 揺らいでしまった自分が悔しい!
 気付けば私はパソコンに向かったままぼろぼろと涙を流していて、見かねたチームリーダーに有無を言わさず早退させられた。
 私はのん気なゆるオタとして活動できていると思っていた。あくまでアイドルは日々のいろどり、ほんのエッセンス、没頭しすぎることもなく、研修生という構図のエンタメ性をかんで面白がり、何にも縛られることなくカワイイをきょうじゅできていると思っていた。私のドルオタ活動を豊かにしたSNSがてのひらを返して私を傷つける。
 私は気軽にアイドルを愛していたいのにこれじゃ割に合わねーよ! ふざけんじゃねーよ!
 私にとってゆんちって一体何なんだろう。アイドルっていう概念は漠然としすぎていて何の説明にもならないのが苦しい。ゆんちが私にとって一体何なのか、きちんと言葉で理解したいのにそれができない。自分がアイドルと全然折り合いがついていないことを思い知らされてショックを受けてしまう。
 この会社に入社する時の社長面接で、役員の一人に「あなたのキャッチコピーを教えてください」と言われて「ラフ&タフです!」と答えて失笑を買ったのを思い出す。すいません社長、ざんします。私はラフでもタフでもありませんでした。虚偽の申告をいたしました。としもいかない男の子に執着し、彼のアンチの発言ごときでめちゃ落ち込んで仕事を早退しました。あの面接の時は完全にすべってたのに全然めげなくて、いや~やっぱ私ってタフだわ~って思ったんだけどな~。ちなみに就活用にストックしてたキャッチコピーの次点は「ステイハングリー、ステイスタイリッシュ」だったんですがそっちの方が良かったですかね? っていうかキャッチコピーが定番の質問ってマジなんなんだよ。複数準備させるんじゃねーよ。おおかよ。就活生はアイドルじゃねーんだぞ!

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 平日昼の乗客がまばらな電車内であたたかすぎる座席に座ってラインを起動させ、神谷に「今日会えませんか」とメッセージを送った。

 私は男の子のアイドルも女の子のアイドルも好きですが、どちらかというと男性アイドルに肩入れしている理由を説明します。
 強い憧れを持ってアイドルを志してる子が圧倒的多数の女子ドルたちと比べて、男性アイドルは熱意のばらつきが激しいんです。親類や知人の勧めでオーディション受けて合格しちゃったのがきっかけでアイドルやってるっていう子が男性アイドルには結構多いんですよね。そういう、部活動や習い事の延長で何となく入ったけどとりあえずやるからにはがんばろ、みたいな子と、強い情熱を持ってアイドルやってる子が入り混じっている。それでいてその熱意と人気は必ずしも比例しなくて、アイドルって職業に情熱を注いでいる子よりも、何となく入ってきた子のひょうひょうとしたゆるさ、より一般人っぽいパーソナリティの方が魅力的にうつって人気が出ちゃったりする。どちらかというとゆんちもそのタイプなんですけど、そういう子には、だんだんとアイドルという職業へのプライドや執着が芽生えていく過程があって、それを見守るのもだいのひとつですね。男の子のアイドルの、ごった煮でいびつなところ、面白いですよ。
 っていうのは建前で、私が男性アイドルを好きなのは完全に性欲由来です。私は異性愛者で性指向が男性なので男性アイドルが好きなんです。それだけの話です。
 女子ドルオタの女がしばしば男性アイドルオタの女に対して抱きかねない、可愛い女の子は正義! 可愛い女の子をでている私も正義! 一方男性アイドルが好きってどういうこと? それって結局性欲じゃない? キモい! 的なべっせんを恐れて、あくまでも自分はアイドル研修生というコンテンツを俯瞰で面白がっているみたいな気取った言い方をしました。実際は若い男の子が好きなだけです。誰も私を責めてないのに言い訳を準備しておくのが癖になっている。
 私は、若い女の子と結婚したい、女の子はすっぴんが一番などと飲み会でのたまう独身男性を女子会で罵倒した舌の根も乾かぬうちに、若い男の子のアイドルが出演している音楽番組の録画をとして再生してセンターの○○くんかっこいいけど化粧濃すぎ! やっぱりゆんちみたいな薄化粧が最高! などと恥ずかしげもなく言ったりします。
 この国は異常なんです。リアルアイドルの結婚解散熱愛に踊らされるのに飽き足らず、アイドル育成シミュレーションゲームやアイドルアニメ映画の応援上映が大ヒットしているんです。西洋占星術を学び始めた友人によると、ホロスコープ上にもアイドルの星、平たく言えば夢を与える者の星というものが存在するそうです。その星は私のそばでもう三年は輝きを放ち続けるはずで、なおかつ社会全体へも少なくとも向こう十年は強い影響を与え続けるというふうに聞きました。日本の皆さん、我々はあと十年はアイドルに振り回され続けるみたいですよ。十年で足りるか? 私たちは、ずーっと、アイドル的なものに振り回されてきたし、今後も生命いのちある限りは振り回され続けるんじゃないのか?
 私は高給ではないにせよ経営の安定している企業に勤めており、所属部署に嫌な先輩もいません。遠距離恋愛中の恋人とは結婚を視野に入れて交際していますし、お互いの家族との関係も良好です。ゆんちは私にとって日々の活力でありいやしであることは間違いありませんが、決して寄る辺ないとは言えない私の人生の生きるよすがというわけでは毛頭なく、彼の表情や感情は、まぶたにくっついているほんの数センチの毛束の揺れ方は、半端に満帆である種のなぎのゾーンに入った私の人生を揺るがすちょっとしたアトラクションにすぎないんです。私の船を動かす燃料であるお金をゆんちに注ぎ込む勇気がないのは、私の人生のかじりをゆんちに任せたくないせいでもあると思うんです。番狂わせなく大学を卒業して就職したことにより突入した凪のゾーンはきっともうしばらくしたら終わると思うんです。結婚とか出産とかそういうので。それこそあと三年くらいで、多分。その時まで人生の主導権を何とか持ちこたえたいよ。

 急な呼び出しにもかかわらず駆けつけてくれた神谷は、私のスマートフォンでくだんのアンチアカウントのツイートを一通り読むとため息をついて「ちさぱいさん、どうしちゃったんですか。落ち着いてくださいよ」と言った。
「それでも平成生まれのデジタルネイティブですか? 耐性なさすぎですよ。そもそも、わざわざ推しのアンチスレ見に行くなんて自傷行為もいいとこです。何自分から傷つきにいってるんですか?」
「ごもっともでございます……」
 だいたいラインのスクショ画面なんて今時しろうとでも簡単に加工できるし何なら架空のトーク画面を作成できるアプリだってあるんですからね、と神谷は諭すように言った。確かに、痛いドルオタが自分の好きなアイドルグループのグループラインを創作して楽しんでるのを見たことあるぞ。
「ちさぱいさんは、アイドルときちんと距離をとれてる人だと思ってたので、ちょっと意外です」
 神谷は、心持ち口元に笑みを浮かべている。
 生活の中心がアイドルになってもうずいぶん経つのに、いまだに心のどこかで自分はアイドルにハマるような人間じゃないって思っている。私の中には、いつだってアイドルに熱狂してる自分と、それを茶化してる自分が同居しているのだ。最近は、アイドルに熱狂している自分がどんどん幅をかせてきて制御できなくなってきている気がして恐ろしい。
 アイドルのパワーを毎日享受していて、彼らが格好良いっていうのをよく知ってるくせに、アイドルにうつつを抜かしていることを恥ずかしいと思っている。アイドルに理解があるふりして、アイドルを私は鹿にし続けている。アイドルをもっと愚直に愛したい。誰か、私が納得いくような、聞こえのいいそれっぽい言葉でアイドルの素晴らしさを説明してくれよ。アイドルに全力投球させてくれよ。できないんだったらもうアイドルとかどうでもよくなりたい。愛梨みたいに自分だけを推して生きていきたい。だってセックスできないじゃん! って言い放った愛梨の笑顔を思い出す。私の現実は愛梨の生活みたいに華やかで刺激的じゃないから、番狂わせのないつまんない人生だからアイドルに多くの感情を委ねてるのかなって思っちゃうよ。
 ほおづえをついて目の前の神谷をぼうっと眺める。今日はたまたま午後休をとっていたという彼の初めて見る私服姿は、何となくあなどっていた想像よりもずっとスマートだった。そうしんの体型に合う服をひとつひとつ丁寧に選んでいるのが伝わってくる着こなしをしていて好感が持てる。
 捕らえどころがないと思っていた眼鏡の奥の片二重すらも、アンバランスさが何かエロいかも、って思ってしまう。
「神谷さんとセックスしたら、何か変わりますかね? 私、ゆんちのことどうでもよくなれますかね?」
 神谷は、コンサート会場でマナーの悪いドルオタを見てしまったような表情で私の方をり、ぴしゃりと言った。
「そういうの、気持ち悪いです」
 ですよね。
「僕は、もにゃに出会えて、毎日幸せです。幸せっていっても、常にポジティブな感情ばっかりもにゃからもらえるわけじゃなくて。モンスターペアレントみたいに、もにゃが何しても可愛いってわけじゃない。もっとしっかりできるだろ! って悔しく思う時もあれば、そんな出来じゃその立ち位置で踊る資格はない! って苛立つ時もある。それでも、努力が実らなかった時はいたわってあげたいと思うし、他推しに叩かれてる時は全力で怒って、守ってあげたいと思います。ポジティブな感情もネガティブな感情も全部くるめて、もにゃに色んな感情を貰える毎日が幸せです」
「ステージママみたいですね」
「ステージママ……というのが適切かどうか。もにゃって、僕にとって娘でも恋人でも、それこそ神様でもなくって、いっそ自分なんですよね」
 あんな可愛い女の子に自分を重ねてるなんて、どうかしてると思いますか? と問いかけられ、無言で首を振る。
「ちさぱいさんと話してから、僕はずっと考えてたんですよ。誠実なドルオタって何なんだろうって。僕は、どうして握手券がついてるわけでもないもにゃのグッズを複数買いしてるんだろうって。それでね、もにゃにお金を使うことって、僕にとって祈りに近いのかなって思ったんです。もにゃのフォトセットを複数買っても、部屋が狭くなるばっかりで、別に僕がファンとして優遇されるわけじゃないし、もにゃにどのくらいバックがあるのかもわからない。はつもうでで、わけもわからず神に祈ってるのと同じなんですよね。あれって、別に神様のために祈ってるわけじゃないじゃないですか。確かなことはないけど、僕ともにゃにとって何かが好転するはずって祈りをこめてお金を落としてるんですよね。それで祈ったあと、ちょっと気分が良くなれば、僕にとってそれがもう全てなんですよ。もにゃのためじゃなくて、自分のために祈ってるっていうのを忘れないことが、僕の誠実さなのかなって、最近は思うようになったんですよね」
 私は、神谷にたいして、彼の、右と左で幾分大きさの違う目を見ながら、心ではずっと、一秒も途切れずゆんちのことを考え続けていた。ゆんちのことを真剣に考えることは自分について考えることに近いのに、私は神谷のようにゆんちを自分だとは到底思えない。じゃあゆんちって一体私にとって何なんだろうと考えても、私にとってゆんちは「アイドル」だっていう、最初っからわかりきった答えにしか辿たどり着けなくて、私は無力だなあと思う。
 それでも、私は彼がアイドルじゃなかったら彼を好きになっていないので、自分が辿り着いた答えはただひとつの正解のような気もしてくる。

 それは冬の始まりの、よく晴れた土曜日のことだった。ゆんちの所属事務所が、研修生から五名を選出してグループを結成、CDデビューが決定したむねを記者会見で公表した。そのメンバーの中にゆんちの名前はなかった。同時に、公式サイトでは、ゆんちを含む他数名の研修期間終了、つまり退所がひっそりと発表されていた。
 こういういつなんどき誰がいなくなるかわからないっていう緊迫感は、紛れもなく私が面白がっていた研修生の魅力の一つなのだった。
 退所が発表されてから日付が変わるまでの間は、公式サイトでゆんち個人のグッズを購入することができる。
 今この瞬間、ゆんちを推していた女たちは、彼への最後のはなむけに、彼のグッズを大量購入しているだろう。
 私も日付が変わる瞬間まで、自分が彼に対してどういう祈り方をするか迷うことができる。
 ゆんち、別にもともとアイドルになりたかったわけじゃないもんね。これからまた違う夢を追いかけるよね。一人で泣いたりしてないかな、大丈夫かな。ゆんち、夏を越えるたびにかっこよくなっていったね。寄る辺ないとは言えない私の日常に君がいたことで、色んなことがちょっとずつマシになっていったんだよ。
 面と向かって気持ち悪いと言われることもできない私が、この先の人生どうか誰もあの子を傷つけてくれるなと、不可能と知りながらもただ手を組んで祈り、その手の熱が冷めないうちにツイッターを開いてゆんちのためにつくったアカウントを削除した。
 明日は誰を好きになろうかな。

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