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 拝啓、『城北新報』「打ち明けてみませんか」御担当者様。

「打ち明けてみませんか」欄に出すにはそぐわないかもしれませんが、ままよとPCの電源を入れました。

 悩みというよりは、謎です。

 両親と私の三人で暮らした家で、へんな出来事にたびたび遭遇しました。

 ずっと謎で、今でも謎です。ただし、どれもみな瑣末さまつなことです。ちっぽけ過ぎて、どれからどうお話しすればよいのかわかりません。

 ですので、名札が貼り替えられた出来事を打ち明けます。家とは直接関係ありません。けれど、この出来事のへんさ、、、は、私が家で遭遇した出来事と同質なのです。

****

『城北新報』の何号かに長谷川博一氏が、【今はペンライトなどというものを点灯させるらしいが、むかしは人気スタアの公演といえば、紙テープが盛んに飛んだものだ】という随筆を寄せておられました。「スター」ではなく「スタア」と書かれていましたよね……。芸能人の公演でなくても、かつては紙テープが、船の見送りにも使われましたし、学校でもいろいろな用途に使われていたものです。

 私が小学校2年生のときのことです。

 近畿地方のQ市に住んでいました。まだそこにお住まいの方が大勢いらっしゃいますので、プライバシーに配慮して具体的な市名は控えさせていただきます。以下に出す名前も全員仮名です。

 私が小2のころのQ市は人口3万余。人口30万以上の都会で生まれ育った方にはおわかりにならないでしょう。これくらいの規模のコミュニティは難儀です。

 もっと小規模であれば、牧歌的なゆるさに流れるのですが、これくらいの規模だと、融通ゆうずうのきかなさ、旧弊さが強く出てしまい、人目がうるさいのです。

 私の家は、私鉄Q駅からさらに同私鉄バスですこし行ったところにありました。

 通っていたのは市立小学校。児童数603人。私は2組で、男児19人、女児18人。担任は稲辺和子いなべかずこ先生。

 稲辺先生は当時、三十代後半だったでしょうか。日教組に入っておられない方で、組合員の一部の先生方からは、情緒的だと陰で評されることがたびたびありました。組織でも制度でも、およそものごとが改変や改革をされると、その過渡期に乗じてはしこく、、、、動く人というのがいます。今からふりかえれば、稲辺先生にはそういうところがあったのかもしれません。日教組に属さず、日教組が得たメリットは自分の物とするわけですから。

「稲辺さんは、ちょっと……、情緒的っていうか、その場にいる人の力加減を見て動くとこがある人だろ」

「署名は無理だろうな」

 小坪主事と高学年担当の星野先生の会話を聞いたことがあります。

 実際にはお二人は、関西方言で話されていましたが、『城北新報』御担当者様には、方言のままですとニュアンスがわかりにくいと存じますので、以下すべて事実ながら、方言の部分についてのみ標準語に直して続けます。

 ふすまが半分開いていました。小坪主事と高学年担当の星野先生が、何かプリントされた紙を、ささっと鞄にしまわれるのが、私の位置から見えてしまいました。

 小坪主事というのは教育委員会の先生です。学校現場には来られない先生を、なぜ小学生の私が知っていたかというと、若いころの祖父が同会に在籍しており、祖父の一知人として、祖父宅にいらしていたのです。祖父宅は県庁近くの水辺にありましたので、私はボート遊びや魚釣りついでに寄り、そこで小坪主事をお見かけすることが時々あったのです。

「稲辺さんは……」

 祖父の家で会う大人の方は、幼稚園や学校で私が存じあげている先生のことを「さん」づけでお呼びになります。それが私には、聞いてはいけなかったものを聞いてしまったような妙な居心地の悪さを与えました。

「……稲辺さんは第二だからね」

 第二、というのは第二組合のことです。日教組とどうちがう組織なのか、そうしたことは小学生にはわかりません。ただ小坪主事が星野先生のことを「星野さん」とお呼びになるといやでした。お二人が稲辺先生を「稲辺さん」とお呼びになるのも。その呼び方が嫌いというのではなく、そういう呼び方を耳にすると、どういうふうな顔をして、どういうふうに息をして、そこにいるべきなのかがわからなくて、いやなのでした。

 子供心の印象にすぎないかもしれませんが、むかしは今よりずっと日本人の道徳心が強かったように思います。お金持ちであることより、礼儀正しいことや正直であることを敬っていたように思うのです。地方のに住む、まだ小2の私には、担任の先生という偉い方が「稲辺さん」と呼ばれているのを耳にすると、不謹慎な心地がするのでした。

 小坪主事が「稲辺さん」と口にされるのを耳にすると、私はビクッとしました。稲辺先生から叱られるのではないかとビクッとするのです。

 稲辺先生は、何かのはずみで急にお怒りになることがあります。ルールのない状態は、のろまな者には安らげません。その時々の変化に、のろまな者はすみやかに応えることができません。

 私はむかしからのろまでした。

 私の脳味噌は、石でできた車輪のように、ごっとりごっとりとしか回転してくれません。鈍い頭で、一生懸命ああだろうか、こうだろうかと考えているうち、みんなの話題はパッパッパッと変わってしまう。「機を見るに敏」の真逆の、のろまでした。

 のろい上に、明朗さややさしさを欠いているので、私のことを積極的に嫌っている人もいることを、自分でわかっていました。

 ただ、嫌う人はいても複数でかたまっていじめてくる人はいなかった……と当時を記憶しているのですが、のろまさが幸いして、いじめられているのに気づかなかったのかもしれない。

 最初に名札が貼り替えられたのは二学期です。

 12月12日でした。同じ数字なのでおぼえています。

 給食の後。掃除の時間。私は児童昇降口を掃除する班でした。

 児童昇降口というのは、全校児童の下駄箱が学年・クラス別にずらりと並んだ、児童用の出入り口です。

 を上げ、如雨露じょうろで水をまき、いて、簀の子をもどし、雑巾でき、下駄箱の側面や天を拭きます。ふたはなく、ただ仕切っただけの下駄箱。それぞれに名前が貼ってあります。これが紙テープでした。

 紙テープに、稲辺先生がマジックで一人一人、名前を書いて、一枚一枚、糊で貼ってくださっているのでした。学年共通のクラスの色というのがあり、1組は赤、2組は黄色、3組は緑に色分けされています。私は2組ですから、黄色い紙テープに名前を書いていただいておりました。

 稲辺先生はたいへん字のお上手な方です。運動会や卒業式などの重要行事で毛筆で大きな字を書かねばならないおりには、必ず稲辺先生が太筆をさばかれ、みごとな墨文字をお書きになるのでした。下駄箱の名札については、油性マジックできれいな楷書かいしょで書いてくださっていました。

 掃除もそろそろ終わりかけ、しゃがんでバケツで雑巾をすすいでいた私は、

「あれ?」

 手をとめました。

 入学時に書いていただいた名札も小2の冬ともなりますと、マジックの黒字も、紙テープの黄色も、色褪せてきております。しかし人は徐々の変化になかなか気づきません。あることが、もう「むかし」なのだと気づくのは、真新しい状態と並べてつきつけられたときです。

「むかし」を私に気づかせ、手をとめさせたのは、一枚だけ新しい名札でした。

 わじ みつよ。

 和治光世は私です。私の名札のみ新しく貼り替えられていたのです。

 クラスのほかの子のマジックの文字は褪せているのに、私の名を記す文字だけがはっきり黒い。ほかの子の紙テープの色は褪せているのに、私の名札のみ鮮やかに黄色い。

「……」

 靴を入れる所は五十音順で、私の場所は下駄箱の一番下です。さら、、の名札にうずくまるように目を近づけていると、袖を引っ張られました。

「ヒカルちゃん、どうしたの?」

「光世」の「光」から、ヒカルちゃんと私は呼ばれています。二学期からこうなりました。

 周囲から愛称で呼ばれるのは人気者と相場が決まっています。人気者ではない私は、ずっと苗字に「さん」を付けて呼ばれていました。国語の時間に「光」という漢字が出てきて、稲辺先生が音読み訓読みのご説明をされるさい、真ん中の前の席だった私に目をとめ、私の名前を例にされたのです。「和治さんは、訓読みするとヒカルヨちゃんです」と。ヒカルヨちゃんという名前のすわりの悪い響きに、教室にどっと笑いがおこりました。その日は一日中、ヒカルヨちゃんと呼ばれていたのですが、長いので、そのうち「ヨ」がとれたというわけです。

 袖を引っ張ったのは美和雪子ちゃん。彼女こそ、みんなが自然に「ミワちゃん」と呼ぶ子です。

 私は名札を指さしました。

「あっ、なに、これ? 新しくなってる」

 ミワちゃんも、名札が新しくなっていることに気づきました。

「ヒカルちゃんが、貼り替えたの?」

「ううん。さわってもいない」

「じゃ、なんで新しいの?」

 ミワちゃんは私とは正反対の子です。声が通り、明るく、友だちからも先生方からもだれからも好かれます。のろまで人好きのしない私は、だからこそなのか、ミワちゃんのような子が大好きでした。

「私もなんでだろうと思って見てたの」

「ふうん……」

 私たちは並んでしゃがみます。

「これ、きれいだけど、稲辺先生の字とは違うね」

「うん、ちがう」

 さら、、の名札の字は、とても上手な大人の字ですが、教室で、学校行事で、よく知っている稲辺先生の字とは筆蹟がちがいます。

「ほかの子のはそのままなのに、なんでヒカルちゃんのだけ貼り替わったの?」

 私がいちばん訊きたいです。なぜなのでしょうか?

「朝、ヒカルちゃんが学校に来たときは、もう新しかった?」

「朝は変わってなかった……」

 ……変わっていなかったはずです。朝は大の苦手で、昼以上にぼーっとしていますから、下駄箱の自分の名札などを注意して見もしませんでしたけれど、これだけ真新しければ、いくらぼんやりの私でも気づいたのではないでしょうか。

「四時間目までは勉強だから、給食のあいだに貼り替えたのかな」

「へんなの。先生に言いなよ、ヒカルちゃん」

「どう言うの?」

 都会の小学生は先生に気軽に話しかけられるのでしょうか。小さな町の、しかも私が小学生のころは、先生とは気軽に話しかけられない存在でした。名札が新しくなったことで何か問題がおきているのならともかく、おきていないのに、軽々しく、なぜ名札が新しくなったのか、先生はどう思うかなどは訊けません。

「そうだね……、どう言ったらいいのかわからないね」

「そうだよ……」

 尻を上げ、頭は下げ、私たちは名札を凝視します。

「おっかしいなあ。ヒカルちゃんの名札、剥がれかけたりしてた?」

「ううん」

 凝視するには、下げた頭の、あごが簀の子につきそうになるほどの姿勢をとらねばならない位置にある私の場所ですから、名札はほかの子のものより、きれいさが保たれていたくらいです。

 姿勢が苦しくなって私たちは立ち上がり、傘立ての鉄枠に腰かけました。

 ところで。

 私は名前について隠していることがあります。

 戸籍では、私は和治という苗字ではないのです。

 大伯父である日比野義雄のもらい子になっているからです。

 日比野の家を継ぐ長男の下には、次男の義雄、三男の和雄がいました。三男が私の祖父です。二人の女子は他家に嫁ぎ、末子で三男であった和雄も婿養子に出て、妻姓を名乗りました。その後に、長男が亡くなりまして、次男義雄が家を継ぎました。義雄は子に恵まれず、私が彼の子になったのです。

 とはいえ、私が実父母と暮らす家には「和治」と表札がかかっておりますし、母も和治と名乗っているのですから、私の名札も「和治」と貼られるわけです。

 私が実は日比野姓なのは、母の、ある種の抵抗、、であったのだと、後年に思うに至りました。

「あなたは、本当はね、日比野光世なの」

 まだ私がかなり幼いころから、父が数日間不在になると、感情を穏やかにした母は、そう言うのでした。

「だからね、あなたは牢屋に入る人の子ではない。わたしも、よその家からだまされてここに来ただけだから、出て行きさえしたら牢屋に入るような人とは関係ない」

 そんなことを言う母は、しかし、ふだんよりずっと温和でたのしそうなのです。

 母は敷子というのですが、敷子の言い分を補足いたしますと、私を祖父方本家の子にしたのは、父、和治辰造が戦犯だからなのだそうです。「せんぱんの子にならないようにするためよ」「ぐんのことはぜったい秘密よ」「へいたいさんにられたとだけ言うのよ」などと、敷子は辰造が旧陸軍の士官であったことを伏せよと言いました。

 また、「せんぱんのことはいんぺいして、結婚させられた」とも、よく言いました。小学生のころは意味がわかりませんでしたが、後年に聞いたところによると、ソ連抑留復員兵の助け合い組合のような仕事をされていた某氏が、辰造の釣書を日比野義雄に持っていったさい、二人は彼らなりにこまやかな配慮をしたのです。戦勝国が和治辰造に一方的に出した決定を、日本が復興せんとする時期には悲しいことであると、和雄(私の祖父)には詳しく言わなかったのでした。

 和雄は和雄で、当時にあってはかなりき遅れていた娘(敷子)に、縁談相手として和治辰造を引き合わせました。辰造は辰造で、戦犯であることはみなが承知のことと、敷子と結婚したのでした。結婚してすぐ、敷子は私を産みました。

 敷子は、隠蔽などというオーヴァーな単語を使いましたが、ようは単純で微細な行き違いです。こうした次第を、私は、中学校卒業式の後で、そのときには既にお亡くなりになっていた某氏の奥様から、偶然、伺いました。式の来賓としてお見えになっていたのです。

 奥様はひどくためらいながら私にお話しになりましたが、小学生のころにはもやの中で見ていたものを、やっと晴天のもとで見た心地がし、よほどすっきりといたしました。

 母はただ父が嫌いだったのでしょう。旧態依然とした田舎町に住む女性にとって、離婚は今とは比較にならないくらい、汚点であり悪いことと見なされていました。当時の女性たちの多くは「離婚すると子供がかわいそうだ」という、ほとんど宗教に近いような意識を持っていました。

 戦犯云々は母にとってさして関係なかったと思います。産んだ子を日比野の家の子と法的に記録することが、離婚したくてもできない母の、(私ではなく)自分が、父から離れられる手段だったのでしょう。いささか不可思議な思考の仕方ではありますが。

 辰造が、敷子の屈折した戸籍操作を承知したのは、帰国後の経済的な事情からであって、敷子の感情をおもんぱかったのではなかったのでしょう。日比野の家から養育費が出ました。

 子のない義雄にとっては、家存続のことも多少は考えたかもしれませんが、大層な家柄ではありません。扶養家族がいることで小さな税金対策としたのでしょう。

 三者ともに利が一致したのです。

 ですが小学生のうちは、こうした工夫が、賄賂だとか脱税といったような、なにやら不正めいた「いんぺい」にひびき、私は母のとった方法について、関わり合いたくないというか、知らないほうがよい、知らないでいたいと望み、母が日ごろには見せぬ晴々とした表情で「あんたは本当は和治じゃない。日比野なのよ」と言い始めると、前にはすわっているものの、よく聞いてはいないのでした。

 小学校低学年の子供の耳には、「せんぱん」「りくぐん」という音が、とても怖かったのです。祖父宅で会食があると、必ず『戦友』を歌うお爺さん(老人)がいました。“ここはお国を何百里、離れて遠き満州の、赤い夕日に照らされて”というあの歌です。あの歌の旋律がものすごく悲しく、「せんぱん」「りくぐん」という語音は、あの旋律を思い出させたのです。

 なもので、私はなにがなんでも「いんぺい」しなくてはならないと思い、それがかえって「自分の正体は日比野なのだ」「なのに正体をいんぺいしている」と思われ、罪悪感にさいなまれるのでした。

「ヒカルちゃんの名札、ぜったい剥がれかけてたんだよ。だれか通りかかってこすれて破れてしまったんだよ。その人は、どうしよう、なんとか修理なおさないとって思って、新しい名札を貼ってくれたんだよ」

 ミワちゃんは推理しました。

「けど……」

 誤ってだれかの名札を剥がしてしまったからといって、短い時間に、ちゃんと2組の色である黄色の紙テープを用意して、油性マジックを持ってきて、達筆で名前を書き直し、糊で下駄箱に貼れる小学生がいるでしょうか?

「……この字は、大人の人の字だよ」

 六年生のお兄さんお姉さんでも、たぶん中学生でも、こんなに上手な字は書けません。後年からの説明になりますが、稲辺先生の癖のない正確な筆蹟とはまたちがう、ソリッドな美しさのある筆蹟でした。

「家の人に書いてもらったんだよ、きっと」

 どうやって? かりに一時間目の始まる前にうっかり名札を剥がしてしまった子がいたとして、その子はどうやって家の人に、それもちゃんと2組色である黄色い紙テープに油性マジックで私の名前を書いてもらい、また、私の下駄箱に糊で貼っておけたのでしょう?

 ミワちゃんの推理はちゃち、、、でした。それはミワちゃん本人もわかっていたはずです。

 大人ならおわかりと存じます。子供は好奇心旺盛ですが、きわめて短い時間しか持続しません。ミワちゃんは「名札の謎」に興味をどんどん失っていったのです。

「そうだね。きっとそうだね」

 ちゃちな推理に私も同意しました。私もまた子供だったので、疲れてしまいました。

「ミワちゃん、水を捨てに行かないとね。掃除終わりのチャイムが鳴るし」

 私はバケツを指さしました。

「ほんとだ。早く捨てに行こう」

 私たちは流し場へ行きました。

****

 三学期。三月。低学年最後の授業は音楽でした。

 低学年の音楽の授業はたいてい、音楽室ではなく、各教室でおこなわれます。

“森は春だよ 厚い上着、さあ脱いで”

 低学年最後に、音楽の授業でうたった歌。明日は終業式で、それが終われば、私たちは中学年になるのです。

「みんな、明日は終業式です。勉強はありません。でもいろいろと家に持って帰らないとならない物があります」

 稲辺先生がおっしゃいました。

「ですから、今日は『窓の棚』の木琴を先に持って帰りなさい」

 廊下に沿って棚があります。「窓の棚」とみな、そこを呼んでいました。木琴は重く嵩張かさばるので、ずっと「窓の棚」に置いてあるのです。

 私が通っていた小学校の音楽室には楽器がそう多く備わっておらず、半音の出ない簡易な作りの木琴を、クラスの七割が購入していました。きょうだいのいる子がほとんどだったので、きょうだいで一台といったぐあいに。

 木琴は専用のケースに入っています。学校指定の教材店で一括購入するので、みんな同じケースです。70cm×20cm×5cmくらいの平べったい、木琴の形に合わせたものです。蝶番ちょうつがいがついていて、ぱかっと大きく開きます。合板で、男子は青地に白のマーブル模様。女子は朱色地に白のマーブル。各自が「窓の棚」からしゅっと抜けるように、ケースは立ててならべていました。

 起立・礼をして、私はみんなといっしょに廊下の「窓の棚」に木琴をとりにまいりました。立てたケースの、廊下のほうに向いた5センチ幅の面には、稲辺先生が黄色い紙テープに名前を書いてくださっています。

 紙テープの部分を私は注視しました。下駄箱の名札のことを思い出して。

 ぱかっと開くケースですから、5センチ幅全体に貼ったのでは開けません。開き口を塞いでしまわぬよう半分側だけに、先生は紙テープを貼って下さっています。黄色は褪せてしまっているものの、先生の癖のないきれいな筆蹟で、私の名前が(母いわく嘘の名前が)書かれていました。

「ヒカルちゃん、なにぼんやりしてんの。あたしが木琴、とれないよー」

 うしろからミワちゃん。

「あ、ごめん」

 私は自分の木琴を抜きました。

「そうだ、このあと、ちょっと教室に残って。先生から色画用紙を一枚もらったよ。×子ちゃんとか○子ちゃんとかで寄せ書きをしようって言ってるの。ヒカルちゃんも書いて」

「うん」

 数人の女子でひとつの机をとりかこみ、桃色のきれいな色画用紙に鉛筆で、先生へひとことずつ御礼を書きました。

「じゃ、これ、先生に渡しに行こう」

 ミワちゃんがふんわりと画用紙をまるめ、皺がよるといけないので、私がミワちゃんの木琴を左手で持ってあげ、右手には自分の木琴と上靴うわぐつ入れを持ち、教室を出ました。

「あれ、あんた……」

 廊下を歩きかけると、×子ちゃんが私の右手を顎でさして、

「上靴は明日も要るんだよ」

「あっ、ほんとだ」

 明日の体育館での終業式には上靴を履かないとならないのに、私は早々に上靴入れを家から持って来て、昇降口を出るときに上靴を持って帰ろうとしていたのでした。

「教室に置いて来なよ」

「ふだんはグズ屋さんなのに、こんなときだけ気が早いんだね」

 ×子ちゃんや○子ちゃんの笑い声を背に、私は教室にいったんもどり、自分の席の椅子に上靴入れをひっかけ、また教室を出ました。

「あの上靴入れ、バレリーナの絵がついててすごくかわいいね。ジゼルみたいなチュチュ着ててね。あんなかわいい上靴入れ、どこに売ってたの?」

 職員室まで歩いてゆく廊下で×子ちゃんは、私の上靴入れを絶賛してくれました。

「いただきものなの」

 両親は共に公務員でしたが各々外郭的団体への赴任でしたので勤務時間は不規則で長く、私は赤ん坊のころからいろいろな方の家に預かってもらっていました。そのうちのお一人が贈ってくださったのです。

「へえ、いつもらったの?」

「一年になるとき。入学祝い」

「そうなんだー。いーなー、いーなー」

 ×子ちゃんが言うのを聞いたミワちゃんが、

「×子ちゃんも、三年生になるお祝いに誰かからプレゼントしてもらえるかもよー」

 と言うと、それを機に、職員室へ向かう女子たちには、自分たちが「中学年」になることへの不安がざわめきました。

「あーあ、三年生になるの、いやだなー」

「そうだねー」

「ほんとだよね」

「やだやだ、中学年なんて」

 みんな、中学年になることに対し、否定的でした。

 笑えます。今からふりかえると。たかだか小2が小3になるだけのことで重苦しくなって。

 おそらくみんな、いやだったわけではないのです。中学年になるということに身構えていただけなのです。

 職員室の戸を開けたすぐのところに、水仙が花瓶に活けてあり、一本だけ、花がクキンと曲がってしまっていたのを、私は今でもよくおぼえております。

 翌日。3月24日。

 体育館での終業式で校歌をうたいました。校長先生のお話のあと教室にもどり、稲辺先生のお話。それから先生から図画の絵やプリントを返していただき、風呂敷に包み、上靴入れを持って児童昇降口に向かいました。下靴に履きかえ、上靴を、バレリーナの絵のついた上靴入れにしまおうとして、

「あれっ」

 短いかすれた声が喉から出ました。

 ×子ちゃんが「いーなー」と褒めてくれた上靴入れには、隅に、透明な細長いビニールのポケットがあり、そこに名前を書いた小さな紙を入れられるようになっています。紙には、上靴入れをプレゼントしてくださった方が私の名前をわざわざ書いて入れてくださっていました。バランスのちょっと悪い、癖のあるその字を見ると、家の中をばたばたと音をたてて動いていらしたその方の、大きな動作が思い出されました。その紙がポケットから抜かれ、新しい紙に、私の名前が書かれているではありませんか。

(え、え、なんで? なんで?)

 朝には? 朝にはどうだった? 体育館に行く直前は? びっくりした私は頭の中でぐるぐると時間をもどして止め、止めてもどしましたが、わかりません。登校してから下校しようとする今までの間、上靴入れをしげしげとながめるようなことをしませんでした。すくなくとも昨日の放課後には、紙の字は贈り主の筆蹟でした。寄せ書きを職員室に持っていこうとして回れ右して教室にもどって、急いで自分の椅子に上靴入れをひっかけるとき、名札ポケットをちらりと見ましたから。

 終業式を終えた今、別の名札が入っている。しかも達筆です。

(どうだったっけ、どうだったっけ……)

 貼り替えられていた下駄箱の名札の字と並べて比べたい。でもできない。中学年では下駄箱の場所が変わるので、昨日の大掃除で、各自が下駄箱の名札を剥がしたのです。

 私は突っ立っていました。クラスの子にも稲辺先生にも言えません。クラスの子は帰ってしまったし、稲辺先生は終業式がすんだのだから、もう担任ではありません。

 わからない。

 小学生の私は、本当にわかりませんでした。なにがわからないといって、一番わからなかったのは、このわからなさをどう説明するか、、、、、、、、、、、、、です。

(なんで?)

 名札はひとりでに替わりません。だれかが替えたのです。なんのために?

 名札が替わったからといって、とくに困ることはありません。だからこそわからない。こんなことをする人の目的が。

(なんで替えるの?)

 狐につままれたように私は通学路を歩いて帰りました。

 日が暮れると母親が帰宅しました。私は上靴入れの、名前ポケットの部分を指でさして、紙がすり替わっていたことを伝えました。

「へえ。そういや替わったかしら」

 それだけです。母が言ったのは。父には見せませんでした。見せても母と同じようなことだろうと。

****

 春休みは、毎日長い時間、読書をいたしました。偕成社の名探偵ホームズシリーズを。

 名札がなぜ新しくなったのか、だれがそんなことをしたのか、なんのためにしたのか。有名な名探偵のはなしを読めば「みごとな推理」というものができるようになるかもと、漠然と思ったのです。当然ながら、できるようになるはずはなく、なんの手がかりも得られませんでした。

 きっかけこそ名札の謎でしたが、ひとたび読み始めると、ホームズシリーズのとりこになってしまい、やめられなくなったのがじっさいのところです。ほぼ一日一冊のペースで読みました。フーダニットには関心がなかったと言っては言い過ぎなものの、最重要ではありませんでした。

 それより雰囲気です。子供向きにアレンジされているとはいっても、ホームズの話すべてにただよう、まだ馬車が走っていた時代のロンドンの雰囲気に魅了されました。

 もちろん、もくもくと毎日読んでいたのですから、ふるい時代の探偵小説における、犯人がだれかをあてるコツは体得しました。まさか、と思う人が犯人なのです。

「犯人……」

 うたた寝していてカクッと首をゆらせて目をさますように、ホームズシリーズを読みつつも、霧にけむるロンドンからカクッと現実にもどり、私は春休みに何度も下駄箱と上靴入れの名札のことを思いました。「犯人はいったい誰?」と。

 誰があんなことをしたのか、何がしたくてあんなことをしたのか? いつしたのか? した人のことを「犯人」と呼ぶようになっていました。

 考えていると、誰もいない、まっくらな学校がぼんやりと想像されます。だれもいないまっくらな教室や、児童昇降口……。

 私は一度、それを見たことがあるのです。

 前任の用務員さんと、私にバレリーナ上靴入れを下さったご夫婦とは知り合いでした。ある日、ご主人のほうが、前用務員さんに何かを届けに行こうとされ、私は玄関先で「いっしょに行く」と、いつになく大きな声を出しました。ご主人がスクーターを運転されるので乗せてもらいたかったのです。

 真夜中だった……と、つい最近までそんな印象があったのですが、考えてみれば届けものをするのに真夜中なはずはない。たんに日没が早い季節だったのが幼児には真夜中に感じられたのでしょう。

 初めて見る一帯の、真っ暗な空を背景にそびえる小学校の、外壁を白いペンキで塗り上げた校舎は、じっさい以上に大きく大きく、高く高く、私の目に映りました。

 昇降口は暗く、前用務員さんがストーブがちゃんと消えているかを点検するというので、バレリーナ上靴入れのご主人といっしょについていって見た、真夜中のだれもいない教室は、うなるように静かでした。

 この記憶のせいで、犯人の行動を想像すると、怖い。

 下駄箱の名札の貼り替えや、上靴入れの名札の差し替えを、もし、犯人が夜中にしていたのだとしたら……。

 夜の昇降口でかがみこみ、下駄箱の、狭い狭い部分に紙テープを貼る……。

 夜の教室で、上靴入れの小さな名札入れからそうっと紙を抜き取り、かわりにどこかで名前を書き直してきた紙をさしこむ……。

 夜の学校。真夜中の、肉食獣が口を開いたような、真っ暗な昇降口で……、獲物をみ込んだあとのように静かな教室で、細かな作業を犯人がしていたのだとしたら、そんなことをもくもくと平気でできる人が、私は怖い。

 怖くなって、私は考えることをやめてしまいました。名札のことも、犯人のことも。

****

 ホームズシリーズは読んでよかったです。ホームズとワトソンと知り合えたことは、私を、以前より社交的な子にしてくれました。ホームズシリーズに漬かるような二週間を過ごしたために、ロンドンに旅行して来たに似たリフレッシュ効果があったようです。

 ○子ちゃんや×子ちゃんやミワちゃんたちとあんなに「いやだ」「いやだ」と否定していた中学年でしたのに、いざなってみればなんのことはない。低学年より、はるかにたのしい日々の幕開けでした。

 担任の須田顕彰先生のお人柄も影響したかもしれません。物知りのお坊さんでいらしたので、お話の仕方がお上手でした。クラスの子は自然と先生とよくしゃべるようになり、授業中にでも給食の時間にでも掃除の時間にでも、みんなでドッと笑うことがうなりました。

 須田先生は男の先生でいらしたので、音楽と家庭科は女の先生が担当されました。決まっていたわけではないのでしょうが、当時は県内の別の小学校でも、男の先生が担任の場合は、音楽と家庭科は、担任ではない女の先生がそれぞれ受け持ってくださるのが一般的でした。

 そこで音楽の時間になるとオルガンのある低学年の教室まで移動します。須田先生のクラスの音楽は稲辺先生の受け持ちでした。

 三度目の名札貼り替えがおきました。

 小3の、十月に入ってまもない音楽の時間のことです。

 クラスで発表会の練習にかかったころです。実りの秋ということで月末に中学年の「学習発表会」があるのです。クラスの半分が歌、残りはハーモニカと木琴。私は木琴係になり、また木琴を廊下の棚に並べることになりました。

「木琴係の人、いちいち持ってくるのは重いでしょうから、学習発表会が終わるまで『窓の棚』を使いなさい。今は空いてるから」

 稲辺先生が御指示なさったのですが、もう予想がおつきになられたかと存じます。木琴の名札に異変があったのです。

 10月某日。低学年教室に入った私は、まず音楽の教科書を机に置いてから、廊下へ木琴をとりに行こうといたしました。すると、

「はい、ヒカルちゃん。ついでに」

 同じく木琴係である美和雪子ちゃんことミワちゃんが、私の木琴も持ってきてくれました。

「これはかたじけない」

 私はTV時代劇のお侍さんの口真似をして頭を下げました。この程度のふざけができるほど、中学年になった私は社交性を身につけられていました。

「はいはい、みんな、ちゃっちゃとする。時間をむだにしたらだめよ。歌う人は前に出て。楽器の人は準備オッケーにして」

 ぱんぱんと稲辺先生が手をたたかれます。稲辺先生は「オッケー」などという軽口をたたいておられたかと思うと、たちまち一転して機嫌を悪くされることを、私は低学年のあいだに経験しておりましたので、急いで木琴のケースを開こうとしました。ところが開きません。

「えっ」

 私は留め金を確認しました。ちゃんと外れています。

「どうしたの?」

 ミワちゃんにかれました。

「開かない」

「開かないって?」

 ミワちゃんは私の木琴のケースに顔を寄せました。私も寄せました。

 名札が、貼り替えられている。まるでついさっき書いたような、黒々としたマジックで、大人の筆蹟で、私の名前が書かれているではありませんか。

 それは稲辺先生が貼って下さっていたような黄色い紙テープでしたが、幅がもう少し広く、厚みもあるものです。それがベタッと貼ってありました。開閉部分をまたがるようにベタッと。なものですから、ケースを開かなくさせていたのです。

「先生、これ、開きません」

 低学年の時とはちがい、私はすぐに木琴ケースを教卓まで持って行き、先生にお見せしました。開かないから困ったのではなく、名札の謎を、先生のような大人に見ていただきたかったのです。

「だれかが貼ってしまっているんです」

 私は訴えました。

「これは……」

 稲辺先生は、私が指さしたところに顔を近寄せ、じーっとご覧になりました。

「これはだめよ。こんなふうに、こっちとこっちにまたがるように、全体に貼ったらだめよ」

 右の小指を名札にお当てになりました。稲辺先生は、右手の小指の爪だけを長くのばしておられます。

「こんなふうに貼ったのは……」

 私はどきどきしました。大人の、偉い、先生なら、どう「名推理」をしてくださるでしょう。

「こうしたら開くでしょ」

 けれど、稲辺先生は長くのばした小指の爪で、紙の端をカリカリとめくると、べりっと名札を剥がされただけです。

「ほら開いたじゃない。こんなことでグズグズしてないで。さっさと席について準備しなさい」

 ケースの5センチ幅の部分には紙が糊で貼られていたあとが所々に汚く残っただけ。ショックでした。稲辺先生が苛々したお顔をなさったこともですが、なによりショックだったのは先生が何ら謎を解いてくださらなかったこと。名札の異変にまったく関心をお寄せにならなかったこと。

(私の言い方では、何を言おうとしているのかが相手につたわらないんだ)

 席についてから、私はうぬぼれから目がめました。

(やっぱりだめなんだ)

 身につけられたとよろこんでいた少しの社交性も、相手がミワちゃんのようなやさしい子だから通用するのであって、私のしゃべり方や動作は、やっぱりだめなのだと気落ちしました。それなら、「よし、これからは山でヤッホーと言うくらいの勢いで大きな声を出すぞ」とへこたれずに考えられる、、、能力こそ、私がつかもうとしても掴もうとしても、手からすべり落ちてしまう能力でした。

 ひとたび気落ちすると、もしや私の脳には鼻から毒がまわりはじめたのではないかと、日ごろから両親から言われている恐れもまざってきて、木琴のばちを握る手が震えてきました。

 どきどきして手が震えるときは、必ずわきの下にひどい汗をかくことを知っていたので、そっとそこに手をあてますと、秋なのにネルシャツが湿っていました。

(どうしよう……)

 なにをどうしたいのかわからないけれど、「どうしよう、どうしよう」と思い、撥を鍵盤にふれないようにし、木琴を弾いているふりをして音楽の時間をやりすごしました。

 三度目の名札の差し替えのショックと相まって、自分への失望で、自分が無用の土管どかんになったようでした。

“ぼくらは明るく、希望の朝を……”

 すぐ前でクラスの子達が歌っているのに、自分だけ遠いところにいるようでした。

 名札が貼り替えられた(すり替えられた)のは、この三回だけです。

 私が気落ちしたところで「学習発表会」にはなんの影響もなく、ぶじに終わりました。

 やがて木々から葉が落ち北風が吹き、Q駅前のひなびた商店街にクリスマスセールに合わせた飾りがされるようになると、

「二学期も終わりですから、木琴を持って帰りなさい」

 学期末の音楽の時間のあと、稲辺先生がおっしゃいました。みなが「窓の棚」から、それぞれの木琴を抜いていると、

「うれしいわ。美和雪子ちゃんも、――くんも、――ちゃんも、須田先生のクラスになっても、まだ先生が書いてあげた名札を、ちゃんと木琴ケースに貼っといてくれてるのね」

 稲辺先生がやってきてにこにこされました。

「えらいえらい。いい中学年になったわね。だれかに貼ってもらった名札を大切にする子は、ものを大切にする責任感の強い児童よ」

 低学年時に稲辺先生のクラスだった子もそうでない子も、順に頭をなでてゆかれ、

「見なさい。この子なんかは、びりびりに破ってしまっています」

 と、私を指さされました。

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 以上です。

 謎と言うのも口幅くちはばったい出来事です。

 子供時代は「むかし」になり、今では私自身も、稲辺先生のように、自分で名札を破っておきながら、すぐにそれを忘れてしまうようなことをしていることでしょう。

 それでもこの名札事件は、今でも忘れることができません。今でも奇妙でなりません。

 つまらぬ出来事なのは重々承知いたしております。解決する必要もなければ、歳月がたちすぎていて、解決できようはずもありません。ただせめて御担当者方の「推理」だけをお伺いしとうございます。

 いったい誰が、なんのために、私の名札を書き替え、貼り替えたと思われますか。

敬具