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成瀬慶彦(よしひこ)憂鬱(ゆううつ)

 家族で共有しているノートパソコンの検索履歴に「京都 一人暮らし 物件」の文字を見つけたとき、成瀬慶彦(よしひこ)は泡を吹いて倒れそうになった。
 ほかにも「一人暮らし 物件 選び方」「京都市左京さきょう区 マンション」といった住宅関連のキーワードが並んでいて、ためしにクリックすると不動産サイトがずらっと表示される。
 慶彦は思わず、だれもいないリビングを見渡した。美貴子(みきこ)もあかりもすでに寝室だ。
 壁の上方には、これまであかりがもらってきた賞状を額に入れて飾ってある。小さい賞も含めれば数十枚はあるのだが、スペースの都合上、「大津市長賞」「大賞」「最優秀賞」などランクの高いものを厳選し、十二枚並べている。
 慶彦はほうじ茶を一口飲んで、再びパソコンの画面に目をやった。おそらくこの検索履歴は娘のあかりのものだろう。あかりはスマホを持っていないから、調べ物をするにはこのパソコンを使う。妻の美貴子が離縁を望んで物件探しをはじめた可能性もなきにしもあらずだが、それなら自分のスマホで検索するとか、検索履歴を削除するぐらいの配慮はするはずだ。
 あかりは高校三年生で、二週間後に京都大学の入試を控えている。京大までは電車とバスで一時間ほどの距離で、当然家から通うものだと思っていた。
 だからといって積極的に反対する理由もない。幼稚園から高校まで徒歩で通っていたあかりのことだから、毎日往復二時間を通学時間に取られるのは無駄だと考えているのかもしれない。
 仮に反対したところで、あかりは一度決めたことを曲げない。経済的援助をしなければ、自ら工面して安アパートに住むぐらいのことはする。それならば意に沿って安全なマンションを選んでやるのが親の務めというものだ。
 優秀なあかりのことだから家事一般はこなすだろうけど、親元を離れて危険な目に遭わないか心配だ。そしてなにより、あかりがこの家からいなくなるのが寂しい。
 慶彦は本来やるつもりだった楽天のお買い物マラソンそっちのけで、京都市左京区の学生向け物件を調べはじめた。

「おはよう」
 深夜まで物件探しに没頭していたせいでまぶたが重い。よさげな物件はいくつか見つかったものの、まだ合格すると決まったわけじゃないし、黙っておいたほうがいいだろう。
 ダイニングテーブルではあかりがいつもの調子でハムエッグ丼を食べている。急激な血糖値の上昇を抑えるため三十回は噛むようにしているそうで、早食いの慶彦は途中から合流しても同じぐらいに食べ終わる。美貴子は洗濯や掃除など朝の家事に(いそ)しんでおり、昨夜見た検索履歴について切り出すのは難しかった。
 テレビではUFOらしきものが見つかったという映像が流れていた。慶彦が子どもの頃からUFOがいるとかいないとか言っているが、謎はまだ解明されないのだろうか。
 それにしても朝のニュースで流すような内容じゃないだろうと思いつつあかりの様子をうかがうと、身を乗り出して映像を見ている。
「世の中まだまだわからないことがたくさんあるな。わたしはUFOを見たことがないから、ぜひ一度見てみたいものだ」
 どうやらあかりは本気でUFOがいると思っているらしい。慶彦はUFOなどいるわけないと思っていたが、よくよく考えてみれば完全に否定できる材料はどこにもない。
「見つけたら動画を撮ってテレビ局に送らないとな」
 慶彦が話を合わせると、あかりは「すぐにカメラを取り出せるよう特訓しておこう」と斜め上の返答をよこした。
「それでは、行ってくる」
 高校は自由登校になっているが、あかりは毎日出かけている。日々部屋に閉じこもるより、外の空気に触れたほうがパフォーマンスが上がるらしい。
 慶彦は日課の朝ドラ視聴を終えると、()(たく)を整えて家を出た。
 職場までは自転車で十分の距離だ。いつもは自転車を()ぎながら昼食のことばかり考えているが、今日はあかりの一人暮らしのことで頭がいっぱいだった。もしかしたら島崎みゆきの引っ越しも、あかりの決断に関わっているのかもしれない。
 あかりとみゆきは生まれたときから同じマンションに住んでいて、幼稚園・小学校・中学校と一緒だった。あかりにはあまり友達がいないようだったが、みゆきとは気が合うのか、登下校をともにしていた。
 島崎家が一家で引っ越すことになったと聞いたときには驚いた。普段から感情を表に出さないあかりですらショックを隠しきれていない様子だった。一人暮らしを考えたのも、親友がいないマンションに住み続けるのはつらいという理由からかもしれない。
 慶彦は島崎家とそこまで親しい付き合いはないものの、顔を合わせたら「あかりちゃんのお父さん」として挨拶を交わす程度の関係はある。顔見知りが近所からいなくなるのは、慶彦にとってもなんとなく寂しいものだ。
 そういえば、去年の春にあかりの希望でレイクフロント大津におの浜メモリアルプレミアレジデンスのモデルルーム見学に行ったことがあった。ただ単に西武大津店跡地のマンションを見てみたいだけだと思っていたが、あの頃から一人暮らしを考えていた可能性がある。
 それにしても、もう二月である。一人暮らしを希望しているなら、早く親に切り出すべきだろう。なんともモヤモヤした気持ちを抱えつつ、職場に着いた。
「あれ? なんか元気ない?」
 支店長が話しかけてきた。元気がない理由は明白だが、家庭の事情をペラペラしゃべるのもどうかと思うので、「ちょっと寝不足で」と当たり(さわ)りのないことを言う。
「受験生が家にいると、親も神経使うでしょ」
「まぁ」
 話を合わせてみたものの、あかりが受験生だからといって特に変わったところはない。早朝の走り込みは怪我防止のため室内トレーニングに切り替えているようだが、夜は以前と変わりなく九時には就寝している。
「あかりちゃんは京大受けるんだよね? すごいな~。あんな小さかったあかりちゃんが京大なんて」
 支店長とは若い頃にも同じ支店に勤めたことがあり、家族を交えて膳所城跡(じょうせき)公園で花見をしたことがあった。当時三歳のあかりが、熱心に桜の花びらを拾い集めていたことをいまだに覚えているという。
 思えばあの頃のあかりは本当にかわいかった。慶彦のことを「パパ」と呼び、帰宅すると玄関までてちてち出てきて抱きついてきたものだ。
 今のあかりだってもちろんかわいいのだけど、どこか「思ってたんとちゃう」という違和感が(ぬぐ)えない。父親と口を利かない年頃の娘と比べたらまだ恵まれているのかもしれないけれど、あかりとは口を利いたところで何を考えているか読めない。
 だいたい、塾にも行かずに京大を受けるのもすごすぎてわけがわからない。ほかの大学には興味がないそうで、すべり止めも受けなかった。美貴子は短大卒だし、慶彦もそれほど偏差値の高くない私立大学を出ているのに、だれに似たのだろう。先月受けた大学入学共通テストも膳所高で一番だったそうで、担任からは京大の二次試験も普通に受ければ普通に受かると言われたらしい。
 だいたい、教師なんて「最後まで油断しないように」と言うのが仕事じゃないのか。まるでディープインパクトのようだと慶彦は思う。
 二〇〇五年十月二十三日。当時三十二歳の慶彦は、大学時代からの友人たちと京都競馬場にいた。
 その日はディープインパクトの三冠がかかった菊花(きっか)賞の日。ディープインパクトは単勝オッズ1・0倍の大本命だった。
 第四コーナーをまわり、最後の直線に入ったところで先頭に立ったのはアドマイヤジャパン。二番手集団との差は大きく開き、さすがのディープインパクトも追いつかないのではないかと不穏なムードが漂う。ところがディープインパクトは桁違いの速さでアドマイヤジャパンに迫り、あっさり抜き去った。
 当時、無敗で()(つき)賞・日本ダービー・菊花賞を制したのはシンボリルドルフ以来二頭目。鞍上(あんじょう)(たけ)(ゆたか)による「空を飛ぶようだった」という比喩(ひゆ)は現在も語り継がれている。
 美貴子から妊娠を告げられたのはそのすぐ後だった。大きなトラブルもなく無事に生まれた娘は「まわりを明るく照らす子になるように」とあかりと名付けられ、すくすく育って今にいたる。
 あかりが突然変異で生まれたディープインパクトだとすれば、親元を離れて羽ばたこうとするのも無理のないことかもしれない。心の準備ができていなかっただけで、いずれ送り出すことはわかっていたはずだ。慶彦は気持ちを切り替え、業務をはじめた。

「ただいま」
 二十時すぎに慶彦が帰宅すると、あかりは洗面所で背筋を伸ばして鏡に向き合い、念入りに歯をみがいているところだった。
「おかえり」
 あかりは歯ブラシを口から出して慶彦に言った後、再び歯みがきに戻る。まだまだ夜の入り口みたいな時間だが、あかりはすでにパジャマを着て就寝の準備に入っている。
 リビングでは美貴子がテレビでバラエティ番組を見ていた。プログラミングされているのではないかと思うぐらい日常すぎる風景だ。あかりが学校行事で外に泊まっているときは、それだけで落ち着かない気分になる。一方で、慶彦が泊まりがけの出張のときは何も変わっていないのだろうと想像できる。
 何気なくダイニングテーブルに目をやった慶彦は、言葉を失った。ニトリと無印良品の家具カタログが載っていたのだ。
「このカタログ、どうしたの」
 動揺を(さと)られないよう、極力軽い調子で美貴子に尋ねる。
「わかんないけど、あかりが見てた」
 間違いない。あかりは一人暮らしに向けた準備を着々と進めている。
 美貴子はすでに話を聞いているのかもしれない。でも、まだ合格すると決まったわけではないし、一人暮らしをするかどうかはわからない。
 ぐるぐると考えているうちにあかりが歯みがきを終えてやってきた。話を切り出すには絶好のチャンスなのに、言葉が出てこない。
「おやすみ」
 あかりは家具のカタログを回収し、自室に戻っていった。

 夕食と入浴を済ませた慶彦は、本棚から黒いポケットファイルを取り出した。
 ダイニングテーブルに座ってお湯割りにした芋焼酎(いもじょうちゅう)を一口含み、おもむろにファイルを開く。最初のページは十八年前のフリーペーパーの切り抜きだ。「赤ちゃんはいはいレースで成瀬あかりちゃんが優勝」の見出しに、黄色いロンパースを着て四つん這いになったあかりが写っている。あかりは赤ちゃんのくせに涼しい顔をしていて、今と変わらないなと(ほお)が緩む。
 ファイルにはあかりが取り上げられた新聞やフリーペーパーの記事を収めている。ときどき取り出しては酒のつまみに思い出をながめ、懐かしさに(ひた)るのがお気に入りだ。
 次のページはローカル紙「おうみ日報」の記事だ。二歳のときに、大津市の健康フェスタで食育かるたをしている様子が写真に撮られている。
 あかりはすでにひらがなを理解していたのだが、市の職員は絵を見て取り札を取っていると思ったようで、「こんなに小さい子でも遊べます!」とアピールしていた。慶彦が見る限りピーマンとかぼちゃの区別もつかないような絵だったし、あかりが文字を頼りに取っているのは明らかだった。
「二十五日と二十六日、雪だって」
 ソファでスマホを見ていた美貴子が声を上げた。
「よっぽどのことがない限り京阪(けいはん)は止まらないから、大丈夫じゃないかな」
 二月二十五日と二十六日は京大の二次試験で、二日とも慶彦が付き添うことになっている。あかりは「一人でも問題ない」と言い、美貴子も「近くだし、一人で行けるでしょ」と同調していたが、慶彦はなにかあってからでは遅いと主張し、付き添うことにしたのだ。
 京大まではJRルートと京阪ルートがあるが、あかりは事前に両方のルートを試したうえで、京阪のほうが気に入ったと話していた。
「まぁ、二週間予報だからまだわかんないけどね」
 美貴子は立ち上がって伸びをすると、「お風呂入ってくる」と部屋を出ていった。あの様子だと、まだあかりが一人暮らしを望んでいることを知らないのだろうか。あるいは慶彦と違い、すでに現実を受け入れている可能性もある。
 慶彦はファイルのページをめくり、「全国こども絵画コンクールで大津市の成瀬あかりちゃんが入選」の記事に目を落とした。

 予報通り二月二十五日は雪だった。幸い、交通機関の(みだ)れはないらしい。
「大丈夫? 忘れ物ない?」
 滅多なことではあかりに口を出さない美貴子も、さすがに心配そうな様子を見せる。
「万が一忘れ物があったとしても、試験官に申し出ればなんとかなるから大丈夫だ。お弁当もちゃんと持った」
 あかりは高校の制服にダッフルコートを着て、いつも使っている黒いリュックを背負っている。普段の登校風景と変わりない。
「よろしくね」
 美貴子に言われて「おう」と応えたものの、慶彦のほうが緊張している。ミッションは無事に娘を送り届けること。簡単そうでいて責任重大だ。

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 電車が遅れても九時の集合時間に間に合うようにと、七時に家を出た。昨夜から降り続いた雪はうっすら積もっていて、受験生の前ですべるわけにはいかないと神経をとがらせる。赤い傘を差したあかりは足元を見ずにずんずん歩いており、転ばないか心配だ。
 受験生で混雑しているかと思ったが、電車内はそれほど混んでいなかった。参考書を開いている学生もいれば、スマホを見ている学生、寝ている学生などさまざまだ。
 肝心のあかりは席に座って腕を組み、花道で出番を待つ横綱のごとくどっしりと前を見据えていた。慶彦はあかりの隣に腰掛けて、雪のちらつく車窓を見やる。
 京都に入り、東山(ひがしやま)駅で電車を降りる。東大路通(ひがしおおじどおり)を北上する京都市バスはかなり混雑していた。入試とは関係なく、いつも混んでいる路線である。あかりに危害を加えられないよう、慶彦は周囲に目を光らせた。
 百万遍(ひゃくまんべん)のバス停で、ほかの受験生たちと吐き出されるように下車する。時計を見ると、家を出てからだいたい一時間が()っていた。乗り換えもあるし、バスは混んでいるし、徒歩圏内に一人暮らしするほうがたしかに楽だろう。
 それにしても、どの受験生も頭が良さそうに見える。付き添いの保護者もきれいな身なりをしていて、ほぼ普段着でビニール傘の慶彦は心もとなくなる。あかりに目をやると、いつもと変わらぬ涼しい顔で歩を進めていた。
「あかりはこんなときでも緊張しないの?」
 慶彦は緊張しているあかりを見たことがない。幼稚園の音楽会のときだって、ほかの園児は明らかに緊張していて、客席をきょろきょろ見渡す子もいれば、不安げに涙を浮かべる子もいたのに、あかりだけは堂々と歌っていた。みゆきの母が「最後のほう、あかりちゃんの声しか聞こえなかったね」と笑っていたのを覚えている。
「緊張はしていないが、やはりいつもの精神状態とは違うな。どんな問題が出るんだろうとか、早くやりたいなとか、気持ちが(たか)ぶっている」
 ゲートに入るディープインパクトもこんな気持ちだったのだろうか。ほどなくして、試験会場の理学部6号館に着いた。
「それでは、行ってくる」
 こんな余裕綽々(しゃくしゃく)の娘にかけてやるべき言葉はなんだろう。「がんばって」も「落ち着いて」も「大丈夫」もしっくり来ない。
「いってらっしゃい」
 あかりはうなずき、傘を畳んで会場に入っていった。
 大きく息を吐くと、知らず知らずのうちに体に力が入っていたのがわかる。ポケットからスマホを取り出し、美貴子に「無事に送り届けたよ」とメッセージを送った。

 京大の二次試験は二日にわたって行われる。今日は国語と数学で、明日が英語と理科だ。なぜ一日で終わらせないのかと疑問に思ったが、試験時間が長いため、二日とも午後までかかるのだ。
 支店長に相談して、二日間はリモートワークで対応することにした。コロナが(のこ)した数少ないレガシーである。慶彦は保護者向けに開放された学食で、ノートパソコンを開いて業務をこなした。
 数学の試験の終了時刻に合わせて、慶彦は理学部6号館の前に立った。まわりには同じ境遇の保護者たちが立ち並んでいる。みな冷静そうに見えるが、心のなかでは子どもがどんな顔で出てくるか心配しているだろう。
 言うまでもなく入試は一発勝負だ。あれだけ合格間違いなしと言われているあかりでも、今日問題が解けなければ意味がない。受かってほしい気持ちは山々だが、もし不合格なら家を出ていくこともないだろうし、それはそれで悪くない気もしていた。
 終了時刻を過ぎて少しすると、受験生たちがぞろぞろ出てくる。中には大きな荷物を持っている受験生もいて、遠方からの受験は大変だろうなと思う。
 理学部6号館を出たあかりはすぐさま慶彦を見つけ、近寄ってきた。いつもどおりのポーカーフェイスで感情が読めない。
「心配しなくていい。(とどこお)りなくできた」
 あかりの第一声で、心配が顔に出ていたことを知る。慌てて表情を緩め、「それはよかったなぁ」と口にしたら思いのほか大きな声が出てしまい、周囲の保護者がじろっとこっちを見た気がした。
 あかりが時計台を見ていきたいと言うので中央キャンパスに移動すると、芝生の上にテントを立てている男がいた。
「なぜこんなところにテントを立てているのだろうか」
 なんとも思っていなかった慶彦も、あかりが言うのを聞いてたしかに変だと思う。ここは大学構内。しかも雪が降っていて、どう考えてもキャンプには適さない。京大には奇人変人が多いと聞くし、これも一種のパフォーマンスだろうか。
「ここで夜を明かすのか?」
 あかりが男に話しかけているのを見て、慶彦はぎょっとする。こんな得体(えたい)の知れないやつ、関わり合いにならない方がいい。
「そうだよ」
 あかりと向かい合った黒いダウンコートの男はひょろっとした丸メガネで、朝ドラに出てくる帝大生のような風貌(ふうぼう)をしている。
「こんな寒い時期の野宿(のじゅく)は命に関わるからやめたほうがいい」
「泊まるところがないんだ。無責任なこと言わないでよ」
 男は不機嫌そうに答えた。
「もしかして、受験生なのか?」
「そうだけど」
「それならうちに来たらいい」
 あかりが言うと、男と慶彦は「えっ?」と声を揃えた。
「わたしはこれから大津の自宅マンションに帰る。たとえ我が家の廊下でも、屋外のテントで寝るよりは暖かい。父さんも人助けのためなら許可してくれるだろう」
 あかりが慶彦を見上げる。
「いや、でも、素性をもう少し知りたいというか」
 慶彦が本音を漏らすと、あかりも「たしかにそうだな」とうなずく。
「わたしは滋賀県立膳所高校三年の成瀬あかりだ。こちらは父の慶彦」
「僕は高知県から来た(しろ)(やま)(とも)()と言います。京大工学部を受けに来ました」
 城山が提示した受験票には、たしかに城山友樹の名前と顔写真が載っている。あかりは手袋を外して受験票を受け取り、灰色の空に()かして本物かどうか(あらた)めている。
「もともとテントで寝るつもりだったの?」
「はい。三千円で高知から京大入試に行ってみたという企画なんです」
 城山が指さす先には小さな三脚があり、ビデオカメラが固定されていた。雪よけのためか、透明のカバーがついている。
「ええっ、動画撮ってたの?」
「急に話しかけてきたのはそっちでしょう」
 だからこういうやつには関わらないほうがいいのだ。慶彦が頭を抱えている間も、あかりと城山は「どうやってここまで来たんだ」「ヒッチハイクで」などと話している。善意で城山を家に泊めたとて、それがコンテンツとして消費されるのは()(がた)い。
「あまりいい趣味とは言えないが、放っておいて死なれてしまっては寝覚(ねざ)めが悪い」
 しかしながら、あかりの言うこともわかる。
「おっしゃるとおり、おうちの廊下だけでいいので貸していただけると助かります。滋賀に移動することで、()(だか)が増えますし」
 城山が急にペコペコしはじめた。
「あっ、でも、京津(けいしん)線は運賃が高いから三千円超えちゃうかもよ」
 我ながらナイスな断り文句だと思ったのに、城山は「多少オーバーしたとしても、動画的にはおいしいので大丈夫です」と食い下がる。
「いずれにしても、これから京都でホテルを取るのは難しいだろう。とりあえず大津に移動したほうが、選択肢が広がる」
 もっともな言い分だが、別にあかりが連れて行く必要はないんじゃないか。せめてYou-Tuberじゃなければ連れて帰ってやってもいいが、どうにも胡散臭(うさんくさ)い。
「こうして出会ったのもなにかの縁だ。少しでも迷惑なことをされたら追い出すという条件でどうだろう」
 慶彦は思わず「あぁ」と漏らした。あかりはもうこの男を拾う方向に走っている。このまま反対し続けたところで、雪の中で身体が冷えるだけだ。
「わかった。連れていってもいいよ。早くテント片付けて出発しよう」
「了解です!」
 城山は敬礼をして、慌ただしく片付けはじめた。

「へぇ、地下鉄で滋賀まで行けるんですね」
 城山はビデオカメラを回しながら、物珍しげに外を見ている。京都市営地下鉄の東山駅から乗った電車は途中から京阪京津線に乗り入れて(おう)(さか)(やま)を越える登山電車になり、上栄町(かみさかえまち)駅より先は路面電車になる。
 びわ湖浜大(はまおお)()駅で京阪石坂(いしざか)線に乗り換えると、電車はしばらく琵琶湖に沿って走る。
「暗くてよく見えないが、あの向こう側が琵琶湖だ」
「えっ、琵琶湖って京都からこんなに近いの?」
近江(おうみ)っていうぐらいだからな」
 (みやこ)から近い琵琶湖は近江、それに対して都から遠い(はま)名湖(なこ)遠江(とおとうみ)。慶彦も社会の授業で習った記憶がある。
 京阪膳所駅で電車を降りる。さすがに自宅まで撮影されるのは抵抗があるのでカメラを止めるよう伝えると、素直に従ってくれた。
 家のドアを開けると、美貴子が玄関まで出てきた。
「おかえり……どなた?」
 娘を案じていたら知らない男が増えていたなんて、驚くのも無理はない。慶彦は道中(どうちゅう)でLINEを送るべきか迷ったが、文字で上手に伝えられる気がしなくて、何も言わずにここまで連れてきたのだった。
「高知県から来た、受験生の城山友樹と申します。泊まるホテルがなくて、野宿しようと思っていたところをあかりさんに助けていただきました」
「廊下を貸してもらえば寝袋で寝ると言っている」
「でも、お客さんを廊下で寝かすわけには……」
 表情の(とぼ)しい美貴子からも、「なにしてくれてんねん」と慶彦を非難する空気が伝わってくる。なんのための付き添いだと言われたら言い返せない。
「気にしないでください。本当に廊下で大丈夫です。食料も持参していますし、テントで寝るつもりだったので、雪や風をしのげるだけでも十分です。お風呂も気にしないでください。トイレだけ使わせていただけると助かります」
 美貴子は表情を変えずに「まぁいいけど」と戻っていった。

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「廊下の電気も消してもらっていいですよ」
 城山は腰を下ろし、リュックからキャンプ用のランタンを取り出した。
「いや、そんなわけには……」
 慶彦が渋ると、城山は首を横に振った。
「そもそも野宿の予定だったんですから、そこは厳密にするつもりです。僕のことは気にしないで、みなさんは普段どおりの生活をしてください」
 あかりは「それもそうだな」と廊下の照明を切ってリビングに消えていった。
 ランタンの灯りがつくと、城山の表情が見える程度には明るくなる。
「しっかりしたお嬢さんですね」
 慶彦は苦笑する。今まで幾度となく言われてきたフレーズだが、あかりと同じ受験生から言われるとはどういうことか。
「動画って、YouTubeに載せてるの?」
 慶彦はしゃがみこんで城山に尋ねる。
「はい」
 チャンネル名を聞いてスマホで検索すると、登録者数五四一人と出てきた。城山は「トモ」という名で顔出ししている。高知からはるばるヒッチハイクでやってくる行動力からして、もっと有名なYouTuberかと思っていた。ほっとするようながっかりするような、複雑な気持ちだ。
 動画のラインアップは「二次方程式の解き方の裏ワザ」「京大英語は三分でつかめる」などの勉強系と、「地元民だけが知る()(よど)(がわ)の見どころ」「高知龍馬(りょうま)空港から最速で高知駅に行く方法」といった観光系がある。
「へぇ、すごいね」
 たとえ視聴者数は少なくても、継続的に動画をアップロードしているのは称賛に(あたい)する。
「たいしたことないです。大学に入ったらもっと活動を広げていきたいと考えています」
 真剣な顔で言う城山を、慶彦はまぶしく感じた。約三十年前、仲間と酒を飲んだり競馬に行ったりして浪費した大学四年間、もっとほかにできることがあったのではないかと(せん)()きことを思う。
 しかしなぜだろう。あかりだってチャレンジ精神旺盛でいろいろなことに取り組んでいるのに、そんなふうに感じたことはなかった。自分の娘だからこそ、かえって遠く感じているのかもしれない。
「それじゃ、ごゆっくり」
 慶彦は城山に声をかけ、リビングに移動した。美貴子は夕食の支度にかかっていて、あかりはソファで参考書を開いている。二人はもう城山には関せず、普段の生活を送ることにしたらしい。いつもどおりすぎて、逆に心配になる。
 だいたい、下手に慶彦から美貴子に謝ったら、なぜ連れてきたのかと責任を追及されるだろう。城山のような不審人物からあかりを守るのが慶彦のミッションだったはずだ。慶彦は「手伝うよ」と何食わぬ顔でキッチンに入った。
 味噌汁を食卓に運ぼうとすると、インターフォンが鳴った。(ひじ)で応答ボタンを押し、「はーい」と応じる。
「みゆきです。あかりちゃん帰ってますか?」
「うん、いるよ」
 慶彦が呼ぶ前にあかりは立ち上がり、玄関に向かった。ドアの開く音から少しして、みゆきが「そんなことある?」と大笑いする。城山の声も聞こえてきて、三人で話している様子がうかがえる。
「やっぱり、あかりの入試が一筋縄でいくわけないのよ」
 美貴子がごはんをよそいながらため息をついて言う。
「あかりが無事なら何が起こってもいいって覚悟してたけど、知らない子を拾ってくるのは想像してなかった」
「まぁ、そうだな」
 怒られるのは回避できたとほっとしたのも束の間、
「あなたもあなたよ。止めなさいよ」
 としっかり責められた。
「でもきっと、あかりが拾わないといけなかったんでしょうね……」
 美貴子は遠くを見つめて諦めの表情を浮かべた。
 配膳(はいぜん)を終えたところで、あかりがおやつ昆布の袋を持って戻ってきた。
「島崎が差し入れを持ってきてくれた」
 みゆきはすでに東京の私立大学に合格し、進路を決めている。三月一日には高校の卒業式があり、三月下旬には東京に引っ越すという。片付けや手続きで大変だろうなと思っていたが、あかりも京都に引っ越すとなったら他人事ではない。
 夕食のメニューは白米、味噌汁、唐揚げ、ほうれん草のおひたしだった。平日に三人で食卓を囲むのは珍しい。
 それにしても、リビングのドアの向こうにもう一人いると思うとなんとなく落ち着かない。城山にもこっちで食べるよう誘ってみたらどうかと思ったけれど、城山はああ言っていたし、美貴子もあかりも何も言わないし、慶彦から提案するのはためらわれた。

 慶彦がトイレに行くため廊下に出ると、城山は寝袋に入って横になり、ランタンの灯りで英語の単語帳を見ていた。あかりが使っているのと同じ『システム英単語』である。
「そういえば、親御さんはどうしてるの?」
 もっと早くに訊いておくべきだったのに、なぜか今まで忘れていた。息子がヒッチハイクと野宿で入試に挑むと言い出して、すんなり送り出す親がいるだろうか。城山は寝転がったままこちらを見上げ、なんともない調子で「僕が京大を受けること、知らないんです」と答える。
「ええっ? どういうこと?」
「去年、僕が高校を卒業すると同時に一家離散になったというか……。まぁちょっといろいろあって、今は母方の祖父母の家に身を寄せています」
 なるほど、浪人生だったのか。といって納得できるような話じゃない。
「それでもおじいさんとおばあさんが心配するでしょ?」
「祖父母は放任主義で、僕が動画の撮影で三日ぐらい家を空けても気にしません。きのうの夕方『大学受けてくる』って言って家を出たら何も言いませんでした」
 やや特殊な家庭環境のようだが、髪の毛や服装に()(けつ)さはない。身のまわりの面倒はちゃんと見てもらっているのだろう。
「あれ? それじゃきのうはどこに泊まったの?」
「トラックの助手席で少し寝ただけですね」
「間に合わなかったらどうするつもりだったの?」
「さすがにヤバくなったら電車に乗るつもりでした。入試が受けられなかったら元も子もありませんから。でも幸いなことに、ヒッチハイクだけで朝の七時には京大に着きました」
 そんなことが可能なのかと思ってしまうが、ここまで万全(ばんぜん)に設定を考えて嘘をつく理由が見当たらない。
「今夜はよく眠れそうです。あかりさんがいるから寝過ごす不安もないですし」
 あかりがいなければこんな知らない男と話すこともなかった。最初は胡散臭さしかなかったけれど、徐々に打ち解けてしまっている。
「城山、こっちでお茶でも飲まないか」
 あかりがリビングから顔を出した。
「飲み物と食べ物はお金を出して買うルールだからなぁ……」
「サービスエリアにだって無料で飲めるお茶があるだろう」
 あかりが言うと、城山は「それもそうだね」とあっさり寝袋から這い出た。
「わぁ、すごいですね」
 城山がリビングの壁に並んだ賞状を見て声を上げる。
「こんなふうに飾られたら、僕ならプレッシャーかも」
「プレッシャー?」
 あかりは首を(かし)げる。
「もっと賞状を取らないといけないみたいにならない?」
「わたしはそうは思わない。賞状は狙ってもらえるものではないから、もらったら素直に喜ぶようにしている」
 あかりが喜んでいたとは初耳だった。慶彦のファイルには大津市長と並んで賞状を持つあかりの記事が入っている。笑顔を浮かべる市長に対してあかりは無表情で、もう少し笑えないものかと見るたび心配になっていた。でもあれは感情が表に出ていないだけで、ちゃんと喜んでいたらしい。
 ダイニングテーブルには三人分のほうじ茶と、皿に出したおかきと昆布が用意されていた。慶彦の向かいに城山が座り、その隣にあかりが座る。美貴子は「ちょっと見たいテレビがあるから」と本当かどうかわからないことを言って寝室に引っ込んだ。
 城山は「いただきます」と軽く手を合わせてからほうじ茶をすすった。こうした細かいしつけは行き届いているらしい。あかりは「これはお土産(みやげ)()の試食だと思ったらいい」と言って、おかきと昆布をすすめた。
「城山くん、きのうはトラックの助手席で寝たんだって」
「それは大変だったな。眠くないのか」
 あかりが昆布を食べながら尋ねると、城山は「なんとか」と答えておかきをつまむ。
「今日は早く寝るに越したことはない」
 時計を見ると七時半だ。いつもならまだ職場にいる時間である。
「成瀬さんは昔からそういうしゃべり方なの?」
「久しぶりに訊かれたな」
 あかりが口元を緩める。あかりの周囲はこういうものとして受け入れているから、訊かれることもないのだろう。
「小学一年生ぐらいから自然とそうなった」
「へぇ。止めなかったんですか?」
 城山が慶彦に視線を向ける。今振り返れば、一気に今のような話し方になったのではなく、グラデーションのように変化していった気がする。途中でちょっと変わってるなとは思ったのだが、美貴子が気にしていないようだったので、慶彦もそういうものかと受け入れていた。年頃になれば戻るだろうという楽観もあった。いつしか馴染んでしまい、十八歳の今に至るまでそのままなのだ。

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「止めたことはないよ。そのうち直るかなって思ってたんだけど、もう慣れちゃったね」
「成瀬さんのまわりって受け入れ力がすごすぎない? さっき来たお友達もそうだったけど、僕が廊下で寝てることとか、普通もっと驚くでしょ?」
「なるほど、城山はもっと驚いてほしかったのか」
 あかりが発見をしたかのように城山を見る。
「別に驚いてほしかったわけじゃないけど……なんか調子が狂うっていうか」
 城山は頭をかいた。
「お父さんがさっき廊下で僕に親のことを訊いてきましたけど、あれは(しょ)()でしょう。京大でテント立ててるときに、誰か話しかけてくれないかなと、正直ちょっと期待してました。驚いた様子とか、引いた様子とか、そういうリアクションを撮りたかったんです。なのに、あかりさんは表情を変えないまま家についてくるよう言うし、お父さんも親のこととか訊いてくれないし、全然想定通りじゃなかったんです」
 慶彦は思わず笑ってしまった。出会った相手が悪かった。アドマイヤジャパンもディープインパクトと同じ年に生まれた運命を(のろ)ったに違いない。
「しかし城山が動画を投稿しているのは興味深い話だった。わたしはスマホを持っていないせいもあってネット全般に(うと)いからな。大学に入ってから勉強したいと思っている」
「スマホ持ってないの? えっ? 親だって不便じゃないですか?」
 不思議と不便に思ったことはない。かるたの大会で遠征しているときなど様子が気になることもあったが、たとえスマホがあったところであかりが連絡してくるかどうかはわからない。だいたい、小さい頃からずっと持っていないのだから、その状態には慣れている。
「スマホを持たない女子高生とか、めちゃくちゃ面白くない?」
「わたしは面白さのためにスマホを持っていないわけではないのだが」
「だめだ。三千円で京大受けてくるなんて企画、全然面白くない気がしてきた……」
 城山はダイニングテーブルに両肘をついて頭を抱えた。
「いや、面白いかどうかは見た人が決めることだろう。城山が作り出した動画を発表することに意義があるのではないか」
「成瀬さんって悩みとかなさそう」
 城山の青さに慶彦は()(たま)れなくなってきた。ディープインパクトみたいに圧倒的な強さでまわりをねじ伏せてきたあかりだって、人並みに悩むことはある。
「よく言われる」
 余裕たっぷりに返答するあかりを見て、さすがだと思う。
「わたしはこれから入浴して寝る。城山も早く寝るといい」
 あかりは湯呑(ゆの)みを片付け、リビングを出ていった。
「勉強できるように見えないねって言われるのが僕の売りだったんですが、あかりさんを見てるとそんなのどうでもいいなって気持ちにさせられますね」
 夕食が足りなかったのか、城山はボリボリとおかきを食べ続けている。
「たしかに、親でもあかりから学ぶことがよくあるよ」
 城山はポケットからスマホを取り出した。
「明日も雪みたいですね」
「高知は雪降らない?」
「降りませんね。雪のときって、傘差したほうがいいんですか?」
「人それぞれじゃないかな」
 慶彦は視線を上げて、壁に並んだあかりの賞状をながめる。あかりが家を出たら、賞状だけがここに残るのだろうか。そう考えたら胸が苦しくなった。

「お世話になりました」
 出発の準備を整え、大きなリュックを背負った城山は、美貴子に深々と頭を下げた。
「気をつけてね」
 美貴子の口ぶりはそこまで嫌悪(けんお)感を抱いているふうではないが、あまり関わりたくない気持ちが見て取れる。
「あかりも、足元に気をつけて」
「わかった」
 あかりはきのうと同様、学校に行くのと変わらない雰囲気だ。
「それじゃ、行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
 美貴子に送り出され、慶彦はあかりと城山を引き連れてマンションを出た。外は予報どおりの雪だったが、勢いはそれほど強くなく、傘が要らないほどだ。降り積もった雪は踏み固められ、きのうよりもすべりやすくなっている。
「わーすごい、ふたりとも歩き慣れてますね。すべりそうで怖いです」
 城山がおぼつかない足取りでついてくる。大津は年に一度か二度雪が積もる程度で、慶彦もそこまで慣れているつもりはないが、城山からは慣れているように見えるらしい。
「ゆっくりで大丈夫」
 今日も時間に余裕を見て出ている。
「足の裏全体を使って()(また)で歩くといい。ただ、どれだけ用心しても転ぶときは転ぶから、おしりから転ぶように意識するのが大事だ」
「へぇ、やってみる」
 あかりのアドバイスを、城山は素直に実践してみせる。
「それと、転ぶときには()()をかばったほうがいい。使えなくなったら問題が解けないからな」
「殺し屋みたいなこと言うね」
 幸い電車の遅れはなく、予定通りの電車で東山駅に着いた。地上に出ると、京都も大津と同じぐらい雪が降っている。
「京都は滋賀と寒さの種類が違いますね。こっちのほうが空気がしんとしてる」
「ほう、それは初耳だ」
 城山の言葉に、あかりが興味深そうに食いつく。慶彦がその後ろについて歩き出すと、一行を追い越すために歩道から車道に出た自転車が雪にすべって転倒した。
「危ない!」
 慶彦が思わず声を上げると、なぜか関係のない城山まですべって転んだ。こんなときはどうしたらいいのか。倒れている二人の男を前に、頭が真っ白になって動けない。
「大丈夫か?」
 あかりのほうが反応が早く、車道に倒れた自転車を歩道に引っ張り込んだ。自転車に乗っていた若い男も這いつくばって歩道に避難し、さらなる被害は(まぬか)れた。
「すみません。大丈夫です」
 男は気まずそうな様子で立ち上がり、自転車を押して去っていった。一方の城山も、あかりの手を借りて立ち上がる。
「いてててて」
「歩けないほど痛いか? このあたりはどうだ?」
 あかりが城山の背中や腰を触りながら状況を尋ねている。慶彦は無言で立ち尽くしながら、責任を感じていた。大きな声を出したせいで城山が転んでしまった。しかもとっさに何もできなかった。これじゃただの足手まといだ。
 同時に、あかりはもう一人で大丈夫だと確信する。親元を離れてさらに世界が広がることだろう。寂しいけれど、そういう時期が来たのだ。
「今は痛いけど、少し経てばおさまりそう。右手も動くし」
 城山が黒い手袋に包まれた手をグーパーするのを見て、慶彦は一安心する。唯一自分ができることを考えて、空車のタクシーを停めた。
「これも、ヒッチハイクだと思ってくれていいから」
 城山は「ありがとうございます」と素直に礼を言う。
 ぎゅうぎゅう詰めのバスとは比べ物にならないぐらい、タクシーは快適だった。あっという間に北部キャンパス前に到着し、慶彦はクレジットカードを出して精算した。
「本当にお世話になりました」
 城山が頭を下げるのを見て、胸のあたりがちりっと痛む。受験生をすべらせるなんて、(えん)()が悪すぎる。
「四月にまたここで会おう」
 あかりが言うと、城山は「どうかなぁ」と笑った。
「それでは、僕は向こうなので。ありがとうございました」
 城山は手を振って、横断歩道を渡っていった。
 北部キャンパスの入り口付近では、スタッフジャンパーを着た業者たちがパンフレットを配っている。きのうは足早に通り過ぎたが、今日は慎重に歩かないと危ない。
「受験、頑張ってください!」
 勢いで受け取ってしまった冊子には、でかでかと「京大生のお部屋探し」と書かれている。
「わーっ」
 動揺した慶彦は雪に足を取られてバランスを崩し、尻もちをついた。
「大丈夫か?」
 見下ろすあかりの顔を見て、娘の顔を正面からまじまじ見るのは久しぶりだと気付いた。いつまでも赤ちゃんのような気がしていたが、もはや顔立ちも体格も大人と変わりない。ファイルに収められた思い出のあかりじゃなくて、今のあかりを見るべきだった。

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「うん、大丈夫」
 慶彦が立ち上がると、あかりも安心した表情を見せる。あちこち痛むが、さすがに骨折はしていないだろう。
 理学部6号館まで来ると、あかりは居住(いず)まいを正して慶彦に向き合った。
「今まで、見守ってくれてありがとう」
 まとめに入るのはまだ早いんじゃないかと思うが、慶彦も似たような心境だった。きっとあかりは合格するだろう。そして家を出て、一人暮らしをはじめる。まだしばらく経済的な援助はしていくけれど、いったん手が離れることは間違いない。
「いってらっしゃい」
 慶彦が言うとあかりはうなずき、建物の中に入っていった。

 合格発表を見にいくつもりはなかったが、あかりの受験を最後まで見届けたくなり、休みを取って京大まで行くことにした。美貴子は「ネットで見るからいい」といつもの調子だったが、あかりが「番号を見間違えたら困るから島崎についてきてもらう」と言い出し、三人で向かうことになった。
「成瀬だったら絶対大丈夫だと思うけど、もし番号がなかったらどうする?」
 みゆきがいると空気が明るくなる。城山とは違い、あかりがみゆきに対して心を開いているのがわかる。
「そのときはそのときだ」
「わたしのほうが緊張してきたよ」
 みゆきが両手を重ねて胸に当てる。
 まだまだ寒いが、雪が降っていないだけで心が軽い。城山が転んだ歩道も危なげなく歩ける。バスも入試のときよりは空いていた。
「わたしの行く大学も、家と同じ二十三区内なのに電車と徒歩で五十分ぐらいかかるんだよ。成瀬と変わらないね」
 みゆきもあかりが実家から通うと思っているようだ。あかりがどんな返答をするかドキドキしながら耳を傾けていたが、「そうか」と軽く応じるだけだった。
 親友にもまだ明かさないということは、合格が確定するまで発表を控えているのだろう。慶彦は時限爆弾を抱えているような気持ちになる。
 理学部6号館の前にはすでにたくさんの受験生と保護者が集まっていて、発表時刻の正午を待ちわびている。
「わー、テレビで見たことある!」
 みゆきは何も貼っていない掲示板をスマホで撮影した。
「番号が発表されてから撮ったほうがいいのではないか」
「貼ってない状態の方がレアじゃん」
 慶彦もそんな気がしてきて、自分のスマホで掲示板を撮る。
「そうそう、この前言ってた城山くんの動画、上がってたよ」
「あっ、忘れてた」
 慶彦がスマホで城山のチャンネルを表示すると、「三千円で京大入試に行ってみた」という一時間の動画がアップされていた。再生回数は二百二十回と表示されている。 動画は高知を出てヒッチハイクで京大まで行くところからはじまる。最も気になる箇所まで飛ばしてみると、テントを立てている城山に対し、親子が話しかけるシーンが出てきた。あかりと慶彦の全身にはモザイクがかかり、声はボイスチェンジャーで変えられ、言った内容が字幕で表示されている。
 その後、京津線で大津に向かう様子が映し出される。京阪膳所駅の映像にかぶせて「Nさん宅で一泊させてもらいました」のテロップが表示され、次の場面はすでに二日目の京大構内だった。
 動画の終盤ではヒッチハイクで高知にたどり着き、予算オーバーしつつも無事に行程を終えたことがまとめられている。プライバシーに配慮されていて安心する一方、もうちょっと出てみたかった気もする。
「あっ、出てきたよ」
 みゆきの声に顔を上げると、丸めた模造紙を持った職員が歩いてくるところだった。ざわざわしていた群衆も、すっかり静まり返っている。
 あかりの受験番号は108番。慶彦は煩悩(ぼんのう)の数としか思わなかったが、あかりは「1¹×2²×3³だ」とうれしそうだった。
 掲示板に合格者の番号が貼り出された瞬間、一斉に歓声が上がる。そんなすぐに番号が見つかるものかと思っていたが、108の数字のほうから目に飛び込んできた。
「やったー!」
 慶彦は反射的に叫んでいた。
「よかったね、よかったね」
 みゆきは手を叩きながら飛び跳ねて喜びを表現している。あかりは鼻の下に手をやって、「やっぱりうれしいものだな」と笑った。
「ちゃんと写真撮っておこうよ」
 掲示板の前では合格者たちが代わる代わる記念撮影をしている。タイミングを見計らい、あかりも掲示板の前に立った。
「お父さんも入りますか?」
「ごめんね、お願いしてもいい?」
 慶彦はみゆきにスマホを渡し、あかりと108の数字を挟んで並んだ。
「はい、チーズ」
 みゆきに礼を言ってスマホを確認すると、普段どおりナチュラルな無表情のあかりと、緊張で無表情になった慶彦が写っていた。あかりは母親似だと思っていたけれど、こうして見ると自分ともなんとなく似ている。見た目は無表情でも、心のなかではちゃんと喜んでいる。
 今度は慶彦があかりとみゆきの写真を撮っていると、「成瀬さーん」と呼ぶ声がした。
「おう、城山じゃないか」
 城山が明るい表情で近寄ってくる。
「受かったよ」
「えーっ? 城山くんってほんとに頭よかったんだ」
 みゆきの()(たん)のなさすぎる意見は慶彦も同意するところだった。
「よかったね、おめでとう」
「先日はありがとうございました」
 城山は慶彦に向かって礼儀正しく頭を下げる。
「今日もヒッチハイクで来たのか」
「いや、さすがに()りたから高速バスで。合格発表の瞬間が撮れたから、これも動画にするよ。Nさんも合格してましたって書いてもいい?」
「構わない」
 こうして許可を取るあたり、ずいぶん行儀の良いYouTuberだ。それゆえチャンネル登録者数は伸び悩むかもしれないが、どうかそのままでいてほしいと願ってしまう。
「これから住む部屋を探さないといけないから、行ってくるよ」
 ついにこの時がきた。去っていく城山を見送りながら、慶彦は心の準備を整える。
「さぁ、あかりの部屋も探さないとな」
 切り出される前に、(つと)めて明るく言った。あかりだって、もしかしたら言い出しにくかったのかもしれない。合格を確認して、晴れて部屋探しができる。
「どういうことだ?」
 あかりもみゆきもぽかんとした表情で慶彦を見つめている。
「パソコンに検索履歴が残っているのをたまたま見たんだ。あかりは一人暮らしをしたいんだろう? 家具のカタログも見てたし」
 あかりは「あぁ」と思い当たった顔をする。
「あれはわたしじゃない。広島に住んでいる友達が京都の大学を受験して一人暮らしをするというので、部屋探しや家具選びをアドバイスできるよう調べていたんだ」
 慶彦は(あん)()のあまり、(ひざ)から崩れ落ちた。すべては自分の早とちりだった。まだしばらくはあかりが家にいてくれると思うと、合格の喜びが改めて湧いてくる。
「わたしはまだ大津市民としてやりたいことがあるんだ。一通り済んだら、どこかで一人暮らしするのもいいな」
「そうだね、成瀬にはまだ大津にいてもらわないと」
 慶彦は立ち上がって膝を払う。次々とやりたいことを見つけるあかりに、大津でやりたいことを一通り済ませる日はくるのだろうか。実家に住み続けてくれるなら、慶彦としては願ったり叶ったりだ。
「おめでとうございます! (どう)()げしましょうか?」
 アメフト部のユニフォームを着た、体格の良い男たちがやってきた。胴上げされる合格者の映像を見たことがあったので、あかりのところにも来たかとテンションが上がる。
「気持ちはありがたいが、万が一の事故が心配なので遠慮しておく」
 そうだった、あかりはいつだって安全第一だ。
「代わりにお父さんが胴上げしてもらったらどうです?」
 みゆきが提案すると、アメフト部員たちの視線が慶彦に集まる。
「お父さん、おめでとうございます! 胴上げいかがですか?」
 まぁ、これも記念だ。腹をくくった慶彦が「お願いします」と同意すると、男たちの手であっという間に持ち上げられた。
「お嬢さんの合格をお祝いして!」
「わっしょい! わっしょい!」
 生まれて初めての胴上げは怖いというよりわけがわからなかった。アメフト部員たちの頭上でバウンドさせられていると、みゆきが大笑いしている声が耳に届く。あかりもきっとその隣で笑っているだろう。慶彦は青い空に向かって、両手をいっぱいに伸ばした。

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