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プロローグ その暗黒郷を“状況”と呼ぶ

 中国西部の新疆ウイグル自治区では、人々は自分たちの暗黒郷ディストピアを“状況”[ウイグル語の weziyet]と呼ぶ。
 2017年以降、推定180万人のウイグル人、カザフ人、そのほかの主としてイスラム系少数民族の人々が、「思想ウイルス」や「テロリスト思考」をもっていると中国政府から糾弾され、地域全体にある何百もの強制収容所に連行された。収容所の多くは高校などの建物が再利用されたもので、そのような一般的な建物が拷問、洗脳、教化のための拘留施設に変わった。それは第2次世界大戦中のホロコースト以来、史上最大規模の少数民族の強制収容だった。
 たとえ収容所送りを免れたとしても、新疆での日々の生活は地獄だ。あなたがウイグル人の女性なら、政府から派遣されてきた見知らぬ人物の隣で毎朝目覚めることになるかもしれない。その男性は、収容所に連行されたあなたのパートナーの代わりを務める人物だ。毎朝の出勤まえにこの監視員は、忠誠心、イデオロギーの純粋さ、共産党との友好関係という国家の美徳をあなたの家族に教え込む。監視員はさまざまな質問を投げかけてあなたの“成長”をチェックし、政府が呼ぶところの「心のウイルス」や「3つの悪」(テロリズム、分離主義、過激主義)に“感染”していないかをたしかめる。

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収容所送りを免れても

 朝の教化活動が終わると、こんどはドアをノックする音が聞こえてくる。近隣の10軒の家に眼を光らせるよう国から任命された地域自警団の役員が、「不規則なこと」がないかあなたの家をチェックする。3人以上の子どもはいないか? 宗教関連の本を所有していないか? 自警団の女性役員は、昨日あなたが仕事に遅刻した理由を尋ねるかもしれない。
 彼女はきっとこう言う。「近所の人からあなたについて通報があったんですよ」
 目覚まし時計をかけ忘れたという犯罪のために、あなたは地元の警察署に出頭して取り調べを受け、「不規則なこと」について説明する羽目になる。
 日課の検査を終えた地域自警団の役員は、あなたの自宅のドアに取りつけられた機器にカードをスキャンする。それは、彼女が検査を終えたことを意味する。
 出勤のまえに車でガソリンスタンドに寄っても、夕食の食材を買いに食料品店に行っても、どの場所でもあなたは、入口に立つ武装警備員のまえでIDカードをスキャンすることになる。カードをかざすと、スキャナー横の画面に「信用できる」という文字が表示される。それは政府によって善良な市民だと判断されたという意味であり、そのまま入店することが許される。
「信用できない」と表示された場合、その人物は入店を拒否される。すぐに統計データ記録の簡易チェックが行なわれ、場合によってはさらなる問題に直面することになる。たとえば顔認証カメラが、その男性がモスクで祈りを捧げている姿をとらえているかもしれない。あるいは、ビールの6缶パックを買う姿がカメラに記録されており、アルコールに関する問題がある人物だと人工知能(AI)が疑っているのかもしれない。なぜ「信用できない」と表示されたのか、はっきりとした理由はわからない。しかし、当たり障りのない些細な問題によって国が信用ランクを下げることもある、と誰もが知っている。
 つぎに警察官がやってきて、「信用できない」男性を尋問する。警官たちは「一体化統合作戦プラットフォーム(IJOP)」と呼ばれるプログラムを使い、スマートフォン上で男性の身元を確認する。IJOPのデータベースには、何百万台ものカメラ、裁判記録、市民の内通者などから政府が集めたマスデータが構築されており、それらすべてのデータがAIによって処理される。
「予測的取り締まりプログラム」にもとづいてAIは、その男性が将来的になんらかの罪を犯すと判定し、強制収容所に送るべきだと勧告する。警察官たちは同意し、男性をパトカーで連行する。男性は「再教育」の期間を終えてどこかの時点で戻ってくるかもしれないし、あるいは二度と戻ってこないかもしれない。
 少数民族専用のレジの列に並んだあと、あなたは食料品の代金を支払う。政府の監視カメラとメッセージング・アプリ「微信(WeChat)」によって、あなたの購入履歴はつねに監視されている。食料品店を出て車で職場に向かう道中、あなたは10カ所以上の「コンビニ交番(便民けいたん」と呼ばれる検問所を通過することになる。誰にとって便利なのかは謎だ。うち2カ所の検問所で警察官があなたを制止し、身分証明書の提示を求め、どこに向かっているのか尋ねてくる。答えに満足すると、警察官はあなたを解放する。しかしそれも、あなたが「信用できる」場合だけだ。
 職場では、同僚たちがあなたの一挙手一投足を見つめている。始業まえに全員が立ち上がって国歌を斉唱し、テロリストを見つけだす方法を説明する短いプロパガンダ映像を見る。「テロリストはタバコと酒をやめる傾向があり、突如としてそのような行動に出ます」というナレーションが聞こえてきても、けっして笑ってはいけない。なぜなら同僚の誰かが政府からの報酬や高い信用度を狙い、そのような無礼な行為を通報するかもしれないからだ。映像が終わるまで黙っているのが身のためだ。
 あなたが女性の場合、毎日正午、政府が提供する経口避妊薬を飲むことを求められる。それでも、あなたはまだ幸せなほうだ。政府は女性の同僚たちをたびたび地元の診療所に呼びだし、強制的に不妊手術を受けさせている。少子化が発展につながると政府は主張し、少数民族の出生率を下げようと試みているのだ。
 仕事が終わって車に乗ると、道中また10カ所以上の検問所を通過し、自宅のある地区の入口ゲートでIDカードをスキャンする。そこは、IDカードをスキャンせずに出入りすることが許されていない、フェンスやコンクリート塀に囲まれた隔離地区ゲットーだ。自宅では子どもたちが、学校でその日に学んだ愛国心と協調という党の美徳について話をする。子どもたちが学んだことを否定してはいけない。反対意見を言う親がいる場合は報告しろ、と教師が生徒に教え込んでいるからだ。
 夕食のあと夜のニュースを見おわると、居間の隅に設置された政府の監視カメラのまえで、政府の監視員とともにベッドに横になる。なんとか眠りにつけますように、とあなたは願う。彼にはベッドのなかであらゆることをする権限がある、とあなたはふと思いだす。なんといっても、その監視員は政府から派遣されているのだ。誘いを断われば、嘘の主張をでっち上げられて通報され、あなたは強制収容所送りになるかもしれない。
 運のいいことに、今夜は何も起きなかった。しかし、その幸運がいつまで続くかなどわからない。あなたは眠りにつき、翌朝また同じことを繰り返す。これが、新疆ウイグル自治区で生活するウイグル族、カザフ族、そのほかの少数民族の住民の1日だ。

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同時多発テロが「好機」に

 本書のなかで私は、新疆ウイグル自治区が世界でもっとも高度な監視ディストピア社会に変貌を遂げた物語について説明する。“状況”はどのように生まれたのか? AI、顔認証、監視などの技術における前例のない進歩を受け容れたとき、それは私たちの未来にとって何を意味するのか?
 2001年9月、ニューヨーク世界貿易センターのツインタワーが崩壊した。世界がそれまでに経験したなかでも、もっとも目立つテロ行為だった。1万キロ以上離れた北京の中国政府は、それを独裁支配を強めるための好機とみなした。1カ月後、中国は独自の対テロ戦争をはじめた。おもなターゲットとなったのが、新疆に住むイスラム系ウイグル人で構成される過激派集団だった。
 ところが石油による富と建設ブームのおかげで、2001年から2009年にかけて新疆ウイグル自治区はある程度の平和と繁栄を謳歌した。しかし中国は、繁栄の成果を公平に分配しようとはしなかった。歴史的にこの土地に住みつづけてきた新疆の少数民族よりも、富と機会を求めて東部からやってきた漢族の大集団のほうが優遇された。
 10年近くにわたって不満が鬱積したあと、2009年7月、ウイグル人の暴徒たちは新疆ウイグル自治区の首府ウルムチで街頭デモを行なった。政府は対抗措置としてインターネットと通信回線を遮断し、無数のウイグル族の若い男性たちを拘束した。その一部は、分離主義にもとづく暴力的な陰謀を扇動したとして処刑された。
 2009年から2014年にかけて、迫害を受けた何千人ものイスラム系ウイグル人男性たちがアフガニスタンとシリアに渡り、イスラム国(ISIS)の関連集団による訓練・戦闘に参加した。いつか中国に戻って政府にたいして聖戦ジハードをしかける、それが彼らの望みだった。これらの新しいテロリストたちがやがて中国国内で一連の活動をはじめ、銃撃戦、暗殺、にんじょう、飛行機ハイジャック未遂などを起こした。
 2014年から2016年のあいだに中国は、テロ対策の戦術をかつてない水準の残虐なものへと上昇させていった。解決策として利用されたのは、むかしながらの高圧的な取り締まりと「コミュニティー型警察活動」の取り組みだった。後者は簡単にいえば、家庭、学校、職場で密告者を募るという作戦だ。しかしテロの脅威を完全に潰すためには、それでも充分ではないと政府は感じていた。
 2016年8月、ちんせんこくという実力者が新疆ウイグル自治区の共産党委員会書記に就任し、地域の最高指導者になった。彼は新しいテクノロジーを活用し、住民への監視と支配を強めていった。たとえば、マスデータ(大規模データ)を使った「予測的取り締まりプログラム」の導入によって、罪を犯しそうだとAIが予測した容疑者を拘束できるようになった。陳の指示によって何百もの強制収容所が開設された。これらの収容所は正式には「拘留センター」「職業訓練センター」「再教育センター」などと名づけられた。この地域に住む1100万人のウイグル人のうち、それらの施設に収容された人数は2017年までに150万人に膨れ上がった。
 中国が目指したのは、ひとつの民族のアイデンティティー、文化、歴史を消し去り、何百万人もの人々を完全に同化させることだった。
「畑の作物のあいだに隠れて生える雑草を1本ずつ抜き、根こそぎにすることはできません。すべてを駆除するためには、農薬をく必要があります」と2018年1月にある当局者は言った。「これらの人々を再教育するのは、畑に農薬を撒くようなものです」
 こうして、中国は完璧な警察国家を作り上げた。

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