新潮社

大使とその妻水村美苗

[第一回 2/3]

 大きなスーツケースを一つ送り出すと、マスクをした人がところどころに坐っているだけの、不気味に空いた新幹線に乗った。軽井沢駅に着けば、幸いきちんとタクシーが列を作って待っており、私は例年通りまずはツルヤに乗りつけた。日本では地方にしか見られない大型スーパーマーケットで、春から秋にかけては別荘客相手の高価な食品が豊富に揃い、輸入品のチーズもまるでチーズ専門店のように並ぶ。意外にも、金のありそうな都会風の人たちがいつもの夏と変わらず溢れていた。それを見て、彼らは疫病を恐れて列車を避け、車で移動していたのに初めて気づいた。私は二週間分ほどの買物をし、最後に冷凍食品に手を伸ばす前に、これもまた例年通りに松葉タクシーに電話をした。電話番の人は、私だとわかると、もし運転手の荻原さんが来られるようだったら、指定の時間に彼を寄越してくれる。その日もそうであった。
 荻原さんは口数の少ない表情の乏しい人である。日本人のなかでもことに表情が乏しいのだから、ほとんど表情がないに等しい。もっとも今年は白いマスクをしているので、八の字に垂れた小さい眼が見えるだけで、表情が乏しいのさえわからない。二十年ほどのつきあいで、やはりマスクをした私の顔を認めると、キャップを少しもちあげて、やあ、と挨拶をし、それから車の外に出て食料品で膨れたいくつもの袋をショッピングカートからトランクに移すのを黙々と手伝ってくれた。彼が口を利いたのは、運転し始めてからである。
「今年はちょっと遅かったからね、アメリカにでも帰って、とんでもねえことになっちゃったかと思ってた。それにしても、なぜあんなひでえことになっちゃったんだろう」
 ニューヨークほど悲惨ではなかったが、私が生まれ育ったシカゴもだいぶ広まっていた。
「いやあ、もう当分帰れませんよ」
 不遜な笑みを浮かべた大統領の顔を忌々しく思い浮かべながら応えた。
「そうだなあ、もう、とうぶん日本にいるしかねえなあ。このあたりはことに安全だしな」
 荻原さんいわく、ようやく東京から人が来るようになったが、山での遅い春の訪れを楽しもうといつもは大勢の人が集まる四月末からのゴールデンウィークは、外出自粛期間中だったせいで、ほとんど誰も来なかったと言う。
「今でも地元の人間はね、東京から人が来んのを嫌がるんだよ。そのおかげでオレら運転手も嫌がられてる。ヨソからの人間を乗っけてるってんでね」
 駅から乗ったタクシーもそうだったが、荻原さんの運転しているタクシーも運転席と客席とがビニール・シートで区切られていた。
 荻原さんはバイパスから国道十八号線に出たところで訊いた。
「また、浅野屋に寄るかい?」
 バックミラーで私の眼を捉えている。
「浅野屋」は「本格的なヨーロッパスタイル」のパンを売っているのが宣伝文句のパン屋で、東京でも色々な場所に出店していた。
「ええ、お願いします」
 軽井沢の西のはずれにある追分と呼ばれるところに私の小屋はある。浅野屋を出てからさらに国道十八号線をまっすぐ行き、北に聳え立つ標高二五六八メートルの浅間山が右手に見えるようになったあとに、左へと曲がって南下する。急に道が細くなり、左右両側が雑木林となり、ひんやりとする。しかも浅間山の裾を下っていくのでゆるやかな下り坂になっているが、それが土に砂利が混じった、ひどくでこぼこした車泣かせの道なのである。その日も最近豪雨が降ったのか、いつもよりもでこぼこしており、ふだんから慎重な荻原さんはさらに慎重に下へ下へと降りていった。下に降りてゆくにつれて山荘もまばらになり、やがて雑木林だけが続く。
 すると、あの夫婦の山荘が左手に見えてくるのであった。
「あそこの夫婦は消えちゃったね。知ってたかい?」
 荻原さんは親しくなる以前も丁寧語というのを使ったことがない。それに引き替え私は丁寧語以外の日本語で会話をするのが苦手なので、いつまでたっても丁寧語で話す。二人の会話は自分で聞いていても妙である。
「ええ。去年の暮れ、外国から郵便が届きました」
「すっと、なんだね、戻っちゃったのかね」
「ええ、まあ、そういうことのようです」
「やっぱり、ああいう人たちは、もう外国の方がいいのかねえ」
「さあ」
 平気な声で続けるのに困難を覚えた私は短く応えた。
 車が近づけば、いったいいつ草刈りが入ったのか、山荘の庭にはすでにうっそうと雑草が生え、自然が勢いを盛り返しているのが見える。
「また淋しくなっちまうね」
「ええ」
「どうしてっかねえ、こんな世の中になっちゃって」
「ええ」
 若いころ相撲取りになるために十代で東京に行き、諦めて戻ってきたという荻原さんだが、大柄な身体からは想像できない繊細な心をしている。私が夫婦について話したがらないのを感じとったらしくそれ以上何も言わなかった。彼らの山荘のすぐ先にごく細い小川があり、「行き止まり。この先に谷あり、危険」という看板が立っている。その小川にかかった小さな橋を渡ったところに私の小屋があった。
「じゃ、また」
 荻原さんはたくさんの袋を小屋に入れるのを手伝ってくれたあと、再びキャップに手を掛けた。
 食料品を急いで冷蔵庫に放りこんだあと、私はすぐに橋を引き返して彼らの山荘を見に行った。人が住んでいないと思うせいか、どこもかも雨戸が閉まった山荘にはすでに死の影が忍び寄り始めているような気がする。このあたりでは持主が十年ぐらい使っていない山荘は少なくなく、するといつのまにかその山荘はうっすらと苔が生え始め、年ごとに死者のような様子を帯びていくのである。
 テラスの端に腰かけてみれば、庭に植わっていた夏の花は雑草に負けずにまだ勢いよく咲いており、なかでもきすげの群は健気に首を伸ばすようにして昼を惜しんで咲き誇っている。太陽の光を集めて思い切り黄色く咲く花は、一日で萎れてしまう花でもある。英語では「daylilies」。今の日本人は「きすげ」という昔ながらの名を捨て、どういうわけか、「ヘメロカリス」とむずかしい名で呼ぶ。
「『きすげ』のほうがきれいなのに……。『ぜんてい』とも呼ぶんですって。禅の『禅』。お庭の『庭』。そして『花』。漢字は面白いわね」
 そう彼女は言った。
 ヨーロッパ、ニューヨーク、南アメリカという夫婦の旅程は、結果的には、ウイルスに追いかけられるのか、ウイルスを追いかけているのかわからないような旅程であった。
 無事だろうか。
 彼女が人工呼吸器につながれた図が浮かんだが、私はそれをすぐに頭から追いやった。日本で一番感染者が多かったこの春でさえ、一日に三十人の死者を出すか出さないかで、同じ時期のアメリカの何十分の一でしかなかった。幻想かも知れないが、世界の感染状況を日々追っていた私には、東アジア人は何らかの形ですでに免疫をもっているように見えた。
 それから今まで、幾度も同じようにテラスの端に坐り、夏草が茂る庭を眺めたり月を眺めたりした。
 私の仕事は仕事と言っていいかどうかわからないが、オンラインでの作業が中心なので、作業していると疫病が流行っていることをつい忘れてしまった。あたりに人が少ないので、朝夕の散歩をするときも同じであった。雑木林を歩いていると、一日に一度ぐらいは犬をつれた人に会うことがあったが、その人がマスクをかけているのに気づくと、しまったと思う。それが何度か続いたあと、ようやくポケットにマスクを入れて小屋を出る習慣がついた。軽井沢がある長野県は人口も少なく、八月の末まで死亡者が一人も出ていなかったというのに、人々は神経を尖らせ、県内で感染者が発見されると、軽井沢の町役場の車がマイクを通してみなに発生場所を教えるために巡回した。その声を聞くと、この夏が世界中の人間にとって異様な夏——南半球の人にとっては異様な冬——であるのを改めて思い出した。私はふだんは自分のことを、人づきあいは悪くとも、心ない人間だとは思わない。疫病が流行り始めてからは何ヶ所か選んでそれなりの額の寄付もした。それでいて、この夏、世界で人々が苦しんでいるのはしばしば忘れていながら、この夏が、自分にとって特別な夏、大人になってからは覚えがないほどの深い孤独と強制的に向き合わされた特別な夏であるのは、一時も忘れることはできなかった。うわべはいつもとそう変わらない生活を送りながら、心のなかでは夫婦と出会ってからのこと——いや、あの山荘で増築が始まってからのことを、ふと気がつけば考えていた。胸に広がる喪失感は強くなることはあっても弱くなることはなかった。
 東京にはいつもは九月の半ばになる前に戻る。
 今年は九月の末になっても戻る気がしなかった。そのうちに十月の満月の晩がきた。ああ、また満月になったと、私は、小屋の電気を消すと、懐中電灯を頼りに裏庭にまわり、ズボンの裾を夜露に濡らしながら小川に至った。そして、小川にかけた板の橋を用心して渡り——細い小川は浅かったが、流れは意外に速かった——向こうの庭の藪を掻き分け、テラスの階段を昇って腰をかけてから懐中電灯を消した。今年、追分に着くとじきに八月の満月の晩があり、そのときも、ふと思い立って、こうしてわざと裏から忍ぶようにしてこのテラスに辿りついたのである。九月の満月の晩もそれを思い出して同じようにした。月の光に煌々と照らし出されたあの不動の白い姿を偲んでのことで、それ以来、満月の晩、裏から山荘に向かうのは欠かせない儀式のような気がしていたのかもしれない。十月ともなると夏は低かった月がだいぶ高く梢の上に昇っているのが見える。更けにけり山の端ちかく月さえて……。時が止まり、人工的な光が一切届かない鬱蒼とした林の向こうに丸い月がさえざえと輝き、私一人ここに残されたという事実を容赦なく照らし出した。
 中秋の名月か……。
 当分追分に残ろうと心を決めたのはそのときであった。