新潮社

大使とその妻水村美苗

[第三回 2/3]

 この一世紀半、大砲を積んだ西洋の軍艦に震え上がって以来、なんとか西洋と互角になろうとしてきた日本人である。もちろんそのあいだ、自国の文化を見直そうという動きは幾度もあったが、結局は着物を着て畳に座り蒲団で寝起きするという昔ながらの生活はうち捨てられていった。ところが、である。どうやら近年ようやくごくふつうの人のあいだでも自国の文化を見直そうという動きが広まってきた。若者が行くような小洒落た西洋料理のレストランに入ってもナイフ・フォークと共にごく自然に箸が置いてあったりする。そして、その「遅ればせながらの目覚め」の動きは、西洋人自身が、西洋文明が唯一無二のものではないと思うようになったのと、連動していた。昔、大学院で、十九世紀末に日本文学史を出版したイギリス人が、日本人のように卓越した理解力をもった人たちはキリスト教がいかに比類のない格別優れた宗教であるかをじきに理解するだろうと結論づけていたのを読み、当時の西洋人の僭越に一人赤面したと同時に、百年も経たないあいだにいかに西洋人の頭の中身が変わったかに、感慨を覚えた。それにつられるようにして日本人の頭の中身も変わってきていた。事実、ハルニレテラスを作ったのも、もとは西洋風のホテルばかりを建てていたのを、西洋人の逗留客から不思議がられて日本に「目覚め」たという日本人である。そのうちに日本建築をどこかで意識したような建物が日本中に建ち始めた。私は「遅ればせながらの目覚め」でも「目覚め」がないよりはよほどましだと思い、その動きがこの先どういうものを日本にもたらすかには興味があったが、それでいながら、その「目覚め」を意識させられるたびに、すでに失われてしまったものを惜しむ思いが胸に迫った。モダン和風の建物も、昔の技術をもつ大工が建てるわけではないので、細部の面白みがない。設計図さえあれば世界中どこにでも建てられる、基本的にはグローバルな建物なのである。
 あさきゆめみじ……。
 私はあまり期待しないよう自分をいましめた。日本の現実から何かを期待し、その期待が自分が気の毒になるほど必ず裏切られるうちに、期待が裏切られる前から、この「あさきゆめみじ」という言葉を口にして自分をいましめるようになっていたのである。だが、その晩は、また眼を開いて天井を見つめながら、すぐにこういう風に悪い方向へと考えをもっていく自分を逆にいましめ、もう一度自分の幸福を反芻してから寝た。「蓬生の宿」の隣には平屋の一応和風の建物が建つ。それだけで満足すべきであった。
 次の朝も建築現場に向かえば、京都からポルシェに乗ってきた男の姿が再びあった。また図面を広げている。私が首で挨拶をすると今度は彼のほうから大声で話しかけた。
「おはようございます」
 私が挨拶を返すと彼は続けて尋ねた。
「アメリカの方ですか?」
 私はうなずいた。
「日本には長くておられるんですかぁ?」
「ええ、二十五年ぐらいになります」
「ひゃあ、それは長い。そやから日本語をそんなにお上手に話しはるんですね」
 数え切れないほど言われてきたことなので、ええ、としか応えず、逆に彼に質問した。
「京都から現場を見に来たということですね」
「まあ。そんなもんです。職人も二人ほど連れてきてます」
 男はそう言ったあと図面を畳んで右手にもつと、現場を離れて私のそばにやってきて、なぜわざわざ京都からやってきたかを説明し始めた。彼の口調はどこか得意げだったが、苦労知らずに育ったらしいという印象を再び受けただけで、感じは悪くなかった。なんと彼の家は十七世紀から連綿と続いている京都の宮大工だという。今は数寄屋がだんだんと主になり、新しいものを建てながら、桂離宮などの歴史的建造物の修復も手がけているそうである。本来ならばこんな遠くの個人の山荘などは手がけないのだが、「クライアントの奥さん」がもともと京都の人で、自分の曾祖父の代から「奥さん」の生家である由緒ある町家の維持管理を引き受けていた縁で、ここを増築する話が出たとき、自然に引き受けることになったのだという。残念ながら「奥さん」のその町家はつい最近壊され、分譲マンションになってしまったが、彼の家が貴重な建材や庭石を預かっていたので、使えるものは使うことにもなっているそうである。
 私は、へええ、とか、ほう、とか、短い感嘆詞をもらしながら聞いていた。ふつう感嘆詞をもらすときは、そう興味をもてないのを悟られないよう少し大袈裟にするのだが、その必要はなかった。逆にあまり興味をもっているのを悟られないよう努力せねばならなかった。由緒ある町家が「壊された」という言葉にはいつもの絶望と忌ま忌ましさとが胸の中を駆けめぐったが、ここで建材や庭石が少しでも再利用されれば、粗大ゴミとなって消えてしまうよりはましであった。
 彼は続けた。
「僕がくるほどのことはないんですけど、一度は顔を出しておかないと義理が悪いって親父が言いまして……。もう八十越してるから親父はよう来られへんのです。なにしろね、やっぱりこの辺の工務店にはちょっと任せられないんです。家も庭も。車で通り過ぎただけでこんなことゆうたらなんですけど、なんや、立派な瓦を使ってても、ごてごてしてて、すっきりしませんやろ」
「わかります」
「設備のほうは地元の人に入ってもらうんですけど」
 夏は湿気がひどく、冬は摂氏マイナス九度ぐらいまで下がるというこの土地に建つ建物の設備は、京都の業者には手に負えないであろう。
 私は言った。
「実は私自身、昔、何年も京都に住んでいたんです」
 その京都が哀しくなって東京に居を移したとは言わなかった。
「あ、ほんまですか?」
「ほんまです」
 私が都言葉で返すと彼は嬉しそうな顔を見せた。
「僕は親父が言葉にうるさかったんで、なかなか標準語がうまいこと使えへんのですわ。それにしても、ガイジンさんは京都がお好きですなあ」
 京風の抑揚と言い回しをもっと遠慮なく出してきた。
「ええ」
「町家なんかもお好きですし」
「ええ」
 男いわく、世界中に桁外れの金持が増えるにつけ、自分の国に日本建築やら日本庭園やらを作りたい外国人が増え、すると、どうせ作るなら京都の宮大工に頼もうということになり、最近は外国での仕事が急に増えているという。たとえば、今、IT関係で世界有数の金持のアメリカ人が、どこかの島をほぼまるごと買って日本建築の別荘を造ろうとしている。締めるところでは締めつつも使うところでは気の遠くなるような金の使いかたで、檜のなかに「赤身」と呼ばれる、腐りにくく、シロアリもつきにくい、高級とされる部分があるが、木材はその部分だけを使うことになっており、日本から運ぶ最中に熱でねじれたりするといけないというので、ふつうなら果物やらチーズやらワインを運ぶ「リーファー」と呼ばれる冷凍冷蔵コンテナを使うかどうか検討しているそうである。そんなこんなで英語のできる人も雇って始終アメリカの建築事務所と連絡を取っているという。
「学生時代にアホばかりしとらんで、もっと英語を勉強しといたらよかったのにと後悔してますねん。卒業してから英語習いに、ふた夏ほどアメリカで夏期講習受けたんですけど、なかなかそんなぐらいでは」
 返事のしようがないので黙っていると男は続けた。
「そやけど……」
 彼は口ごもると私の顔を見た。
「こんなこと言うたらなんですが、ほんまはガイジンさんが依頼しはる日本建築っていうのは、やっぱり、いろいろむずかしいんです」
 たとえば、と前置きをすると、そのIT関係の男は大男で、自分が頭をぶつけずに済むよう、鴨居の高さをふつうより三十センチ高く取るよう要請があったという。
「鴨居を高こうしたら、それに合わせて天井も高こうしないとあきまへんやろ。掘りごたつ式にして坐りやすいようにしてありますけど、坐ったら、天井が高こうて落ち着かへんのですわ。そやからガイジンさんのための日本建築ゆうのは、手抜きゆうことはないんですけど、妥協に妥協を重ねなあかんのです。こっちが納得いくようなもんは造れへんのです」
 そう言うと首を後ろに向けて顎で建築現場を指した。
「その点、こういう代々京都だったなんてゆうクライアントさん相手やと、それなりにやりがいがありますわ。緊張もしますけど。なにしろ身体が日本間に馴染んではるさかい」
「普請道楽なんでしょうかね」
「普請道楽」などという日本語を使う人は少なくなっているが、私の好きな言葉の一つである。かつてニューポートにイタリアから職人を連れてきて豪邸を建てた大富豪なども「普請道楽」と考えれば、わかりやすい。私が難しい日本語を使うのに慣れてきていた彼は私がその言葉を使ったという事実自体には反応しなかった。ただ、ここで「普請道楽」という言葉を使うのには異論があるらしかった。
 いやいや、と彼は手の平を顔の前で左右に振って否定した。これも日本人特有の仕草で、私がやっても妙に見えるのではないかと思って使ったことがない。
「こんな程度じゃあ普請道楽の部類には入りませんわ。クライアントさんもそんなにお金はないって言わはります。茶室も勧めたけど、要らないってゆうことやし。みんな、なるべく控えめにってゆう注文なんです。外から見たときも」
「数寄屋じゃないんですか」
「いいやあ、どちらかとゆうと小さな書院造りです。お茶を点てはるときのために一応炉は切りますけどね。書院だと数寄屋とちがって細かい細工もないし、なにしろわざと凝ってやつす必要もないですし。窶そう思うたら、もっと金がかかります」
 そのあとふと我に返ったように尋ねた。
「窶すって、難しいけど、わからはりますか?」
「ハイ、わかります」
 故意にみすぼらしくするという意味だというのは、わかっていた。
「すごいなあ。今、ふつうの人は、そんな言葉、知らはらへんですからねぇ」
 そう驚いてみせたあと、続けた。
「それに、もう引退してはるんですが、外国から戻ってきやはったご夫婦なんで、そのせいもあるんでしょうが、ちょっと変わったデザインなんです。やたら大きなウッド・デッキを造りたいって言わはって」
 右手に畳んだ図面をもったまま彼は両手を使うと宙に大きな四角を描いた。
 それを見た私は言った。
「このあたりではたまに大きなデッキを造りますからね」
 大勢の客を呼んでデッキでバーベキューをしている姿は幾度も見た。山の中腹にあるこの別荘地は全体的に土地が傾斜しているところが多く、庭を使いにくいところでは、ことにデッキを広くとってあった。この敷地も小川に向かって傾斜していた。
 うーん、と彼は例によって首を傾げてから続けた。
「そうかもしれまへんけど。離れのさらに離れのような感じで造るんです。その辺がどないな風に仕上がるかが、気になって」
 首を小川のほうに向けている。
 そのあと、図面を左手に持ち替え、ズボンのポケットから携帯電話を取り出すと時間を見た。自分はもう夕方には京都に帰るが、「奥さん」が長年信頼していた元職人が明日から代わりにやってきて、完成するまで現場監督をするという。
「もう年なんやけど、身体はよう動くんです、一応退職してんのに、まだウチにしじゅう顔出してて、この仕事はお金なんかどうでもええからやりたいて自分からゆうて。しかもこの人は庭もわかってんです。昔から庭が好きで。クライアントさんからも庭は適当でいいって言われてるんで、彼がいてくれるんやったら、京都からわざわざ庭師を連れてこんでもいいし、ちょうどよかったんです」
「なるほど」
「あたりまえですけど、僕なんかより、よほど色々知ってはりますよって」
「なるほど」
 男は忙しい風はなかったが、ほかの職人たちの手前、これ以上油を売っているのもよくないと思ったらしく、そこで話を切りあげ、ヘルメットに手をやって、それじゃあまた、楽しみにしといてください、と去って行った。それがこのえくぼのある宮大工の御曹司とも言える男の姿を見た最後であった。