新潮社

大使とその妻水村美苗

[第二回 2/3]

 一つは、その小屋の不便な立地にあった。水道と電気と電話線は引かれていたが、最後は行き止まりになる道の一番先にあり、しかも小屋に行き着くためには、車がようやく一台通れるだけの細いコンクリートの橋を渡らねばならない。おまけに狭い庭には唐松が何本か聳えてはいるが、実はそのすぐ先が急に陥没していて、危険である。今も残してある例の木の看板が風雨で汚れたまま小川の手前に立っていた。
「行き止まり。この先に谷あり、危険」
 不動産屋に案内された私はその看板を見ただけでまずは心が動いた。ほとんどの人はここで引き返すであろう。事実橋の手前も橋を渡ったところも広くなっており、車がUターンして引き返せるようになっていた。
 安く売りに出されていた理由の二つ目は、小屋自体にあった。あまりに小さく、簡素だったのである。手洗いと風呂場をのぞけば、台所がついた一部屋しかなかった。五メートルかける七メートルぐらいの長方形だが、造りつけの家具もなく、窓があるだけの殺風景な部屋である。しかも、建築家がこれみよがしにミニマリズムを狙って建てた小屋にも、環境保護者がその主義主張のために建てた小屋——私はそれには何の文句もないが——にも見えない。どう見ても平凡な小屋で、ベッドと机を隅に置けば、ウォールデン池畔の森にあるソローの小屋に似ていなくもない。東京でも簡素な生活を送っているが、ここではもっと簡素な生活を送りたいと考えていた私にはうってつけであった。
 不動産屋と一緒に事務所に戻って書類を整え、ホテルにチェックインしたところで私の財産を管理しているシカゴの弁護士にメールで連絡し、翌日、決めた時間に売り手の銀行口座に金を振りこんでもらった。外国人が日本で不動産を取得するのには煩雑な手続きを踏むこともあるが、永住権をもち、そのうえ即金で払えた私の場合は簡単だった。まだいくつかの書類の遣り取りは必要だったが、金が振りこまれたのが確認されたところで翌日私は軽トラックを借りると不動産屋に寄って鍵をもらい、そのまま小屋に向かった。
 国道を左に曲がり、高い木々に覆われた暗い下り坂を降りていく。するとじきに左右にあった山荘の姿が消え、あたりは雑木林だけになる。そこまではまったく文句なく気に入っていたが、さらに下へと降りていくと、小川に行き着く少し手前に、忘れられたような山荘が一軒あり、私は昨日不動産屋に案内されたときからその山荘が気になっていた。
 敷地は広く、充分に距離はあるが、私の小屋の唯一の隣家である。ゆっくりと通り過ぎれば雨戸が閉まっているだけでなく、建物も黒ずんでいれば、庭も荒れ、軽井沢によくある、何年も使われていない山荘だと見えた。北側の屋根に四角い物干し場のようなものが突き出ているのが特徴的といえば特徴的だが、従来の日本の木造の平屋の家である。ホテルは五泊予約してあったが、なるべく早く小屋を使えるよう、朝から降る雨のなかを隣りの道を使って南に降り、佐久という町で色々買物をし、それを軽トラックの荷台に載せて黄昏のなかを再び小屋に戻ってきた。忘れられたような裏の山荘には車も停まっていない。ゴールデンウィークにさえ来ていないということは、やはり使われていないらしい。雨は小降りとなり、やがて月が淡く出てきたが、私は刻々と迫る夕闇に隠れるようにして、人の敷地へと入った。湿気が多いこの地では、ペンキを塗らない昔の日本の木造家屋は人が使わないうちに下半分に苔が生え、あたかも朽ちそうな様子を帯びていく。この山荘も同様であった。南の庭に廻れば、雨に濡れた雑草が膝のあたりまで一面に生えている。雑草を踏み倒しながらデッキに近づくと、何か時を超えたような、異界に足を踏み入れたような、奇妙な感覚に捉えられた。
 デッキの板が無残に折れている。同時に一つの絵が浮かんだ。『源氏物語絵巻』の「よもぎゅう」と名づけられた絵であった。
 夕闇のなかで私はほかの人には理解しがたいであろう感銘を受けていた。日本人にはたぶんに滑稽に映るであろう感銘なのは承知である。彼らが苦笑いする顔が浮かぶ。やっぱりヘンなガイジンだ、と。滑稽であるよりも陳腐だと私自身が苦笑せざるをえなかったのは、絵巻のなかでも「蓬生」の絵は「鈴虫」の絵と並んでことに有名な絵だったからであった。でも、私自身一番好きな絵でもあった。
 多くが散逸してしまった『源氏物語絵巻』だが、残っている絵のなかでも傷みが激しく、全体が暗く沈んだ土壁色をしてすべてが漠々としている。本物が特別公開されるのが年に一週間ほどあり、そのときに眼をこらして見れば、ほかの雑草に混じって庭にうっそうと生えているのがよもぎだとかろうじてわかるぐらいである。夜露に源氏の裾が濡れないよう露を払いながら進む侍者の姿も、そのあとに続く源氏の姿も、顔の輪郭以外はよく見えない。目立つのは絵の左上に見える、源氏がさしている白い妻折傘。そして、なぜかそれ以上に、右上に大胆に斜めに描かれた縁側である。源氏を待ちわびる、宮家の血を引くが落ちぶれた末摘花が住む屋敷の縁側で、朽ちた板が腐って痛々しく折れているのが丁寧に描かれ、そこだけ不思議なリアリティがある。心にさまざまな思惑を秘めながらも、外見はひたすら優雅に暮らす貴族たちの姿がほとんどの絵巻のなかで、「蓬生」は、夜の暗さ、雨の冷たさ、時の破壊的な作用などが感じられる。
 日ごろ降りつる名残の雨 いますこしそそきて をかしきほどに 月さし出でたり
 月は絵には描かれていないが、帰りしなに上を見上げれば、実際の空に透明な輝きを増していた。
 以来私は裏の山荘を「蓬生の宿」と呼ぶことにした。翌日昼間にもう一度見にいけば、私の庭と同様、繁殖力の強い蓬が実際あちこちに生えていた。
 その夏から私は追分の小屋を使い始めた。
 ソローの小屋に似た私の住まいは鴨長明の庵に見立てて「方丈庵」と呼んだ。ほどせばしといへども、夜臥す床あり、ひる居る座あり、一身をやどすに不足なし、である。
 最初のころはベッドに仰向けになって天井を見つめながら、幾度となくこの「方丈庵」を建てた人物のことを思った。車一台がようやく通る橋の先に広がるわずかな土地、しかも谷に面した危険な土地に、こんな小屋を建て、わざわざ水道と電気と電話線を引いた人物。男の確率が高いと思う。家庭をもたなかった男。将来もつ気もなかった男。人とのつき合いが苦手で、私と同じようにこんな風に一人で寝転んでいるのが好きな男、そして何よりも朝夕散歩するのが好きな男を想像した。だが、世をのがれて山林にまじはるは、心ををさめて道を行はむとなり——と、隠遁生活をした鴨長明も、おのれの姿は聖に似せても、心はにごりにしめり、と結論している。その男も結局は心の平和は得られなかったのかもしれない。しばらく前から空になっていたというから、病気にでもなったのか。死んでしまったのか。彼と同じような嗜好をもった人間が買い、この小屋の真価を十二分に認めて使っているのを知ったら喜んでくれるのではないか……。
 国道を離れたあと、山荘が消えたあたりから小屋に至るまで続く狭い道は、俳聖、松尾芭蕉にちなんで「ほそ道」と名づけた。上のほうに山荘をもった人たちは、もし南に降りたければ、途中で横に通った道を西へと曲がったあと、「ほそ道」と平行した道を使って南へと降りていく。そうすると開けつつある佐久に通じる。私もごくたまに佐久に行くときは同じ道順で行く。「ほそ道」は——散歩する人や迷って入ってくる車をのぞけば——「蓬生の宿」を人が使い始めない限り、私一人の道であった。最初の数年は「ほそ道」に新しい山荘が建たないか、「蓬生の宿」を人が使い始めないかと、追分にやってくるたびに不安だったが、毎年毎年同じ光景が私を待っているのを見るうちに、その不安も薄れてきた。
 当時、この近所を散歩するのがいかに私に喜びを与えてくれたことか。高木が聳え立つなか、松葉が絨毯のように敷きつめられた道を行けば、道ばたには季節の野花が咲き乱れている。鹿や猪を見たこともあった。雉の夫婦と子どももいた。雑木林のなかを歩いていると、自分がいつの時代を生きているのか、どこにいるのかもわからなくなり、笠を被り杖をついた昔の日本の旅人のようなつもりになることもできた。春に天高く啼くうぐいすの音や秋にそこかしこに落ちている栗の実。あらたうと青葉若葉の日の光。よもすがら秋風聞やうらの山。行々てたふれ伏すとも萩の原……今の日本の気配から遠ざかれば遠ざかるほど、私が教科書を通してなじんでいた日本が身近く感じられた。
「蓬生の宿」にも散歩ついでに勝手に入って庭を歩き回ったり、穴のあいたデッキに座ってみたりした。このあたりのふつうの山荘はアメリカの郊外住宅ていどの庭しかないが、「蓬生の宿」は少なくともその三、四倍はあった。そんな広い敷地がありながら、私の小屋からもっとも離れた、「ほそ道」に近い角に建物が建っていたのは、そのほうが車を出し入れしやすいというのもあっただろうが、それと同時に、敷地の南を流れる小川からなるべく距離をとろうというのがあったのにちがいない。小川の音はかなりやかましいし、それに小川に近づくにつれ土地が低くなっていて足下が危なかった。水が近いせいで蚊も多かった。ある日、その小川に自分の裏庭から板の橋をかけるのを思いついた。「ほそ道」を通らずに小屋の裏に回り、藪を掻き分け足許の危ない板の橋を渡って「蓬生の宿」の庭に至るのは風情があるように思えた。だが、「蓬生の宿」を訪れたのも最初のころだけで、じきに、朝夕の散歩のときにちらと眺めるだけになっていった。「蓬生の宿」があのような姿で忘れられているのを、心からありがたく思うようになったのは、何年か時が経ってからのことであった。