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超越と実存―「無常」をめぐる仏教史―

南直哉/著

2,200円(税込)

発売日:2018/01/26

  • 書籍
  • 電子書籍あり

私とは、死とは、仏教とは何か――。

「諸行無常(=すべての“実存”は無常である)」。そうブッダが説き始まった仏教は、インドから中国、そして日本へと伝わる過程で、「仏性」「唯識」「浄土」などの「超越的理念」と結びつき、大きく変化していった。「恐山の禅僧」が、ブッダから道元までの思想的変遷を「超越と実存の関係」から読み解く、かつてない仏教史の哲学。

  • 受賞
    第17回 小林秀雄賞
目次
プロローグ――私の問題
序章 問いの在りか
死と自己/「無常」という実存/超越、または根拠への欲望/ブッダの思想はいかに変化したのか/最大の問題は「言語」である/実存の無常と超越への希求/「現代」への問い
第一部インド――無常の実存、超越の浸透
第一章 ゴータマ・ブッダ
決定的わからなさ/青年シッダッタの問題意識/二つの禅定の否定/苦行の否定/「無常」と「無我」の教え/「無明」の発見/「無明」の解毒としての「無記」/ブッダの「悟り」/実践の意味
第二章 アビダルマ、般若経典、華厳経典の思想
要素分割主義のはじまり/アビダルマの思想/般若経典の「空」/妄想からの離脱と実践、「空」の「実体」化/大乗仏典のブッダ/全体論的世界観へ/唯心の思想
第三章 法華経、浄土経典、密教経典の思想
「絶対」の主張/「普遍性」の保証としての「授記」/「永遠性」と見せかけの「死」/「法師」と「常不軽菩薩」/救済思想の導入/救済を可能にする「誓願(本願)」/「救済」の普遍性と念仏/超越の実存化、あるいは超越としての実存/「一致」の実践と言語
第四章 竜樹と無着・世親の思想
無記と空の論理/言語と形而上学の解体/言語という無明と実存の構造/認識の形而上学/核心としての言語/言語としてのアーラヤ識/言語と意識の解体
第ニ部 中国――超越論思想としての中国仏教
第五章 中国仏教、智顗と法蔵の思想
「天」の形而上学/「道」の形而上学/「格義」の仏教――初期の中国的受容/天台智顗の思想/「実体」の論理とその前提/「円融」の存在論/唯識思想の導入による「空」理解/「法界縁起」の理論化
第六章 中国浄土教と禅の思想
救済思想の構築/「濁世」と「衆生」/実体化への躊躇/「絶対」の救済/中国禅における断絶/中国禅の「心」主義と「見性」/「不立文字 教外別伝 直指人心見性成弘」/「清規」と「公案」
第三部 日本――「ありのまま」から「観無常」へ
第七章 空海以前と空海の思想
仏教以前の思想/形而上学の無用/仏教の伝来/「聖徳太子」の意義/最澄の登場/大乗戒の導入/空海の密教思想/独自の言語論/言語と存在の一致/超越の溶解
第八章 天台本覚思想と法然の革命
「ありのまま」の肯定/「天台本覚思想」の形成/初期の本覚思想/「ありのまま」主義の昂進/「ありのまま」の形而上学/浄土教の広まりと末法思想/法然の思想的革命/「一神教」的パラダイム/「日本」との断絶/浄土教の革命
第九章 親鸞と道元の挑戦
「ありのまま」主義の超克/法然と親鸞、その非連続/照らし出される「悪人」/『歎異抄』の言葉/「信」への問いと『教行信証』/『教行信証』の核心/仏教の突破/「観無常」の思想/「身心脱落」の修行/「非思量」の坐禅/行為としての実存/縁起する実存/修行する実存の編成/我らが時代の「仏教」
エピローグ――私の無常
おわりに

書誌情報

読み仮名 チョウエツトジツゾンムジョウヲメグルブッキョウシ
装幀 木下晋「祈りの塔」/装画、島田隆/装幀
雑誌から生まれた本 考える人から生まれた本
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判
頁数 256ページ
ISBN 978-4-10-302132-2
C-CODE 0015
ジャンル 宗教
定価 2,200円
電子書籍 価格 1,584円
電子書籍 配信開始日 2018/07/13

書評

「信心不問」の仏教史

高村薫

 私たち日本人の多くは、とくに仏教徒でなくともお葬式、お墓参り、仏像や古刹の拝観、坐禅体験などのかたちで日常的に仏教に出会い、仏に手を合わせることをする。それはつまり、そうして出会う仏教が、その人にとってそれなりの姿をしているということではあるだろう。けれども、世のなかには仏教と特異な出会い方をする人間もいて、たとえば母方の一族が全員、浄土真宗の僧侶と寺族という家に生まれた私は、物心ついたと同時に信心も菩提心もない自分を発見するという、尋常ならぬ仏教との出会い方をした。一方、子どものころから自分が自分である根拠が分からないという実存の不安に取りつかれ、15歳で「諸行無常」なる言葉に出会ったのを皮切りに、「無我」や「空」を説く仏教を発見していったと語るのが本書の著者南直哉師である。真理など求めていないと言い切り、「死とは何か」「私が私である根拠は何か」と問い続けることがそのまま「無常」となり、実存となっているという師の仏教観もまた、尋常ではない。
 とまれ人があるとき仏教に出会う、その出会い方によって仏教の入り口も異なれば、何を求めるかによって仏教の姿自体も大きく異なってくるはずだ。しかしこの国では、全国津々浦々を見渡してもそんな差異はほとんど見出せないし、僧侶や仏教徒を名乗る人びとの口から己の信のかたちが明確に語られることもない。それどころか、僧侶は宗派を問わず一様に仏の慈悲や報恩を説き、衆生もまた一様に先祖供養と極楽往生と種々の現世利益を願って幾ばくかの喜捨をする、金太郎飴のごとき風景が数百年来、この国の仏教の姿であり続けている。加えて、日本人の多くは仏に手を合わせたついでに種々の大神や明神、権現などにも手を合わせ、さらには道端の地蔵やご神木やご来光にも手を合わせ、交通事故現場に出くわせば供えられた花にも手を合わせる。この日本的、アニミズム的信心深さにとくに引っ掛かりを感じない善男善女の読者諸氏には、本書で師がいまさら執拗に仏教史を覗き込む理由を、ちょっと理解しづらいかもしれない。
 ひるがえって、還暦を過ぎてなお信心に出会えず、善女になれなかった私のような人間には、師の思索の遍歴は、仏教を知る入り口としてこれまでも実に身近で切実なものだったが、結論から先に言えば、本書に至ってついに〈あ!〉と声が出た。それが何であるかは本書の白眉だし、ミステリー小説の犯人を先に明かしてしまうようなものなので、ここに直接書くことはしないが、「信じることができない」実存の根源的危機を突破する方法はある。世のおおかたの宗教においてもっとも難題となる信心の問題をいかに乗り越えるかについての、鮮やかな発想の転換が本書では提示されている、とだけ言っておこう。まさにそこに辿りつくための、ゴータマ・ブッダの無明の発見から道元の「身心脱落」に至る、南直哉流仏教史なのだ、と。
 ところでインドから中国を経て日本に公伝し、そこからさらに密教や天台本覚思想を経て鎌倉仏教にいたる師の仏教史観を要約すると、言語機能が発動させる人間の意識が不可避的に対象となる「実体」を求め、それが高じてやがて超越的な絶対者や理念が「空」「無我」に侵入してくる歴史である。その上で、たとえば絶対的存在となった阿弥陀如来を称名念仏という発声行為によって「ナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツ」の音に解体してみせた親鸞、あるいはブッダ本来の「空」「無我」をもっと直截的に取り戻さんとした道元の身体技法が語られる。ちなみに師曰く、ブッダが禅定によって思惟の停止と意識の解体ができることを自覚したときに発見したのも、「悟り」などではありえない。なぜなら「悟り」がなにがしかの対象を必要とする以上、「悟り」それ自体が不可能だからである。よって親鸞はただひたすら念仏することを求め、道元もまた、ただひたすら坐ることを求める。
 ここに至って、師はものすごい総括をしてみせる。「仏」とは、「仏のように行為する」実存の呼称である、というのである。「悟り」も「涅槃」も認識不能だから、「自己」は仏にはなれない。「自己」に可能なのは、「仏になろうと修行し続ける」主体として実存することである、エトセトラ。
 とはいえ、こんな文章に触れて、何か腑に落ちたように感じるのも錯覚ではあるのだろう。いかにしても言語を離れられない「邪見驕慢の悪衆生」を前に、現代の禅僧はまたしても手が届きそうで届かない仏の有りようを簡潔に提示して自若泰然としている。

(たかむら・かおる 作家)
波 2018年2月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

南直哉

ミナミ・ジキサイ

青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職(ともに曹洞宗)。1958年長野県生まれ。1984年、出家得度。曹洞宗永平寺で約二十年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』(新潮新書)、『死ぬ練習』(宝島社)などがある。

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